第5話 真の憎悪 1
静かな夜に僕は出会ってしまった。
「こんばんは、少年」
女が何者で、何が目的なのかは一切分からない。それでも、人間の本能とでもいうのか、僕は女が人間ではないとすぐに分かった。
黒いフードを羽織っていて、見えるのは、女の口元だけ。けれど、その口元にも黒いモヤがかかっていて、あまりよく見えない。
背は僕よりも少し高く、コツコツと音を立てながら、近づいてくる。
ただ、呆然と床に座り込む僕をなんの迷いもなく、見つめている。
「なぁ少年?君は今、何をしようとした?」
まるで少し、小馬鹿にするように女は口にする。
「え…ここから飛び降りて…」
「死のうと?」
「う、うん…」
「ふーん」
目の前の人間が飛び降り自殺をしようとしていたのに、女はまるで動揺していない。
「あ、あの、」
「知ってるかい?この学校は、この屋上を含めて6階。高さでいうと、約23メートルといったところか。」
女は座り込む僕を通り過ぎて、網越しから下を眺める。
「4、5階が17メートルで、そこから落ちて人間が死ぬ確率はおよそ50%、10、11階ならほぼ100%。地に着いた瞬間の体勢にもよるが、ここからなら、死亡率は大体70%弱。」
すらすらと分析を語る彼女に僕は何も言えずにただただ話を聞いている。でも内容は全くといっていいほど頭には入ってこない。
未だに状況が把握しきれていない。
「でも、君は死なない。」
女は僕の方を振り向き、自信ありきでそう言う。
「え、な、なんでそんなことが?…」
あまりにもはっきり言われたせいで、やっと彼女の言葉が耳に入る。
「なんでって…それは君が死を恐れているからだよ」
「え、」
「まず、君は網を登って、そのまま身を投げるだろう?そこから落ちてる間の2秒で、君は死ぬのが怖くなり、足掻こうとする。」
「なっ…!」
「それで体勢が崩れて、君は背中から落ちる。重症にはなるけど、なんとか一命は取り戻すだろう」
そう説明されながら、僕の中には徐々に苛立ちが芽生える。
「…っかんだよ…」
「うん?なんか言ったか?」
「あなたに何が分かるっていうんですか!」
気づいたら僕は声を荒げていた。でも自分ではもう止まらなかった。女に対する不満だけではなく、関係もない何かまでもここで吐き出そうとしていたのかもしれない。
「いきなり出てきたと思ったら、変なことばっかり言って!僕が死を恐れてる?死に足掻こうとするだと?ふざけるな!」
「僕が…僕がどれだけ死にたいと思ってるかも知らないで!死ねるなら……今すぐにでも死にたいさ!!」
「……」
僕は震えていた。興奮して、知りもしない謎の女に不満をぶつけてしまった。
「なるほど、なら試してみようか」
「え?」
そう言い、女は黒い羽織物の中から右手を出してきた。黒い羽織物とは正反対なくらい真っ白な手だ。
手を女の胸辺りの高さまでゆっくりと持ち上げて、手の甲を僕の方に向ける。
「
女は呟くように言った。
差し出していた右手の甲に、異様に太い血管がバツ印の形で膨れ上がる。
ドクンドクンと、ゆっくりと脈を打っているのがはっきりと分かる。皮膚の下敷きになっている血管は少し濁った青色だったが、次第に赤く、赤く、赤く、更に赤くなっていく。
バツ印の血管がまるで宝石のルビーのように、鮮やかで、神々しく光り輝く。
一瞬の瞬きも許されない速度で変化する血管に、僕は吸い込まれるように見ていた。
だが、その直後、
「
落ち着いた声で女は言う。
「っ…」
疑問の声が喉を通る前に、僕は異変に気づいた。
体が徐々に床から遠ざけていく。水の上に浮いているように軽い。
そして、全身が熱い…!ほんの数秒で、まるでサウナに長時間いたかのように熱を感じる。
血が沸騰しているみたいだ…、
その一方で、浮いてる体はどんどん高度を上げ、網の高さを超えたあたりで、前進し、網の外側へと進む。
「ちょっ…、」
抵抗をするもまるで意味がない。
下には何一つとして足場のない、空白の空間。
本来なら生身の人間が命綱なしで、空気しか無いこの場所にいれるわけない。
だが、今僕はそこにいる。
さっきまで見ていた校庭がまるで違うものに見える。
「ま、待っ、」
「これが死だ、少年。」
「
スッと、体内の熱が冷め、時は沈黙。
体から何かが消える感覚がし、浮いていた場所からふっと、
落ちる。
何十メートルも離れていた地面が猛スピードで近づいてくる。
今まで経験したことのない速さ、体勢、風の辺りどころで僕の思考はただ一つ。
怖い。
心臓がずっと締め付けられているようで息が苦しい。体も言うことを聞かない。
すごく長い一瞬にも思えたその時間で、いつしか、僕は目を閉じていた。
地面に激突するのが怖かったからか、もう諦めたからは分からない。
ただ、女が言ったことは正しかった。まさか、死ぬのがここまで怖いなんて思わなかっ──…
………………
っ、ま、また体が熱い?…
な、なぜだ?死んだからか?
閉じたままの瞼をゆっくりと開ける。
視界に入ってきたのは、暗い夜空。そして、右側には僕の学校。
「ど、どういうことだ?…」
思わず、後ろを振り向くと、地面はすぐそこにあった。
だが、ほんの数ミリ程度の隙間を残して、僕の体は止まっていた。
そして、引っ張られるようにして、上昇する。
またしても、屋上の網を超え、さっきまでいたところまでゆっくり、降ろされ、僕は座り込んだ。
「
女はそう小さく言うと、体の熱が徐々に冷め失せる。
そして、女の手の血管の光も消えていく。
「どうだ?私の言った通り、背中を向けていただろう?」
「人間の本心というものは、その死を直前にした時、初めて現れるものだよ。死を恐れない人なんて、この世にほんの一握りしかいないのだから」
「はぁ…あぁ…はっ…はぁ」
心臓がひたすらにうるさい。空気孔もずっと塞がれているかのように苦しい。
「おっと、怖がらせすぎたか?」
女は僕に近づき、また手を出してきた。
「はっ…!」
無意識、そして反射的に僕は後ろに下がってしまった。
「ご、ごめんなさい…ごめんなさい…もう…お願いだから怒らないで…」
「……」
目からは涙が滲み出る。怖い。
また怒られる、怒鳴られる。そんな事だけが頭をぐるぐると回る。
「すまない、また怖い思いをさせてしまったな。だが、もう──」
女はさらに近づき、両腕で僕を包み込んだ。
「もう大丈夫だ。よく頑張ったな。」
そのたった二言が、この18年間で聞いたどの声よりも、優しく、綺麗で、ずっとそばにいて聞いていたくなる声だった。
こんなにも優しく触れられたことは今まで一度だってなかった。だが、女はそれをした。何も言わず、何も聞かず。ただ、座り込みんで、無様に泣き、怯える僕をしゃがんで抱きしめてくれた。
こんなの僕は知らない。とても暖かくって、落ち着く匂いで心臓の鼓動も安らぐ。
「落ち着いたか?」
「は、はい」
少し時間が経ち、女は僕から離れた。
お陰でだいぶ落ち着けた気がする。
「そ、それでお姉さんは一体何者なんですか?死神って…」
「そうだなぁ…私たちは、君ら人間が自分達でも信じているのか、信じていないのか分からない、矛盾な存在。あるいは“天使”、あるいは“悪魔”、あるいは“鬼”、あるいは“神”。もしくはその先にいるかもしれない存在。それが死神さ。」
「それで、君ら人間が心の奥深きに秘めている憎悪。それが大きれば大きいほど、私たちの世界にも悪影響があるわけ。だから、こうして少しでも死ぬ時に未練を残さないように陰ながら見守るんだが、君の奇行のせいで前に出て、止めざるを得なかったのさ」
「な、なるほど…」
死神なんて本当にいるのか…とも思ったが、さっきの見せられたら信じる他ないだろう。
「あ、悪影響ってどんなですか?」
「…それはすまないが、教えられない。決まりなんだ」
「わ、分かりました…うん?ちょっと待ってください」
「どうした?」
僕の中で疑問が一つ生まれ、恐る恐る女に尋ねる。
「僕を止めざるを得なかったってことは、僕、今後死ぬってことですか?」
「そうだよ?今週の土曜日にな」
「は?」
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