衝動
聖崎日向
上
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。
――宇佐見りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社)
*
推しが捕まった。ファンを殺したらしい。媒体毎に『ファン』の部分は違うけれど推しが捕まった部分はどこも同じだった。推しが殺したのは『
「この人」兄がソファの後ろにたって言った。「お前の推してる人じゃん」
私は手に持っていたスマホを掴むのに必死になりながら「うん」とだけ言う。さっきまで開いていたツイッターのタイムラインは一桁のオタクとだけ繋がった鍵アカウントだけどみんな推しはバラバラなのに私の推しだからと色々呟いているらしい。LINEの通知もツイッターの通知も止まらない。私は一人、立ったままマグカップに口をつける兄が「うわあ」と言うのも聞こえないふりをしながらソファでオタク仲間に返信をした。《まい生きてる?》《ホントさいあくだね》とりあえず推しの件と緊急の連絡を一通り終えて別のアカウントに切り替える。オープンにしているこのアカウントでは既にいろいろな意見が飛び交っていた。《かな担息してんのこれ》《かなくんは人なんて殺すわけない!》《何があっても人殺しだけは許容できないに決まってるでしょブチブチ言ってるお花畑は黙ってろ》飛び交うツイート群を眺めながら、私はだんだんと推しについて考えたくなくなった。兄はいつの間にか部屋に戻っていて、リビングには私しかいなかった。ローテーブルにスマホを投げると透明なスマホケースとスマホ本体の間に挟んだ推しとのチェキが目に入る。このチェキを撮った日は私の誕生日だったから気合を入れてヘアメをした。推しも祝ってくれた。写りも最高だった。それなりのお金を払った甲斐があった。私は大きなため息をしてスマホをひっくり返した。丁度LINEが来て、通知のために画面が光る。ロック画面に設定した推しの顔と目が合って思わず逸らした。
私の推しはいわゆる地下アイドルというやつで、地上波のテレビには全くと言っていいほど出てこない。いつも小さいライブハウスで歌う推しがいつか色んな人の目に触れる時が来たら……なんて考えることもあったけど、こんなことで色んな人の目には触れて欲しくなかった。地下アイドルと地上のアイドルは全く違う。今の推しと出会うまで地上のアイドルを推していたからわかる。
*
兄にリビングへ通されたのは二人の女の人だった。どっちも黒髪で一人はセミロングのウルフカット、もう一人は背中の半分くらいあるロングヘア。二人とも同じ色の髪だけどウルフカットの人はシワひとつ無いスーツを着ていたしもう一人の人はボタニカル柄のシャツに龍か何かが描かれたスタジャンっていうヤンキーみたいなファッションだったから、纏う雰囲気は全く違っていた。
「今回の成瀬こころさんの事件で捜査を担当しています、
ソプラノの声がリビングに響く。私の前に座る二人のうち、スーツの人がそう言った。貰った名刺にはきちんと「鬼頭舞季」と書かれている。鬼頭さんの次に隣の人が軽く頭を下げながらよく通るハスキーボイスで自己紹介をした。
「私はね、金夜さんは犯人でないと思っていますよ」
「でも自首したってツイッターで」
「自首したからと言って犯人とは限りませんよ」
「どうしてそんな話をいきなり……」
「少なくとも彼を犯人ではないと思っている人間が捜査陣の中に居ると貴方が安心するかと思いましてね。それに我々は昨日の段階で既に彼に直接会って話をしていますが誰かを庇っている可能性は非常に高いかと」
「庇うって誰を。こころはただの繋がりなのに」
坂依さんはどこか芝居掛かった話し方をした。細い指を絡ませながら話す彼女は飄々とした雰囲気を纏っている。この人は私達みたいにチェキ十枚に一万円払わなくたって、時間の制限も私たちより長く推しと話せたはずで。推しは事件について彼女たちにどう語ったのだろうか。
「彼や他の関係者と話していて気になっていたんですがね、その『繋がり』とは何なんでしょうか」
恋人、とは違うんですよね? と坂依さん。恋人。という言葉に私は息が詰まる。繋がりと恋人は多分本質的に違うけれどこころがどうなのかは知らない。付き合ってたの。そう言うんじゃないけど。最期になってしまった会話を思い返す。私は何が適切な言葉なのかわからないまま、辿々しく『繋がり』について説明をした。坂依さんは私の説明を聴きながら、肘を着いた手で口元を覆っていたが、私の説明が終わると、その手をパッと離し、ひらひらと振った。
「成程そうだったんですね。こう言ったことは彼らもマネージャーがいる手前話しずらそうでしてねえ。それで、
「かなくん……金夜さんはこころしかいないんじゃないかなって思います、バレたら脱退させられるかもだし。金夜さん以外のメンバーの繋がりなら……や、か、
「そうですか。念の為その加賀野さんという方の繋がり、ですね。その方の連絡先をお伺いしてもよろしいですか」そういったのは鬼頭さんの方だった。
「は、はい」
鬼頭さんがメモ帳を新しいページにしていると前のめりになっていた坂依さんが興味を失ったように椅子の背に持たれた。私はテーブルに置いていたスマホの電源ボタンを押してやえくん──同じグループのリーダーである加賀野
「ありがとうございます。それでは本題に入りたいのですが、昨日の午前九時から十時頃、貴方はどちらにいらっしゃいましたか?」
「それって」
「いえいえ、形式的なものです。金夜さんともう一人以外に昨日彼女に会っていたのが貴方だけなので」
会っていたのが貴方だけ。と言われてドキドキする。これってアレだよね、アリバイカクニンってやつだよね。でももう一人って誰なんだろう。
「九時ちょっと過ぎくらいにこころの家を出ました。その後はまっすぐ家にかえりました」
「証明してくださる方はいますか?」
「いません」
「そうですか、ありがとうございます。では次の質問ですが被害者に強い恨みを抱いている人物に心当たりはありますか」
「わかりません」
その後も二、三個と業務的な質問を繰り返された。私はそのひとつひとつに答える度に口の中が乾いていくのを感じた。鬼頭さんがこれが最後の質問です、ありがとうございましたと言った後、ずっと黙っていた坂依さんが最後にいいですか。と手を挙げた。彼女の長い髪がはらりと肩から落ちる。
「これは今の段階での仮説なのですが、よろしければ貴方に聞いていただきたいのですよ。構いませんか?」
「私にですか……構いませんが聞いてもいいものなんですか?」
私の疑問に鬼頭さんは「構いません」と言い、坂依さんが口を開いた。
「金夜さんが庇っているのは加賀野さんじゃありませんか?」
「どうして」
思わぬ人物が出てきて思わず剣のある声が出てしまった。
「仮説をお話する上で前提確認をしておきたいのですが加賀野さんのフルネームはご存知ですか? 彼が芸名で活動しているのはご存知かと思いますがお答え頂ければと」
「加賀野八重です。八重は漢数字の八に重量の重でやえ、でしょう。それがどうして加賀野さんがこころを殺したなんてことになるんです」
彼女が言いたいのはそういうことだろうと思ったから、そう言ってしまった。そして、言ってから後悔した。やえくんが殺したなんて、そんなわけないとわかっているから、余計に。それは単純にこころの推しがかなくんで、それをやえくんも知っているからだ。繋がってるのは知らないはずだけど。睨むように相手を見ると彼女は「あくまで仮説ですがね」ともう一度前置きして説明を始めた。
「これはマスコミにも流していない情報なんですが」坂依さんは続けた。「被害者である成瀬さんは死の間際に最後の力を振り絞ってダイイングメッセージを遺したんです」
こう言う、ね。と坂依さんは空に漢数字の八を描いた。その八の字に何故か酷く責められた気がしたけれど、坂依さんはそんな私を無視して事件について詳しい説明をしてくれた。
「事件が発覚したのは昨日、二十一日の午前十一時のことです。その一時間ほど前、つまりは午後十時に成瀬さんの家に着いた──デートの約束をしていたんですよ──金夜さんが何度もチャイムを鳴らしても成瀬さんが出ないので貰っていた合鍵で家に入ったところ、血を流して倒れている彼女を発見した彼は──何故かそこから一時間ほど経った午後十一時に──警察に通報したんです、「事件ですか? 事故ですか?」「事件です。僕が殺しました」とね。通報を受けすぐに警察が駆けつけ検証が開始されました。死因は彼女の家にあった包丁で心臓付近を刺されたことによる失血死。
最後に更新したSNSは、インスタのストーリーのことだ。内容から察するに推しとのデートを匂わせていたのだ。こころは神経質なところがあって人の目とかすごく気にするのにこういう匂わせから得られる優越感に浸ることからは逃れられなかったらしい。私は幾度か注意をしたけどこころはやめなかった──段々と記憶が蘇ってくる──私はあの日も、こころにその事で、
「凶器の包丁には金夜さんの指紋しか発見されませんでした。通常の殺人事件であればかなり重要な意味を持つ物的証拠となりますが、今回の件ではどうでしょうね。それとね、さっき鬼頭さんが言っていたもう一人、というのがその加賀野さんなのですよ。来ていたのは貴方が立ち去ったとされる三十分後くらい。マンションに入っていくのが目撃されています。そして何十分後かして慌てたように出ていく姿も、ね」
そこまで言った坂依さんは言葉を切って、ヘラヘラと笑った。事件です。僕が殺しました。と言う時、意識的に推しの真似をしたと思う。推しはメンバーの中でも高音パートを担当するから地声も高い。私は推しを形成するものは何でも好きだからその推しの声も大好きだ。推しが笑った声は少し幼く聞こえて、かわいい。低音パートのやえくんにそれを揶揄われると少し照れたように「やめろよ」と言う。この人たちはそういう推しの一面を知らない。自首してきた殺人犯としか扱わないと思う。私はそのことが腹立たしくて仕方ない。推しが人を殺すわけはない。それも自分を加入したての頃から応援してくれる女の子を。私が持ってないものをたくさん持っている女の子を。けれど、坂依さんはもっと最悪なパターンを述べた。推しは誰かをかばっている。その誰かはやえくんだって。そんなわけが無い。その事は誰よりもやえくん担とかなくん担がわかっている。だって、かなくんがかなくんになったのはやえくんが居たから。やえくんは人を殺す人じゃないしかなくんはそんなメッセージが残っていたからってやえくんを疑うような人じゃない。やえくんもかなくんも犯人じゃない。けれど、やえくんがこころの家に行ったって話は何なんだろう。
「八楽さん、今の坂依の話はあくまで推測です。ダイイングメッセージの件もそうですがまだマスコミに話していない内容ですのでくれぐれもSNSに投稿するなどのことはお控え頂ければと思います」
私が何も言えずに太ももの上に置いた手ばかり見てると鬼頭さんが頭を下げた。私は小さな声で分かりました。とだけ言った。
*
玄関から出ていく二人を見て、二人揃って背が高い事を知る。どちらかと言うと坂依さんの方が高く見えたのは履いていたパンプスのせいかもしれない。二人が居なくなって、その場にへたりこんだ私に兄が声を掛ける。兄に手を引かれてリビングの二人並んでソファに座った。
「話聞いてたけどお前は本当に事件に何の関係もないの」
「ない、でも生きてるこころに最後に会ったの私っぽいからこれからも何回か話聞かれるかも」
「そうか」
私はどうしたらいいのかを考えたかったから、兄に一言告げて荷物をまとめた。彼女は何も言わないでカバンに荷物を詰め込む私を見ていたけどすぐに二階に上がってしまった。
一人暮らししているマンションへ帰ると、そのまま玄関に座り込んだ。推しが逮捕されるなんて思ってもみなかったから涙が溢れてしまう。漸く泣けると気がつくとそれは止まらない。ジーンズの膝の部分が濡れて色が変わる。こころは帰ってこない。推しも、またステージに立ってくれるかわからない。仮に坂依さんの仮説が正しくても、KtoEは、元通りには戻らない。リーダーのやえくん、こうすけくん、さたけくん、かなくん。帰ってこないかもしれない彼らを思うとまた涙があふれる。だから、もうしばらくはこうしていようと思った。
*
事態が目に見えて急転したのは、事件が発覚して一週間経ったころだ。推しが急に釈放(厳密には拘留からの解放?)されたのだ。あれからKtoEは活動休止を発表して、SNSは何を問わず荒れに荒れた。こころのインスタのストーリーだけが時を止めて。刑事さんたちに話を聞かれた翌日、こころのツイッターとインスタグラムで彼女の遺族という方がこころが亡くなった旨の投稿をした。どこかフワフワとした白昼夢のように感じていた出来事は本当に現実で起こっていることを知る。刑事さんたちは鬼頭さんが主だったけれどたまに違う人がきたりして、その度に事件当日の話をさせられた。また何か思い出したらご連絡ください。と機械的に言われる。私は本当にやえくんを庇っているんですか。と聞いても捜査上のことですからと何も答えて貰えないのに。そうして経った一週間、急に推しが釈放された。ニュースでその話を聞いて私がどう思ったのか。それがわからない。その夜、グループの公式ツイッターで『これからのKtoEについて』という文書が公開された。そこにはあの日坂依さんが言っていたことが公式文書として、丁寧な言葉で綴られていた。
『KtoEよりお知らせ
いつもお世話になっております。
本日、殺人の嫌疑で警察に拘留されていたKtoEのメンバー「叶」が拘留から解放されました。報道にもある通り、叶本人が自首したことにより警察に拘留されていましたが、捜査の進展があったことにより、叶本人が犯人である可能性はゼロに等しいということが発覚した為とのことです。このことに関しての詳しい事情につきましては諸事情により発表は控えさせて頂きます。ご理解頂くようお願い申し上げます。
今回の騒動を受け、今後のKtoEの活動につきましてはメンバーの方から十分な話し合いの場を設け、どうするかを決めたいとの申し出があり、メンバー内での方針が決定するまでの間、これまで同様八重、コースケ、佐竹、叶につきましては活動休止とさせていただきます。今回の件で多大なるご迷惑とご心配をお掛けしましたこと、ファンの皆様を初め、関係各所の皆様に深くお詫び申し上げます。
KtoE運営より』
スマホを握りしめながら、私は一週間前に見た坂依さんを思い浮かべた。彼が庇っているのは加賀野さんではありませんか? と言っていた彼女を。はじめこの文章を読んだ時、私は彼女の予想は外れたと思っていたけれどよく考えてみれば彼女はやえくんが殺したとは言っていなかったように思う。ただかなくんが勝手にやえくんが殺したと思って庇っているのではと言っただけ。坂依さんの話が本当ならかなくんの行動に不思議なところがあるのは事実だ。死んでいるこころを見つけたなら一時間も待って通報する必要は無い。彼は、必死にやえくんを守ろうとしていたのか。私にはわからない。名探偵にはなれないから。
*
《殺された繋がり、八重とも繋がってたってマジ?》
*
四人のメンバーが深く話し合って出した答えは『解散』の二文字だった。そのうち、推しだけは『引退』という道も選ぶことにした。SNSは賛否両論の嵐で、あまりに目まぐるしく動いた。私は解散も引退も悲しくして仕方が無かったけれど、もう元には戻らないと思っていたから存外冷静で居られた。みんなから心配されたり、逆に同担や他担を心配したり。どこかで感情の波を止めている暇はなくて、私の日常と一緒に進み続けた。私は何が正しくて、何が正しくないかの境界線でさまよい続けて今日まで来たけれど、推しはどうだったのだろう。やえくんを庇って自首したり、責任を取って引退したり。それらが正しいのか正しくないのか。YouTubeライブで配信された四人の会見で、一番泣き腫らした顔をしていたのはかなくんだった。その姿を見て、推しが感じる辛さのほんの少しだけでも私は感じていたかった。
「八楽さんですね?」
バイト先のガールズバーからの帰り道。後ろからいきなり声をかけられた。聞き覚えのあるハスキーボイスに思わず振り向く。そこには黒いコートを身にまとった坂依さんがいた。
「なんですか、いきなり」
「事件の真相が掴めたのでお知らせに来たんですよ」
見覚えのある顔がまた、ヘラヘラと笑った。それなら私ではなく推しにすべきであってわざわざ街中で声を掛ける必要は無い。いつも口の端を持ち上げて、飄々としながら話すから何を考えているのかわからない。そんな坂依さんは私の怪訝な顔なんて無視して、私の腕を掴んだ。
「ここじゃあ何ですから移動しましょう」
私の拒否権は与えられなかった。堂々とした背中を追いかけながら、私は彼女について行くしか無かった。
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