第145話 邪神

 その日。

 どこまでも続く青い空に、突如として小さな亀裂が走った。


 あらゆる光を吸収してしまうような、漆黒の亀裂。

 それは徐々に長く、さらには太く広がっていき――やがて、人が一人、通り抜けられるほどの大きさにまで成長する。


 漆黒の中から一本の腕が現れた。

 短くて太い、人間のものと思しき腕だ。


 続いて頭部が姿を現した。


 随分と丸っこい頭部だ。

 顔の各パーツがどうにもバランス悪く配置されているせいか、愛嬌があるとも言い辛い、率直に言えば不細工な顔面。

 前髪は後退して禿げ上がっている。


 さらにぽっこりした胴体、逆の腕、そして短い足が出てきて、その全貌が露わになった。


 人間のおっさんである。

 小柄で、小太りで、禿げたおっさんである。


 だが何を隠そう、一見すると不細工な中年にしか見えないこの男こそ、復活した邪神なのだった。


 今から千年前。

 彼は神々の力を付与された聖剣を手にした一人の男によって、あと一歩で消滅してしまうところまで追い詰められた。


 どうにか異空間に逃げ込み、それを免れることができたのだが、こうして力を取り戻すまでの長き年月に渡って、その男に対して抱き続けた強い憎しみの感情が、皮肉なことに自らの外見にまで影響を及ぼしてしまったらしい。


「忌々しくもあるが、しかし悪くはない。この姿で奴が救った世界を破滅させるというのも、一興というものだろう」


 彼はそう思い直し、男の顔でニヤリと笑う。


 ……残念ながら、その姿が人間の価値観から見て滑稽なものだということを、邪神である彼は知らなかった。


 世界を滅ぼす邪神にしてはどうも締まらない姿ではあるが、その力はかつてを大きく凌駕している。

 今なら、たとえあの男と聖剣が再び自らの前に立ちはだかろうとも、軽く破壊することができるだろうと、彼は確信していた。


「……だが、これは一体どういうことだ? 我の復活に先立ち、何体か先兵を送り出しておいたはずなのだがな」


 空に浮かんで辺りを見渡しながら、彼は不服そうに呟く。

 実は事前に彼の配下とも言える魔物たちを解き放っておいたのだ。


 禍々しい瘴気を纏うそれらは、千年前も彼の命令に応じてこの世界を蹂躙し、各地に甚大な被害を与えた。

 大地も海も空も、生き物の棲息が不可能な穢れた場所へと変えていったのだ。


 しかし今、見渡す限り、豊かな自然が広がっていた。

 瘴気の欠片も窺うことができない。


「我の復活を祝うのが、このような光景とはな……」


 邪神である彼にとって、この光と緑に溢れた世界は唾棄すべきものなのだった。


 と、そのときだった。

 ふと魔力の予兆を感じて、彼は眉根を寄せる。


 前方、数十メートルほど先。

 そこから転移魔法特有の波長を感じ取ったのだ。


 何者かが自分からそう遠くない場所に転移して来ようとしているらしい。

 なんと不運な輩だろうかと、彼は嘲笑う。


 やがて予想していた通り、そこに一人の人間が姿を現した。


 何にしても復活した彼が遭遇した最初の生命である。

 どうやって殺そうかと、楽しげに思案していると――その人間は、彼の姿を見て一瞬驚いた後、彼にとっては意外な言葉を口にしたのだった。


「あんたが邪神だな?」




   ◇ ◇ ◇




「あんたが邪神だな?」


 そう問いながらも、俺は内心では首を傾げていた。


 こいつが邪神……?


 もしかして何かの間違いではないだろうか?

 と思ってしまったも、どこからどう見ても、あの地下遺跡で会った英雄のおっさんにしか見えなかったからだ。


『どういう理由かまでは分かりませんが、恐らくその姿を模倣したのでしょう。それくらいは簡単なはずです』


 なるほど。

 しかしなぁ……萎えるだろ、これは。


 もっと邪神っぽい禍々しい感じの見た目にしてほしかったぜ。

 せっかく意気込んで討伐にきたんだからさ。


『マスター。あの見た目に騙されてはいけません。中身はあくまで邪神。堕落しているとは言え、正真正銘の神です』


 ナビ子さんの言う通りだ。

 さっきから鑑定しようとしているのだが、すべてエラーになってしまう。

 俺の〈鑑定・極〉スキルを持ってしても、どうやら防がれてしまうらしい。


「ほう。この我を知った上でやってきたのか」


 邪神はどこか感心したように頷いて、


「どうやら死に急いでいるようだな。くくく、いいだろう。ならばじっくりと時間をかけて、存分に苦痛を味わわせた上で殺してやろうではないか」


 口端を歪めて嗤う邪神。

 しかし見た目が禿げたおっさんなので、まるで似合っていない。

 思わずこっちが笑いそうになってしまった。


 そんな俺の様子が予想外だったのか、邪神は少し怪訝そうな顔をしている。


「言っておくが、お前が送り込んだ厄介な連中たちを全滅させたのは俺だぞ?」

「なに?」


 百柱の女神たちに会った後、俺は世界各地に次々と現れたこいつの配下たちを倒して回ったのだ。

 頑張った甲斐あって、被害はほとんどない。


 俺の言葉に、初めて邪神は真剣な顔つきになった。

 おっさんの顔だが。


「まさか貴様は神々から聖剣を与えられ、この我を倒しに来たのか……? ちっ、奴らめ、我の復活を予測しておったのか……!」

「いや、持ってないぞ。予測はしていたっぽいけど」


 だったら新しい聖剣をくれたらいいと思うのだが、今回はそれができない事情でもあったのだろう。


「あと、お前を倒しに来たというのも間違いじゃないぞ」

「聖剣もなしにこの我を倒すだと? く、くくくっ……くははははっ! なんと愚かな。どうやら我の配下を倒しただけで良い気になっておるようだな。だがあんなもの、幾らでも生み出すことができる。――この通りだ」


 邪神がおっさんの短い腕を頭上に掲げたかと思うと、膨大な魔力が一転に収束していく。

 禍々しい瘴気を伴う魔力だ。


 やがてそれが弾けて巨大な魔物が姿を現した。


 巨大な蛙である。

 ただし背中に昆虫のような翅が生えており、宙を飛んでいた。


 先日、レイン帝国領内にも現れたやつで、もちろん俺が討伐した。

 確か地下遺跡の壁画にも似たようなのが描かれていたっけ。


「一匹だけではないぞ」


 さらに邪神は、巨大な配下を次々と生み出していく。

 放っておいたら無限に出てきそうだ。


 なので早急に本体を叩くことにした。


「神級魔法――〈大罪浄化ス煉獄ノ炎〉」


 最上位の火魔法である。

 超々高熱の火炎の竜巻が出現し、邪神の身体を焼き尽くさんとする。


「何だ今のは?」


 だが次の瞬間、まるでマッチの火が吹き消されるかのように、神級魔法の炎が掻き消えた。

 そこにはまったくの無傷のおっさん……もとい、邪神がいる。


「効いてねー」


 どうやら大小関係なく魔法そのものが効かないらしい。

 か〇はめ波が効かない天〇飯みたいなものだ。


 たぶん物理攻撃も効かない気がする。


 ならばと俺は、最強のぶっ壊れスキルを使うことに。


「死ね」


〈即死攻撃・極〉スキルだ。

 効果は相手が死ぬ。


「な……」


 邪神の身体がボロボロと崩れていく。

 そして灰となって、霧雨のように地上へと落ちていった。


「全員、死ね」


 ついでに配下の魔物たちも殺しておく。

 一体一体普通に倒していくと面倒だしな。

 巨体が次々と灰と化す。


「……倒せちゃった?」

「いえ、さすがにそう簡単にはいかないかと」


 舞い落ちる灰から瘴気が噴き出し、一か所に集まっていく。

 気づけばそこに先ほどと変わらないおっさんの姿があった。


 おおう、まるで魔人〇ウだぜ……。


「今のは相手を即死させるスキルか? 肉体的な死など超越した神である我に、そんなものが効くとでも思ったか」


 どうやら伊達に神の名を名乗っていないようだ。

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