第2話 何事もない日常
それは、二女の出産予定日から1週間ほど前、そろそろ出産に向けて病院に入院する頃だよ、と妻に言われていた時期だった。
その時の我が家には長女がいたのだが、一人目の出産は完全無欠の安産だった。
予定日に予定時間通りに生まれて体のどこにも異常なし。
出産後の妻の体調も順調に回復し、病院のご飯が美味しいから嬉しい、と余裕の表情を見せていたのが印象的だった。
だから、私は完全に油断していたのである。
多分、二人目も問題なく安産だろうなぁ、と。
そして、その日も「まだ予定日まで1週間もあるしなぁ」とか気楽に考えながら、会社に向かう準備をしていた。
「何かあって病院に行く場合は携帯に連絡するね」と妻から言われた言葉を軽く聞き流して、私は家を出て会社に向かった。
いつも通りの通勤経路で地下鉄に乗りオフィスに到着し、普段通りデスクワークを始める。まったくもっていつもと同じ日常だった。それからほどなくして、
・・・あ、ちょっとこれ、頭痛がくるかな?・・・
そんな風に感じたのは10時過ぎ頃だっただろうか。もともと頭痛持ちの私は仕事中にこの「頭痛の兆し」が来ることはよくある話で、そういう時は決まって頭痛薬を飲んでその日の仕事を乗り越える、というが毎回のパターンだった。
しかし、その日はちょっと事情が違った。お昼過ぎになっても痛みが減らないのである。
とはいっても、これも年に1、2回はある事で、こうなると頭痛薬をいくら飲んでも効果がないのでギブアップして寝るしかなくなる。
上司もその辺りはよくわかっているので、じゃあ帰りなさい、という事でその日は早退させてもらってオフィスを出ることにした。
そして、私はオフィスの最寄りの地下鉄の駅から家路に向かった。
電車に乗る前に妻に連絡をしようと携帯電話を見たが、特段着信履歴等は残っていなかった。
妻に『頭が痛いから今日は帰るよー』とメッセージを送った時に、携帯の充電がほぼ残っていなかった事に気がついた。
どうせ、頭が痛くて携帯は見ないし、地下鉄に乗っている間だけ電源切っておくか…そう思って、電源を切ることにした。
駅のホームで待っている間も頭痛は辛かったが、残念ながら、到着した帰りの電車の座席は満員だった。仕方ないので電車内のドアの脇のポールにもたれかかりながら、時間が経つのをやり過ごす事にする。
大丈夫、もう少ししたら徐々に良くなる。
どんなに頭痛が激しい時でも、帰り道というのは多少は楽になっていたのが今までのパターンだったからだ。緊張する職場から離れるプラスの効果なのだろう。
ところがだ。
この日は普段と事情が違ったのである。
駅を通過する度に痛みは増すばかりだった。ギリギリと頭が締め付けられて吐き気すら感じる。これはちょっとまずい。家の駅まであと7駅ほど、かなり限界だ。
今、何時だろう?今から病院いけるかな?
携帯の電源を入れて時間を確認した。時間は14時だった。そして、それと同時に携帯の画面は暗くなってしまった。
くそ!充電が切れた。最悪だ・・・
これ、ちょっと本当にまずいな・・・どうしよう・・・
そして、
ついに私は電車の中でしゃがみこんだ。
痛さと気持ち悪さで立っていれなかったのだ。
こんな事は人生で初めてだった。この苦しさは明らかに普通ではない。
今まで体験していた頭痛や吐き気とは次元が違う。
しゃがみ込むどころか足を延ばして横になり始めていた。
周囲の目など全く気にならなかった。
とても我慢できる痛みではない。
さすがに、周囲の人が気にし始めた。
それはそうだろう。日中、スーツ姿のサラリーマンが急にしゃがみ込んで、しかも電車の床で横になり始めたのだから異常事態である。
「だ、大丈夫ですか?!」
優しいおじさんが声をかけてくれた。
「いや、ちょっと頭痛と気持ち悪さが酷くて・・・」
正直、頭がぼんやりして周囲の会話はよくわからなかったのだが、周りの人達が色々と話し始めて何か手を打ってくれている事がわかった。
そして、次の駅で電車が止まると駅員さんが乗ってきて、私は車椅子のようなものに乗せられて、電車から運び出された。
電車から降ろされる最中、耳にアナウンスの音が響いた。
『お客様の中に体調不良の方がいらっしゃいましたので、電車を一時停止しておりますー。大変ご迷惑をおかけしますが、しばらくお待ちくださーい』
あぁ、このアナウンス、昔聞いたことあったけど、まさか自分がその原因になる日が来るとは・・・
朧げにそんな事を考えながらひたすら痛みに耐え、私は駅構内のベッドのある救護室に運び込まれていた。
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