大人になるということ

@hallour

本文

これは俺が26の時の話だ。


俺はとある企業に勤めていた。新卒で入社し、エンジニアとしてキャリアをスタートさせた。


企業は上場していて大手と言える規模であったが、最大手と比べるとかなり見劣りする。給料も特別高いわけでもないが、ワークライフバランスと仲間社員の人柄に居心地の良さを感じていて、転職する気もなかった。


25で俺はとある部署に配属された。会社に言い渡された異動だったが、自分のやりたい仕事が出来たので、やりがいを感じながら務めることが出来た。そこで俺は、橘さんという上司に出会う。年は30代前半で雰囲気が柔らかく、優秀な方だった。飲み会を何回かするうちに俺は橘さんに気に入られた。俺も橘さんと話すのは好きだった。


橘さんはシンプルな人だ。物事に優先順位をつけて、その順に実行する。緊急の有事でも計画を練り直して臨機応変に対応する。そして、やらなくてもいいこと、言わなくてもいいことは決して言わない。俺は橘さんのそういうところがとても好きだった。なぜなら、俺と似ているからだ。


。。。。。


26の春、俺は仕事終わりに橘さんとバーに行った。橘さんがウイスキーのロックを呷るとロックアイスがカランと鳴った。その後に、橘さんはこう聞いてきた。


「大人になるってどういうことだと思う?」


橘さんは酔うと少し難しいことを話したがる。きっと、俺の深い部分を知りたいからだと思う。


「俺にとっての大人はスナフキンです」


「スナフキン?」


橘さんは驚いた顔をしていた。


「スナフキンはムーミンが助けを求めた時、手を差し伸べてくれます。ささやかな助言と勇気を与えて、ムーミンの背中を押してあげます。スナフキンが問題に直接、手を出すことはあまりありません。また、助けを求められてないときは特に何もしないし、他人に縛られることもない。俺はそれが大人のあるべき姿だと思っています。」


ムーミンは昔、よく見ていたアニメだ。実際、身体は成人しても感情とか環境とか虚栄心とかのくだらないものに振り回される人しか世の中にいないが、そんなこと俺には関係のないことだ。


「そうか、三澄の言うとおりだな」


三澄とは俺の名字だ。そう言って、橘さんは優しく笑った。


。。。。。


その一週間後、橘さんから妹を紹介したいと言われた。俺は女を特別欲していなかったが、断る理由を持っていなかった。橘さんの妹の名前は、月奈という。


月奈は25だった。容姿は端麗だったが、大人ではなかった。でも、あんまり気にしていなかった。女というのはだいたいそうだし、そもそも俺の考える「大人」は俺に課すものでしかないからだ。


月奈は、いい女性だった。他者のことを思いやることが出来、常識をわきまえ、綺麗だった。2,3度のデートを経て、交際を始めた。月奈は俺の優しくて落ち着いたところが好きだと言ってくれた。


彼女と同棲しているとき、俺が作ったオムライスを食べて、ちゃんと「おいしい」、「作ってくれてありがとう」と言ってくれた。俺は彼女のそういうところが好きだった。


彼女と水族館に行った。彼女はペンギンを見ると、スマートフォンでパシャパシャと何枚も写真を撮った。確かにペンギンは愛らしい。鳥類なのに、空や陸上よりも水中の方が生き生きとしているのは見ていておもしろい。俺はクラゲが一番好きだと言うと彼女は「不思議」と大きく笑った。


約一年付き合った後、彼女と別れた。彼女が不倫をしていたからだ。兆候はあった。彼女の帰りが遅くなることが増えたこと、「友達」と遊ぶ機会が増えたこと。一か月くらい様子を見て、俺は彼女のスマホを見させてもらった。パスワードはロック時の指の動きを横目で見ていたので知っていた。


結果はクロだ。会社の同期と火遊びをしていた。俺は、生々しいLINEのメッセージを写真に撮っておいた。彼女はお風呂から出るとスマホを手に取り、いじり始めた。何も気づいている様子はない。後は簡単だ。逢瀬の日を特定し物的な証拠を手に入れることが出来た。


正直な話、真実を知った時、俺はあんまり悲しくなかった。そもそも他人というのを信用していないからだ。「好き」という感情と「信じる」思いは別物だと思う。だから、微かな疑いから、早い段階でスマホを隠し見るという行動を実践した。確かに、俺は月奈を心から信じていなかったが、好きではいた。それでも、この時からこの女と交際関係を続ける気は微塵もなかった。


。。。。。


俺はまず橘さんに話した。初めは半信半疑だったが、証拠を見せると押し黙った。これから月奈さんに別れを告げて、引っ越すつもりですと俺が言うと、「分かった」と橘さんは言った。


俺は同棲部屋の賃貸の手続きと引っ越しを済ませ、女に電話した。


「え!?なんでいきなり?浮気?え?」


女は会って話がしたいと言い出した。正直、女と会う気はもうなかったが、浮気した理由くらいは聞きたかったので、会うことにした。


ファミレスで女と落ち合った。俺は了承を得たうえで、レコーダーを起動させた。


「あの人とはただの仕事仲間」「仕事の相談をしてもらってただけ」


俺は静かにLINEとホテルの写真を出した。みるみる女の顔は青ざめた。


「寂しかったから」「魔が差した」「あなたが一番好き」「別れないでほしい」


謝罪もせず、言い訳しか言わない女に嫌気がさした。


「嘘つきの言うことは信用できません。無理です。もう連絡してこないでください。」


面倒くさかったので、それだけ言い放った。女は泣いていた。


「家族にだけは言わないでください。」


俺が席を離れようとするとき、女はそう言った。

家族には「いい成人女性」を演じていたかったのだろうか。じゃあ何で浮気なんてするんだろう。いずれにせよ、他人のことなど、もうどうでもよかった。


俺は「もう言ってある」とも言わずに、店内を後にした。言う必要もない。俺は復讐がしたいのではない。一刻も早く浮気女から縁を断ち切りたかっただけだ。


。。。。。


橘さんから話があると言われた。


「三澄、この度は本当に申し訳ないことをした。」


橘さんから渡された厚みのある封筒には100万が入っていた。


「橘さん、お金なんて要りません。」


「引っ越し費用と迷惑料だ。半分は月奈が払った。」


もう半分は橘さんか。


「じゃあ半分返します。」


「いや、受け取ってくれ。」


「俺と橘月奈さんは、ただの交際関係にあっただけです。結婚はまだしも、婚約すらしてません。したがって、このお金を受け取る権利は俺にはありません。必要もありません。また、橘さんはこの件に関しては全く関係がありません。」


「だが、月奈を三澄に紹介したのは私だ。そして、私は君の直属の上司であり、月奈は私の妹だ。」


なるほど。橘さんらしい。


あのバーでの話には続きがある。


─────


「橘さんにとって、大人になるって何でしょうか?」


俺は橘さんに同じ質問をした。


「自分の行動に責任を持つことだと私は考えている。子どものミスは親の責任だ。子どもは未熟ゆえに責任能力に限度があるから、親が肩代わりする必要がある。だが、大人は違う。自分の過ちの罪を被るのは自分だ。だからこそ、過ちを犯さないよう節度ある行動を心掛けなければならないし、過ちを犯したときは誠意ある謝罪と行動によって、その罪を償わなければならない。」


「なるほど。」


「三澄に比べたら、つまらない答えになってしまった。済まないな。」


橘さんは苦笑している。


「いえ、素敵な考え方だと思います。きっと『大人』の定義は人様々にあるのでしょう。」


俺は心から橘さんを素敵な人だと思った。



─────


「……けじめですか?」


橘さんは頷く。俺は封筒を懐に入れた。


「それじゃあ、あともう一つお願いを聞いてくだされば今回のことは水に流します。」


「私に出来ることなら何でもしよう。」


「今後の俺と橘月奈さんとの断絶に協力してください。」


「分かった。協力する。」


橘さんは即答した。


「余計なことかもしれないが、」


橘さんは胸ポケットから一枚の便箋を取り出した。


「妹から謝罪の手紙を受け取ってきた。また、直接会って謝罪したいそうだ。」


「必要ありません、処分してください。」


ファミレスでの開口一番に謝罪の言葉があれば、俺は少しは耳を傾けたかもしれない。今となっては塵芥でしかない。


「了解した。」


橘さんは便箋を再びしまった。


「橘さん」


「なんだ」


「俺は今回の一件で橘さんのことを嫌いになんてなっていません。これからも今までどおり接してくださると幸いです。」


「あぁ」


橘さんは優しく笑った。この人は本当に芯がしっかりしている人だ。




別れる直前、橘さんはこう言った。


「あいつは、大人じゃなかった。」


俺はその言葉に何も言うことなく、帰った。


。。。。。


あれからは平穏な日々だ。橘さんとサシで飲みに行くことはなくなったが、仕事仲間としての態度は一切変えないでいてくれた。橘月奈はもう二度と俺の前に現れることはなかった。


そして、俺は異例のペースで出世した。もしかしたら将来、役員職も目指せるかもしれない。俺は無能ではないと心得ているが、同期の仲で突出しているほど有能でもない。マネジメントやコミュニケーション能力は高めだが、業務処理能力はさほどでもない。それでも出世したのは、恐らく橘さんの打診だろう。俺はそんなこと約束していないが、俺の想像以上に橘さんは『大人』だった。俺は橘さんにお歳暮で鰻を送った。橘さんはありがとう、すごく美味しかったと伝えてくれた。


一年して、出会いに恵まれた。容姿適度端麗という感じだが、とにかく誠実なところが気に入った。本が好きなのもとても嬉しい。交際も長く続き、婚約を真剣に考えている。


橘さんは同業他社へと転職した。以前からやりたかった仕事らしい。お世話になりました、新天地でもがんばってくださいと伝えると、ありがとうと優しく笑ってくれた。


もう橘月奈のことを思い出すことなどないけれど、橘さんは大人としての役目をきちんと全うした。10年後、また会えたら杯を交わす仲に戻れたらと思う。


俺も大人として、今後の人生を生き、信念を貫いていくつもりだ。


幸あらんことを祈る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大人になるということ @hallour

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る