東京とクーデター

@rabbit090

第1話

 ありふれたキャンバスに、絵を描く。

 これはドローイングの授業で、僕は巷で言う、優等生だった。ガッチガチに固まった思考で、周りを意識しまくり、破滅へと向かう、そういう存在。

 「………。」

 黙りこくる。心の中を空っぽにして、何もしゃべらない。だから、僕は苦しまなくて済むはず、そう思っている。

 「じゃあ、今日は終わりです。また明日、会いましょう。」そう先生は告げて、この長い一日は終わりを迎える。この瞬間、僕は一日を、同時に終える。家に帰ってからは、屍と化す。何の変哲もない、ただの人間として、過ごす。

 でもどうやら、おかしいのかもしれない。

 そうだ、おかしい。何でおかしいってことに気付かなかったんだろう。だって僕は、いつの時間も独りぼっちだったじゃないか。学校へ行っても、家へ帰っても、話す存在など、いない。なぜ?なぜ?

 そして、なぜ僕は今になってこんな当たり前のことに疑問を持ち、なぜ今まで全く疑心を抱きもしなかったのか、不思議でならない。

 考えてみれば、学校に行くのは僕の中で義務になっていて、家に帰ってから誰とも顔を合わせないことは当たり前となっていたのだ。僕はそんな中で、最近、痛切にじりじりしている。

 このままで、いいのかって。 

 「よくないと思うよ。」

 は?誰だ。突然響いた声に僕は驚く。この静まり返ったたった一人の空間で、何が起こったのだろう、そんな疑問が頭に上ったのだ。

 「いや、僕はここにいるって。探したって無駄だけどね。」声は告げる。

 無性に不気味になって、一人称で”僕”と告げるその声は、方向性を持たず響き渡っている。だから、「お前、誰だ?」そう口ずさむ。「お前って、僕は僕だよ。何者でもない、確固たる僕。それだけだよ。」そう告げて、気付いた時には朝だった。

 何が起こったのかは分からないが、”僕”との会話の最中に意識を失い、目覚めたら朝になっていて、僕はベッドに横たわっていたということになる。そんな馬鹿な、これじゃあただ寝て夢を見て起きただけということになる。だが違う、確かにはっきりと現実のものとして、僕は”僕”と対峙したのだ。五感が、覚えている、この表現がこんなに当てはまることはないんじゃないかと、初めて思った。

 でもまた朝が来てしまったので、冷静を取り戻し日常を繕う支度にとりかかる。

 「いや、冷静になんてなれない。」ふと僕は、心の中で呟く。

 感情の波のない、なんてこともない、なんて何かもない、そんな中に降ってきた奇妙、僕は俄然と気持ちが高揚している。それは是なのか非なのか、今は判断がつかないのだけれども。

 今日はいつにも増して人が多い。

 僕は電車通学をしているから、毎日揺られながら1時間ほど、乗車している。本当に東京は人が多くて、嫌になる。嫌にはなるんだけど、田舎なんかでは絶対に暮らせないと思うんだ。だって僕には生活能力というものが全く欠けているから、社会性とか協調性とか、誰に教わるでもなく生きてきたのだし。

 「おい、お前。」ぶしつけに声をかけてきたのは、唯一の話し相手、図書館の司書である優吉ゆうきちさん。

 結構口が悪くて、ぶっきらぼうなしゃべり方をするのだけれども、「今日入ったよ。お前がこの前欲しがってた本が、入荷したんだ。一番目に、読ませてやるよ。」そう言って手渡す。

 『パラカラ・コジュ』

 昔あるところに、くすんだ色をした噺家はなしかがいた。彼は一時は有名になり富を手に入れる。だが、生来の気質が災いして全てを失っていくのだ。まずは妻だった。理由というものはなかったらしいのだが、愛想をつかされたということだ。

 そして次に失ったのは、仲間である。彼は周りにいる人間をことごとく不器用に扱った。だから、またどんどん、次々、次と手に入れたものを失っていき、気付けば本来の彼、ただの不器用なパッとしない男がそこに佇んでいた。

 嵐のように起こっていった出来事にただ茫然とすることしかできず、次第に風化していき、その存在はこの世から消えてしまった、らしい。

 「面白い。」

 僕は感想を優吉さんに告げる。「お前は変な奴だな、こんな本、何が面白いのか俺には分からないよ。だって、何も結論を付けていないし、あのうやむやな感じが俺にはうまく刺さらない。」と言うのだけれど、僕は全く正反対だ。

 この本は、屈折している。

 その屈折角度が非常に微妙で絶妙で、言い表すなら37度くらいだろうか。グラグラと様子を変えながら、だがその角度は全く変えずに世間という荒波を歩く。だからうまくいかないことだらけなのだけれども、たまに偶然すっと何かがはまったように幸福を手に入れる、そんな物語だと解釈しているし、僕はその点が好きなのだ。

 「作者は、呂亜土雪ろあどせつという。」優吉さんは話しかける、僕は「うん、この人女か男か全く分からないんだけれども、ベストセラーだよね。」と言う。そう、確かに呂亜土雪はベストセラー作家として大衆に認められている。「だからさ、優吉さんはこの本を好まないって言うし、少数派なんじゃないの?」と吹っ掛けてみると、いや、出来心だったんだけれども、「ふふ、確かにね。俺は昔から好みが人と異なっていたんだ。だけどさ、いわゆる一般的なまっとうなことを説いている本を好んでいるんだから、おかしいのは屈折した本を好む現代の読者一般だよね、って思う。」それはそうだ。

 優吉さんは口は悪いのだが、非常にできた人間なのだ。きっと生まれる時代を間違ったんだろうっていうほどに、徳を積んでいると言った方が良いのかな。

 僕は、優吉さんといるとひどく虚しくなる、だが同時にものすごく楽しくて仕方ない。

 いくらか漠然としていた時だった、突然飲み込まれたのは。

 飲み込まれたまま何もなくなってしまって、行きついたのは見た事もない場所だった。

 「クーデターだった。」

 僕は、何だったけ?

 確か優吉さんと会話していてそのまま寝入っていた間だったように記憶している。ほんのついこの前のこと。

 知らぬ間にここは別の国になっていた。ありふれた東京で何の不満もなく、何の欲求も狂おしく求めることもなく、のっぺりと臥せっていたはず、なのに、あれ?

 状況を整理すると、今まで住んでいた東京という所は世界から追放され、存在を消され、だがそのものをなくすことなどもちろんできず、名前を変えるに至ったという次第だ。

 ヘッセンウォー、それがこの場所の新しい名称だという。意味も何もなく、ただクーデターを起こした人間がその血なまぐさい手を握りしめて作り出したらしい。ひどく、醜い。

 クーデターは過去の東京を血みどろという歴史で刻み付け、多くの人間が自らの意思とは関係なく新しい人生を強要されるに至ってしまった。

 理不尽、尽く全て。

 気付いたら、自分というものを失くしていた。そしてそのことには気付かない。

 「チュンチュンチュン。」

 夜明けだ。最近は自然環境を意識して保護するという徳の高い活動に多くの人間が励んでいるため、僕はこのうるさい小鳥にいつもつつかれるように目を覚ます。いい加減、そろそろ死んでしまいたい、そんな感情がここ近年は無意識のうちに募ってくるように浮かび上がる。

 だって、だって、おかしい。本当におかしい。

 衣食住を満たされた人々は、そのあり余った本能を慈善活動という善意で発散させている。いや、それはべつにいいのだ、だが、僕は徹底的にそのような活動に前向きになれるほど完成されていない人間なので、どこか体の中が拒んでしまう。

 だが、だが怖ろしいのは、そのような人間はこの新しい世界では死に値するということなのだ。

 何が一体真実なのか、それの答えがあるのか、まあ、全く何も分からず、僕は軍隊へ行くことになった。手に職を付けていない者はすべて軍隊に徴兵されるというシステムが出来上がっている。僕は生憎要領の良くないものだから、このいさかいの多い世界では負けを連発してしまった。というか、多分勝ちというものに対する執念が皆一体どの部分から湧き上がってくるのかが、いまいち理解できていないだけなのかもしれないが。

 「ピー!」けたたましい音とともに僕は目覚める。今になればあの小鳥のささやきも心地よかったのではないかと思ってしまうほど、グンと響くような異音である。

 「なあ、お前若いな。いくつなんだ?」そう声をかけてきたのは、同じ部屋の隣のベッドに横たわる羅賀稚らがちさん。「いや、実はまだ高校生になったばっかりだったので。」と答えて、彼は非常にいぶかしがる表情を見せる。

 「え?君、いやお前、高校生だったのか?だって、前の高校生っていったら皆就職してるだろ、他所よそで。」そう言い募る。そして僕は困った顔をして、彼に見せつける。

 そうなんだ。確かにそうなんだ。

 同級生は皆混乱の中でもまっとうであるならどこかへ就職するという道を選んでいた。その先は良いのか悪いのかは判断がつかないけれども、とにかく安定を求める人々はその行く先として就職という形を選ぶことになったのだ。

 僕はでも、いや僕も就職がしたかった、だけどどこからも採用の通知は来ないし、ただ仕方なく浮浪者と化していたら、偶発的にいや、必然的に軍隊へ行くということになってしまったのだ。

 【クーデター】

 東京は腐敗した街である。

 いつまでたっても何事も決着がつかず、世代交代を繰り返していくだけで、きっとこのままでは滅びてしまうだろう。人間はなぜ、自らの欲求を封印して生きているのか、彼らは気づきもせずそれが快適だと勘違いし、誤魔化しているのだと私は思う。だからいつか起こりえるクーデターを妄想しながら、ただ時を待つ。

 私は、呂亜土雪という。

 はっ。

 目が覚めた。そうだった、今は軍隊の宿舎にいるんだった。隣を見ると羅賀地さんがすうすうと寝息を立てている。羅賀地さんは見た目の武骨さとは異なり、繊細な側面を持ち合わせている、だから起こさないように息を潜める。

 そのまま潜水艦の中に潜り込むように、布団の中で思考の海に落ちよう。

 なんだか不思議な夢を見た気分になっている。だけど残っているのは後味だけで中身については一切思い出せないのだけれど、少しずつ辿ってみたいと感じている。何故だかは分からないが、知りたいのだ。

 「呂亜土雪。」

 「呂亜土雪?」

 「呂亜土雪…」

 そうだ、呂亜土雪だ。

 僕は図書館の司書であり、話友達のような存在だった優吉さんを忘れていた。すっかり、なぜかぽっかりと知らない間に記憶から抜け落ちていたようだ。こうやって、布団の中で思考を巡らせている時にだけ、僕は本来の能力と言っていいのか、そういうものを発揮できるようで、思い出す、忘れていたあれこれを、全部。

 優吉さんは一体今何をしているのだろうか。呂亜土雪を好まないといったあの男は、この混乱の中をどのように過ごしているのだろうか、そんなことを思う。

 だって、そもそもこうやって元の東京がクーデターに見舞われその形を変質せざるを得なかった理由は、呂亜土雪なのだから。

 〈呂亜土雪〉

 幼い時分だった、薄暗い闇の中ワーワーと叫びまわっている少女は、私。

 持て余していた、退屈を。でもほかの子供たちはそんなに迫るような思いを抱えていないようにも感じていた、だから私はひと暴れするしか選択の余地がないと思っていた。毎日荒れ狂うように暴れまわり名づけられたあだ名が、「ボルケーノ」。

 ボルケーノと呼ぶのは母だった。なんて品のない言葉を使うのか、と子供ながらに疑問を感じていたが、だが子供にとって母親はすべてであり世界なのだ、だから私はただ受け入れていた。自分が歪んでいることにはずっと割とはっきりと気づいていたけれど、いかようにもできないそれは無視するに限ると思い込んでいた。

 だけどあの日はいつだったかな、私が人間をやめたのは。人間なんてきっと簡単に捨てられる、そう気づいた日でもある。

 「ハアハアハア…。」

 「私、ヤバい…。」なんだか不穏な空気の中、木下雪きのしたゆきは呟いた。荒い息に負けそうで、呼吸がひどく苦しい。ぐらつく頭を何とかしっかりさせて、立つ。目の前に広がるのは、

 死にかけた…何だ?人間なのだろうか、それにしてはおかしい、だって体中から毛が生えているから。動物みたいに、ふさふさとした毛が、しっかりと生え渡っている。

 だが彼、つまり男は今にも死にそうな呼吸をしていて、私はひどく憔悴している。いや、だから、私には分からない、この状況が何なのか、なぜ私は両の手が血みどろになっているのか、なぜ目の前の男は血まみれなのか…。

 「教えてよ。」

 何かに助けを求めるように、こぼれた言葉だったのだが、「カタンッ」物音が突然響き渡る。ずいぶん子気味のいい音だったから、少しビクッとなってしまった。見るとそこには穴が開いていて、私は吸い込まれるように体をそこへ入れ込む。

 目前に広がるのは、ピンク色の一面、何だろうか非常に異常に香りの強い感じがする。目を凝らすとそのピンクは花の集合体であった。一つ一つの花は強烈に不機嫌なようで嫌な感じを醸し出している。生き物、これを現わしているかのような。

 私は気づいた、私は人間に対して、いや生物に対して、犬とか猫とか小鳥とか全部、みんながみんな、私に嫌悪を感じていて、拒絶しているような感覚を持っていることを。そして同時に私は拒絶されながら、拒絶している、そんなことに気付いてしまった。

 は、もうツンとくるにおいに鼻が折れてしまいそうだったけれど、ふっと湧いてくるあの凄惨な血みどろな状況を思い出し、ただ逃げることだけに集中する。なぜ私はこの奇妙な場所にいるのか、そもそもここは何なのか、全部全部一切考えない様にしよう、だって、苦しいから。気を抜くと現実が舞い戻って襲い掛かってくるのだろうと決めつけ、逃げ惑っている。

 「………」

 もう声も出ない。何でか、だって何年も誰とも会話をしていないのだから、あれ以来、あの凄惨な事件に遭遇した時以来、私はこのピンクの場所から抜け出せない。沼にはまったような錯覚を最初は持っていたけれど、今はもう何も感じない。これをうつろ、と言い表すのだと気付く。

 だげど、私は抜け出したい。この空っぽの場所から。きっかけは何もないけれど、ただ苦しいということに気付いたからっていうだけみたいだ。

 抜け出そう。

 決意なんて言葉が適当な状況なんて、なかなかないと思うし、だけどこの状況ではその言葉が嫌に当てはまるように感じる。

 しばらくすると目の前には光が見えてきて、どんどん、だんだん、視界が開けていく。広がっていたのは、ただ荒廃した場所だった。

 ああ、なにも終わっていなかったのだし、片付いていることなんてないのだと気付いてしまった、目を閉じて何年も凝り固まって潜んでいた場所は、正体不明ではあったけれども、どうやら私を守ってかくまってくれていたようだ。そんな訳の分からない善意なのか何なのかをうっすらと思考の片隅におきながら、現実を見つめる。

 目に映るのは、固まって固着した大量の血と、横たわる男の姿だった。

 何も変わってなどいない様子で、より悲惨になってしまったようにも感じる。まだ生きていたはずの男は、もう呼吸をしている様子は見せない。

 抜け出した先に広がっていたのは、絶望だった。

 【東京】

 この街は突如世界から追放された。

 それまでの姿は高度に発達した文明と数多あまたの人が行きかう活気にあふれた街だという呼称を他から受けていたはずなのに。

 〈木下雪〉

 この街の町長というか、長という役割に私は鎮座している。

 長というのは表向きな知事などではなく、裏からすべてを牛耳り決済するという職責を持つ地位になる。

 こんなにけがれてしまった私を拾ってくれたのは、あの人だった。

 「人を、殺してしまった。」

 人なのかどうなのかも分からない得体の知れない生き物はすでに死んでいて、両の手に付着する固まった血を眺めながら唾をのむ。どうしようもない状況に心が追い付かず、あたふたとしながらどこかへ逃げることにした。

 だって、私は知らないから、何かを殺してなんかいないし、記憶は全くないもの、そう言い聞かせてとにかくひた走る。だが人間の体力などたかが知れたもので、すぐに息切れを起こし、とたんにすべてに対してやる気がそがれ、休息を求める。疲れ果てていた心も、どうやら立ち止まって休むことを欲しているようだった。

 公園のような場所で人気ひとけはなく、そこに設置されているベンチに腰を掛ける、すると途端に全身からはにゃっというような力の抜け方を感じ、のろまになっていた思考回路がクリアになっていくことを感じる。

 「………」

 あれ、私、ここ、どこだろう。

 なんとなく不思議な感覚が体中を纏い、記憶がひどくあいまいでこの場所がどこなのかという感覚がいまいち掴めない。

 あ、そうだ。ここは私の部屋で、お母さんが眠っている。お母さん、母はこの狭い団地の中で暮らし、私と同じ部屋で寝食をともにする。2LDKで部屋数としては一人部屋を作ることもできたが、仕事を終えてひどく疲れた様子で横たわる母を独りにはしておけない。それを母もどうやら望んでいるようだった。父親という存在のいないこの家では母は眠れないようだ、だから私が寝かしつけてあげるのだ。そんな生活を続けている内に、私はなぜか無意識に心をかきむしるような焦りを感じ始めた。

 父親というか、私の父であり母の夫は死んでしまった。

 皮肉なことに母にも私にも、この家の全てに対して愛情を残さずにあっけなく事故で死んでしまったのだ。つまり幼い私の手を引いて一人で世界に立ち向かわなければならなかったし、でも大好きな人の子供でもないのにそれだけ大きなことを成し遂げるのは簡単なことではなかったようだ、だから私は。

 だから私は、母が最低限の食事しか与えず、食べたかどうかを確認もせず衰弱していくことを放置していたことを憎むことはない。

 女という生き物は卑劣だ、だってか弱くもろいのだから、それが社会通念として存在するのだから、私はおのずと母を慈しみ大事にしなくてはならなかった。

 多分本音と異なるというひずみがさらに私を歪ませ、取り返しのつかないことになっていたのだろう、もう耐えきれないと体がSOSを発信したんじゃないか、なんて感じるようなことだった。

 ある日、足が止まらなかった。

 「ハアハアハア…」呼吸が苦しい。「ハアハアハア…」だけど心地よい。ランニングハイって言う言葉があるけれど、まさしくそんな感じ、こんなに一生懸命走り続けているのにすべてに祝福されているような異様な感覚。

 「私は母を置いて家を出た。」そう呟く。

 決められて変えられない生活から抜け出してしまったらしい、いや捨ててしまったと言った方が良いのか、だからこの事実に伴う責任も何もかもすべてを私は受け入れないといけない、なんてじりじりとあの狭い団地の中では思っていたのだが、今はもう、ただ感じる疾走感のような清涼感のような体中に吹き渡る風を浴びているような、この心地だけが正解なように思えるのだ。

 「そうだった、夢だったみたい。」

 昔の記憶をさかのぼっていたらしい、目覚めるとあの公園のベンチの上で私は横になり眠っている格好をしていた。

 私はとうに取り返しのつかない程汚れた人間だということを再認識し、今目の前に広がる悪魔のような苦しい現実とも向き合わざるを得ない、そう思う。

 だけどやっぱり私は自分が何をしたのかもさっぱり思い出せないし、なぜあの人間とは少し異なるような男が死んでいて血まみれになっているのかも分からない。一番分からないのは、染まった私の両手、血にまみれているということ。

 一体何があったの…

 「君、随分と汚れているね。」突如降ってきた謎の言葉、一体誰?

 そう思って見上げると、「ははは、別に怪しくはないよ。僕は一生懸命生きている君を、分かっている。」そう言い放つ。なんだか地味に肯定されたようなそんな気持ちが沸き上がり、思わず泣いてしまったようだ。

 「泣く程、なんだね。」

 「汚れているのは君のせいじゃない、汚れてしまったのだろう、汚されてしまったのだろう。」そんな哲学的な言葉を私の目を見ながら呟く。だから、「あなた、一体誰なんですか?」と問いかけてしまった、随分ぶしつけな聞き方だったかもしれない。

 ふっと笑いながら男は言う「僕はこの星の者ではないから、ひどく客観的に君たちを観察できるんだよ。」と、「えっ?」訳が分からず思わず言ってしまう、だけど彼は「さっきの言葉が真実であって他のことは何もないんだ。」とさらりと募る。

 つまりどうやら私の頭で理解できる範囲では、あの男、彼は私が泥のように這いつくばっているこの東京の、いやこの世界の住人ではないということなのかもしれない、と解釈した。

 黄緑色の液体が、広がる。

 何、これは、一体。そんな疑問が頭をかすめている内に、彼は私の手を掴み腕をくっつけそして、気が付けば夜の中で泳いでいた。

 上から街を見下ろす、こんな悠長なことは初めてだった、しかも飛行機でもヘリでもドーロンでもなく、リアルな空気、すごく冷たくて心地いい。

 はあ、なんて優越だろう、今までの全ての苦労も取り越しで、私は今最高に浸っている、酔っている、憂いている、何だかこみあげてくる悲しみを、哀しいものとして昇華した。

 そして、「君は今からこの街の長となってくれ、君のようなどん底に潜むものを取り立ててみたいという欲求があってね、だから。」と彼は言うのだが私にはさっぱり何のことだか分からずに、「つまりそれって…」と聞き返す。

 さらっとした髪を近づけながら「君が適任なんだ。」とはっきりときっぱりと告げる。私はもう行く当てもなかったからつい「じゃあ、お受けします。」と口ずさむ。

 その瞬間私たちはお互いに至上の幸福とでもいうのだろうか、そんな心地を共有したのか笑顔を見せあう。

 〔エンドロールに近づく頃〕

 僕はこの新しい東京で、いやヘッセンウォーという名で、違和感を体中に抱いている。そもそもおかしい、何もかもが全て、一体なぜ呂亜土雪は作家でありながらクーデターなどおこしたのか、なぜそれに賛同するものが現れたのか、なぜみんなは違和感を現実として飲み込んでいるのか…。

 とにかく一番変わったのは新しい生き物の台頭だ、その生物は人間のような姿をしているが僕は思う、あいつらは人間じゃないって、だって体中からふさふさした毛が生えているとかいろいろな根拠はあるけれど、肌感としてなんだか人間ではないのに人間を装っているような冷酷な感情を感じるのだ。正直、怖い、恐ろしい、その通りだ。

 僕はだから、向かう。

 この違和感を見過ごさないために、つまり、何だか異星人に侵略されてしまったかのような状況に対峙しているのだと、僕は思っている。

 呂亜土雪は、一体どこなんだ、けど絶対に見つけ出してやる、この感情は憧れのベストセラー作家と対峙する青年のものではなく、異端者を糾弾するような、そんなちゃちな正義感でもなく、ただ追及しているのだ、真実を。

 少し前に羅賀地さんが言っていた、この軍隊は呂亜土雪が指揮を執っていると、姿こそ見せないものの、確実に確かにはっきりと、呂亜土雪の意思が通っているということを。羅賀地さんは軍隊を嫌っていて、抜け出したいと言っていた、ぼくはああ、やっぱりみんなもそんなもんなのだ、と思ったのだ。

 義務に溺れる、苦しい世界、この言葉が良くあてはまるのだと感じる。

 噂をたどり呂亜土雪が”居る”という居室へ向かう、そこまでの道のりはひどく険しいもので、もう全身は血まみれだ、だが、だが諦めるつもりはない。今の目標はこれだけなのだから。

 「うっ…」だけどそろそろ限界だ、もう目の前は朦朧としていて、もはや何も掴めるような気すらしない。最後の意地のようなもので、ずりずりと何かの部屋に入り込んだようだ。

 「人生には思わぬことが起きる。」すると何者かの声がささやく。

 「私が呂亜土雪、いや木下雪という名が本物なの。」女の声、呂亜土雪?え、この女が呂亜土雪なのか?

 たいして年も変わらないような幼くあどけない女が僕の前にしゃがんでいる。そして、「そうだよ、この東京は侵略者に乗っ取られた、それが真実。」と女は言い、僕は探し求めていた答えを手に入れた。

 だが、「なんで君は、こんな場所にいるの?何で君は、全てを知っているの?」そう聞くと、女は、呂亜土雪は、いやその可憐な姿を表すとしたら、木下雪は…

 困った顔をして僕に見せる。

 「ごめんね、私には何もできないの、私は無力な人間だから。」そうぼやき、僕の感情はもう穏やかなまましぼんでいった。微かな視界の中で、五感の内もうほとんど機能を失った視力と、聴覚が研ぎ澄まされる、そして感じる。

 「これは一人ぼっちの私の無抵抗な服従なの。」

 涙のような液体が、肌に当たったみたいだ。

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