ポコッ――

〈すきなひとができた〉

 ポコッ――

〈でもすきになってはいけないひと〉

 ポコッ――

〈あともうすこしで卒業だから〉

 ポコッ――

〈その後ちゃんと想いを伝えようと思う〉


 すきです、と。


 ――


 何もない。それが第一印象だった。


「お前、動くなよ絶対。そこから!!」


 などと私に向かって叫びながら、この部屋の主は忙しない様子。


 ぼんやりと見るともなしに部屋に目をやっていた私は、ぽたりと目に入った雫を払うように、まばたきを繰り返した。


 あ、忙しないや。私も。


「あのさー、先生ってさぁ」


「動くな! 喋るな! 濡れる! 待ってろいまタオル持ってきてやるから!」


 えー。の口のかたちのまま、まぁ正論だし? と動きを止める。


 6畳くらいの1LDKの部屋は、しばらく眺めていても最初と印象変わらずで、小上がりから短い廊下を隔ててダイレクトに見えるリビングに、置かれたものたちを目で追ってみた。

 右手には何もない。左手にはアルミパイプのベッド。その横に小さなラック。真ん中にローテーブル。以上三点。思わず目がまるくなる。


「……なに、見てんだよ。ほらこれで体拭け」


 先生がいま出てきたのは廊下の左手奥にある洗面所兼お風呂場から。向かいはたぶん、トイレだろう。ごつごつした手が掴んでいる毛羽立ったバスタオルを見る。ふ、と笑いが漏れた。


「なに、笑ってんだよ。てかお前、どこの世界に警報級の低気圧が近づいてるってときに傘持たずに出かけるやつがいんだよ。偶然、俺がいたからよかったものの」


 ここに、と手をまっすぐ伸ばしたら怒られるだろうな。代わりに無言でじっと見つめる。

 ぱちっと静電気ではない電気が弾けた。ような気がした。


「拭いたら、帰れよ。傘は貸してやる。明日にでも持ってきてくれたらそれでいいから」


「せんせぇ、シャワー貸してよ」


 先生の動きが一瞬止まり、すぐに思い切り渋面を作った。


「それはダメだ。このご時世、生徒を家にあげたってだけでもつるし上げにあうんだからな」


「私が黙ってれば誰にも分かんないよ。こんなに濡れてるのに帰れとか、鬼畜だと思いまーす」


「天気予報ちゃんと見てない菊池さんがいけないと思いまーす。ほらほら、拭いたら帰れ。傘はやる。もうとっとと帰れ」


 貸す、からやるにレベルアップした。嬉しくない。私は大型犬がするみたいに体を震わせてやる。小さな玄関の四方八方に水が飛び散った。


「♯§¥!!」


 先生の声にならない悲鳴が響く。にやりとした。そのまま、ぼちょっと靴を脱ぎ、絞れそうなほど濡れた靴下で一歩を踏み出してやる。


「菊池、いや! きちく! お前今日からキチクだ!」

「へっ、ひょん!」


 くしゃみが出た。食い気味の。先生が肩を大きくいからせ、長い息を吐き出す。


「うー。さむい。3月ってまだ寒いしなぁ。このままだと風邪ひいちゃうかもなぁ」


 ダメ押ししてみる。


と、先生がくるりと背を向けた。31歳の大人の男のひとの背中、とはみんなこんな感じなのだろうか。


「……俺の使ってない服出してきてやるから、お前はそのまま風呂行け」


 思わず口元がゆるんだ。にんまり。とりあえず、ここまでは計画通り。


 先生の服かぁ。彼シャツみたいだね。

 とは、さすがに言えなかった。


 私は軽やかな足取りで、さっきもらったバスタオルを抱いてお風呂場に向かった。

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