怨歌

濱野乱

第1話 石生みの里


 今より、人と獣が近い時代のことだった。


 いくつかの王朝が作られては壊され、落ち延びた貴種は山奥深くに命脈を保った。


 ある日、雷鳴のような音を打ち立てて、崖が崩れた。栗毛の馬と若い男が落ちたのだ。


 馬は運悪く石に頭をぶつけて亡くなった。男は運良く岩に当たらず川に流された。


 崖下にいた女が、川の近くを通りがかる。目を糸のように細めて歩いている。けれどしっかりした足取りで山道を歩いていた。


 川を漂っていた男に女が近づく。男のみなりは良い。白い長衣は絹だ。


 女は腰に差していた山刀をおもむろに抜いた。男の顔の側にふり下ろす。岩に張り付いていたイモリを刺した。煎じると薬になる。


 男は衰弱していたが、生きている。女は懸命に呼びかける。


「もし、もし……」


 男はもうろうとした瞳を女に向けた。髪は金色の獅子のようで、しっかりした顔の輪郭は骨相に恵まれている。


「おお……、俺は空を飛べなかったか」


「異なことを申されて。頭をお打ちなさったか」


 女は男の額をそっとさすった。


「蝋の翼で空を飛ぶ男の話を聞いた。しかるに俺にもできるに違いないと思った」


「それはおとぎ話でございましょう。人間に空は飛べません」


 どれだけ努力しても叶えられない願いもある。女がこの山から出られないのもその一つ。


 男を立たせ、女は自分の暮らす村に案内する。岩と石ばかりの寒々しい村だ。野良仕事をしていた男たちが、珍しい客人に笑みを浮かべた。女のように目を細めて。


 女の家は藁と石で作られてていた。窓もない。外壁に白い蛇が張り付いていた。男は露骨に顔をしかめた。


「白蛇か。珍しい」


「この村では崇められています。逃がしてやりましょう」


 女は慣れた様子で蛇を掴み、茂みに離した。その物怖じのない様子に、男は興味を引かれた。


「名前はなんと申す」


「世捨て人の村ですので、名はありません」


 はぐらかすと土間の竈に火を入れ、食事の準備を始めた。鍋に茸を入れて煮込んだ鍋が出てきた。


「こんなものしかありませんけど」


「いや、悪くない」


 男は汁をすすって、誠実な笑みを浮かべた。女は感じいって、食事が手に着かない。若い男の生気に当てられた。


 彼は東の王朝の王太子だった。西の王朝の偵察ついでに暴挙に及んでいた。


 国家という各個たる形式はまだ存在せず、領土の境界はあいまいである。


「こんなところに村があるとは知らなんだ。地図にもない」


「そうでございましょう。ここは世捨て人の村、忘れられた村。石生みの里と呼ぶ者もいるそうです」


 良質な石が取れるので、西の王朝が買いつけに来ることもあるという。


「西と付き合うのはいかん」


「私どもは望む方に売るだけです。あなたさまも望めば用意はございます」


 女はそっけない口調で、男をなだめた。


 助けてもらった恩もある男は一端諦め、ベッドに入る。引っ張り込まれた女は嫌がったが、難なく組みしかれた。白蛇を思わせる肌の滑らかさに男は目がくらんだのだ。


「おやめくだされ。白蛇さまの祟りが下りますぞ」


「お前も共に祟りを受けるのだ。俺はそれでもかまわん」


 狂おしい愛撫は、少年のように拙く荒々しい。女は拒絶しつつも忘れていた本能を揺り起こされ、灰になるまで体の芯を燃やした。



 男は傷が癒えても帰らず、やがて女は身ごもる。男は連れ帰ると言ってきかない。女は困り果て、村に判断を仰いだ。


「ここは石生みの里。命あるものは外に出せん。ここから出るのは石と死体だけです」


 村は嫁に出すことを頑なに認めない。女は男の素直さと情の篤さにほだされていたから、離れがたい。


「一緒に逃げよう。そうだ、名前をつけてやるから。メディナでどうだ。これでお前は俺のものだ」


 男の決意も固かった。身重の女を荷車で担いで村を逃亡した。


 東の王朝は栄えていた。港から人も文物も入ってくる。


 丘に建てられた白亜の宮殿には金銀財宝がたくさん納められていた。山が遠ざかると泣いた女も、新しい刺激に寂しさを暫し忘れた。


 王は激怒した。王太子はしかるべき家柄の娘をめとることになっていた。女は潔く身を引くことを考えた。


「ここは私の居場所ではないようです。子供は一人で育てます」


「それは困る。ここにいてくれ。父は説得するから」


 宮殿内に小さな家が建てられ、家財道具が運び込まれた。鮮やかな絨毯の上にクッションを敷いて、女はやっと落ち着いたと思った。それも束の間。


 潮風がつわりに障る。山に比べて空気は不浄だ。知らない人間が世話をする振りして身辺を探るのも不快だ。


 女は顔に出さない。石のように毅然としている。

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