第17話 防衛戦①

******


 レンガ造りの壁が粉砕され、巨大な虚無ヴァニタスらしき影がゆっくりと前進していく。


 突っ立っているロルカの横を蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人々は恐怖に顔を歪め――町の外を目指していた。


 目抜き通りいっぱいに並んでいた露店がひとつ、またひとつと踏み潰され、そこに並んでいたはずの商品が跳ね上がるのが見える。



「……ッ!」



 そこでロルカは跳ね起きた。


 ――夢? いや……違う。


 どくどくと脈打つ心臓は痛いほどで喉がからからに渇いている。


 額に浮かんだ脂汗を拭い、ロルカはそろりと部屋を見回した。


 窓からは薄らと青くなりつつある朝特有の光が差し込んでいて――隣のベッドではニーアスが静かな寝息を立てている。


 ロルカは大きく深呼吸をすると唇を引き結んだ。


 彼の『野生の勘』が……今夜虚無ヴァニタスらしき影が来ることを告げている。


「戦わないと……」


 そろりと右足を床に下ろし――どこか温もりのある木製の感触をしっかり確かめて、ロルカは決意を口にした。



******



「おはようロルカ」


「おはようシャルロ」


 顔を合わせたふたりは挨拶を交わし、すぐにレンガ造りの道を歩き出す。


 残りの花壇はわずか三カ所だ。うまくいけば昼までに種蒔きを終えることも可能だろう。


 隣を歩くシャルロの薄紫色をした髪がさらりと風に流れるのを横目で見ながら……ロルカは考えていた。


 ――シャルロに虚無のことを伝えたらどう思うだろう。俺が神繭カムンマユラだってことを話せば信じてくれるのかな?


 彼女には感謝していた。


 だから危険に巻き込みたくはない……ロルカはそう思う。


 勿論できることなら町に被害を出さず畑で虚無を食い止めたいのだが、確約できる話ではなかった。


「今日は依頼を終わらせて報酬を受け取って……それで甘いものね!」


 にこにこと無邪気に微笑むシャルロに頷いてロルカは晴れた空を見上げる。


 ――もし俺が羽化できたら……虚無なんて軽々倒せたりするのかな。そうしたら……俺の村も助けられた……?


 叶わないことだとわかっていてもそう思ってしまって――ロルカは両手で頬を叩いた。


 当然、隣にいたシャルロはびくりと肩を跳ねさせ目をこぼれんばかりに見開く。


「ど……どうしたの⁉」


「気合いを入れたところ。よし、さっさと終わらせようシャルロ」


「あ。ロルカったらそんなに甘いものが楽しみなんだ……? ふふ、じゃあ私も張り切っちゃうね!」


「ん……うん。お願いします……?」


 別に甘いものが楽しみというわけでもないのだが――彼女の無邪気さがいまのロルカにはありがたい。


 曖昧に応えるロルカに、シャルロは大きく頷いてみせるのだった。



 そうして……昼。



 依頼斡旋所――通称『宿り木』にて無事に報酬を受け取ったロルカは小さな封筒に入ったそれを大切そうに両手で掲げ、ほーっと息を吐く。


「なんだか感無量だよ、俺」


「えぇ? 大袈裟だなぁロルカは」


「……そうかな? まあこれも王都までなんだけどさ」


「え、王都まで?」


 きょとんとして薄紫色の瞳を瞬くシャルロに、ロルカはゆっくりと噛み締めるように頷いてみせる。


 自分がどうして王都に向かうのかをシャルロには話しておいてもいいのかもしれない……とぼんやり思った。


「……俺さ、王都に糾弾したい人たちがいるんだ。そいつらの喉に噛み付いて喰い千切ってやる――そう決めていて」


「――え?」


「つらいことがあったって言っただろ、それが原因なんだけどさ。……でも糾弾するにはきっと俺の命を賭けなきゃならない。だけどそれでもいいんだ。俺は俺の命よりも『やらなきゃならないこと』を優先するつもり」


 静かに言ったロルカの半歩後ろ、ゆるゆると速度を落としたシャルロが立ち止まる。


 多くの人が行き交う通りの真ん中で――珍しい色彩を持つ彼女はさながら絵画のようだった。


「……シャルロ?」


「ロルカ……それ、本気で言っているの……命を賭けるだなんて」


「本気だよ。俺がいまこうしているのに意味があるとしたら……それだけだから」


「…………なに、それ」


 ロルカはシャルロの声音が硬く暗いものになったのに気付く。


 視線を合わせると……シャルロの鋭い眼光がロルカを射抜いた。


「生きていることができなかった人だっているのに……自分が生きている意味が命を捨てることだと?」


「……うん、少なくとも俺にとってはそうなんだ」


「――馬鹿言わないで」


 どういうわけか彼女の声は震えていて、さっきまでの無邪気さは欠片も見当たらない。


 ロルカはそんなシャルロに小さく微笑む。


「優しいんだな、シャルロは」


「優しいとかじゃないッ! いまはそんな話はしてない――」


 思いのほか大きな声を出してしまったのか……シャルロは唇を噤むとあたりをさっと見回して大股で歩き出す。


「来て」


 ロルカの横を通る瞬間、彼女はその右手首を問答無用で掴んだ。


 ――別に逃げも隠れもしないんだけどな。


 ひやりと心地よい彼女の手は……彼女が剣を握る人なのだということをロルカに思い出させ、さらに自分を育ててくれた姉のような存在――アルミラを彷彿とさせた。

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