第277話 よもちゃんがこっちを見てくる。

 塗装がだいぶ抜け落ちて灰色に変色した濡れ縁に、今日もあの猫、よもちゃんが座っている。窓からこっちを覗き込み、じっと何時間でもわたしを見つめる、よもちゃん。


 濡れ縁の灰色に溶け込むようなグレーの猫、よもちゃんは最初こそガリガリとした可哀想な野良猫だったのに、今はうちに住んでいる三匹の猫よりも丸々太り、ころんとした体型に細い脚がくっついているように見える。少し垂れ目のつぶらな瞳は綺麗なターコイズブルーで、猫風邪をこじらせているのか目やにで目が少しくっついてしまっている。


 本当ならば動物病院に連れて行ってあげたい。

 でも、彼は野良猫。


 毎日縁側に座りこちらをじっと見つめてくるし、ご飯を出せばすぐ食べに行くくせに、近づこうとすると逃げていく。一番ちゃん曰く、「ご飯食べてるなら触らせて!」だそうなのだが、もらうもんだけもらって、あとは知らん顔のよもちゃんだ。


 それに——。


 彼の尻尾の下には大きな丸いものが二つついている。たまたまだ。タマタマ、なのだ。大事なことなので、もう一度書くとしよう。玉玉なのだ!


 もしも捕獲したとして動物病院に連れて行けば、どうなるか。


『野良猫ですしねぇ、虚勢しないといけないと思いますよねぇ、地域猫だし』


 こんな風に言われる気がしてしまう。どうなんだろうか、言われないのだろうか。地域猫の活動をしているおばさんと昔話していた感じだと、『虚勢』しなくちゃいけない気がする。だから、動物病院に連れて行くのはやめておこうと思いつつ、猫風邪こじらせてるのはちょっと可哀想だ。


 だがしかし、彼は玉玉をフリフリ揺らしながら我が家の庭へ向かい、ごろんと寝っ転がるとそのまま昼寝をしている。それに飽きるとまた縁側にやってきて、窓からじっとこちらを見つめる。猫風邪くらい可哀想じゃない気がするほど、ぐうたらな生活をしている。うちの猫なんて小鳥を獲って食べたりしているのに、野良猫のよもちゃんはぐうたら猫だ。


『えさ、くれ』


 ああ、そうだね。聞こえるよ、よもちゃんの声が。でもね、今猫の餌切れちゃって、掃除に洗濯洗い物、銀行に行ってってわたしも予定があるのでね。帰りに買ってくるからさ。それまでちょっと待っててよ。


 そうやって何度も窓越しに言うけれど、ず〜〜〜〜〜〜〜っと、わたしを見つめてくるのだ。


『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』


 聞こえる聞こえるよもちゃんの声が。


「でもまだ掃除機かけてるしね。しばし待っててよ」


 そう声をかけるけれど、ガラス一枚挟んだ向こう側にいるよもちゃんはわたしの行く先々へとついてくる。見える限りずっとずっとついている。そして一息つこうとわたしが座ると、今度は縁側に座って尻尾をくるんと前足の前に流し、じっとわたしを見つめる、よもちゃん。


『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』



 無言の圧力。

 今コーヒー飲んでるし、まだ外出まで時間がかかるんだってば。


『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』

『えさ、くれよ。はやく、エサ、くれよ』


 我が家の猫はただいま留守中で、家の中にも庭にもいないのに、我が家の猫ではないよもちゃんは、ず〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっと、我が家の縁側にいる。もう、よもちゃんは我が家の猫なのだろうか?


「お母さん、よもちゃんもううちの子だよね!」

「いいや違うよ五番、うちの子だったら玉玉取りに行かなきゃいけないからね。だからよもちゃんはうちの子じゃないよ」

「でもお母さん、よもちゃんめちゃくちゃ太ってるよ。あれはうちのご飯で太ったんだから、もううちの子じゃない?」

「いいや違うよ二番くん。うちの子だったら玉玉取りに行かなきゃだしね。想像してみてよ。二番くんの玉玉、ちょきんって感じ。いやでしょ?」

「あ……。うん、そうだね……。痛そうだよね」

「でしょ?」


 玉玉問題がある限り、よもちゃんは我が家の猫ではない。

 なのに、うちの子よりも圧力がすごい。

 しかも、めちゃくちゃよく食べる。


 朝ごはん、おやつ、お昼ご飯、おやつ、夕ご飯、夜食。


 彼は一日に五回もご飯を食べにくる。いや、なんなら食べてない時間もずっと縁側でゴロゴロしている。


 ——ちょっと、いらっとする……。


 可愛いけれども!

 可愛いけれども!


 ——ちょっといらっとする……。


 わたしの時間を窓越しにずっと覗き見しているよもちゃん。朝も昼も、夜も、裸でリビングを歩いていても、ずっとわたしのことを覗き見してくるよもちゃん。さっきなんてお風呂入ろうと思って裸になってふと窓ガラスを見たらそこにもよもちゃんの姿があった。


 四十三歳のわたしの裸は、よもちゃんの目にどう映ったのだろうか。


 ああ、よもちゃん。

 太り過ぎの、よもちゃん。

 君のその太った体は全て我が家のご飯でできているんだね。

 多分、あなたのご飯代、一ヶ月に計算するとまあまあな金額だと思うよ?


 思うに我が家の猫三匹分のご飯をよもちゃんは一匹で食べている。それにもちょっともやってする今日この頃。だけど、今日も私を無言で見続けてくるし、そろそろご飯を買ってきてあげなくてはいけない。よもちゃんはご飯を食べない限りずっとわたしを見続けるから。


 誰か(猫)にずっと覗かれてる生活って、やだな。

 最近よもちゃんの無言の圧力が気になり始めたわたしなのでした。


 そんなこんな、普通の日常に感謝です。

 それでは本日はこの辺で。

 お読みいただきありがとうございました。



***

地域猫の問題って難しいなって思います。

家猫を外に行かせるのもそうだし、結構意見の分かれる問題だと思いつつ、我が家の猫たちは安心できる家に住み、自由に外に出かけていく。車や病気、いろいろ危険だけど、猫としては幸せな方だと思うのでした。

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