緑のおじさんと赤い少年

静電気妖怪

緑のおじさんと赤い少年

「あんたさえ⋯⋯あんたさえ生まれてこなければっ!」


 母の言葉はまだ小さい僕でもわかるほどに強烈だった。

 母がなぜ僕を怒鳴ったのかはわからない。何かあったのだろう⋯⋯何かあったに違いないが僕はその場にいられずに家を飛び出してしまった。


 夕暮れ時。

 僕より高学年の子や学生、大人の人達が僕と同じように歩いていた。楽しそうに友達と話しながら、難しそうな本を開きながら、忙しそうにスマホを片手にしながら、それぞれ歩いていた。


「⋯⋯いいなぁ」


 僕は羨ましかった。同じように歩いているのに同じではない、そう思えてしまったんだ。

 みんな当たり前に外に出て、当たり前に誰かと会い、当たり前にように家に帰る。その当たり前の日常が今の僕にはとても羨ましく感じた。


 カラスの鳴き声が増えてきた。本格的な冬のシーズンというわけでは無いが、それでも夜は寒い。

 そして、冬は日の出ている時間も短いせいで暗くなるまでそう時間はかからなかった。


「⋯⋯寒い」


 僕は体を震わせ、手を擦りながら歩いた。少しでも暖かくなりたかった。そして、少しでも明るいところを探した。

 結局、辿り着いたのは近くのコンビニだった。もし、お金があれば何か温かい物でも買えのだが飛び出してきたためそんな余裕はなかった。


「⋯⋯お腹すいたな」


 温かいもの、と考えて最初に浮かんだのは肉まんだった。

 でも、それがいけなかった。今まで考えないようにしていた思考が一気に押し寄せ、空腹を刺激し出した。そして——


(ぐうぅ〜)


 ——盛大な音が鳴ってしまった。


「あっ⋯⋯」


 僕は咄嗟に周囲を見渡してしまった。そして、1人の男の人と目が合ってしまった。恥ずかしい、その思いで僕は俯きお腹を押さえ込んだ。これ以上恥ずかしい思いをしないように音を抑え込むのに必死だった。


「少年、腹減ってるのか?」


 俯いていた顔を上げるとそこにはさっき目が合った男の人が立っていた。緑のニット帽にナイロンのコート、深く刻まれた皺は苦労を重ねた⋯⋯おじさんみたいだった。そして、片手にはコンビニで買ったものが入っているだろうビニール袋を持っていた。


「え、えっと⋯⋯」


 僕は大丈夫です、そう答えようとした。でも、それよりも先に——


(ぐううぅぅ〜)


 ——僕のお腹がさっきよりも大きな声で鳴いてしまった。


「あ⋯⋯えっと⋯⋯」

「なんだ、腹減ってるじゃねえか。ちょっと待ってろ」


 そう言っておじさんはもう一度コンビニに入って行った。

 恥ずかしかった。あまりの恥ずかしさに今すぐこの場から走り去りたいと思った。しかし、火照った顔とは反対に寒さで固まってしまったような足が動き出さない。


 躊躇っているうちにおじさんは戻ってきた。


「ほら、食いな」


 そう言って、差し出してきたのはカップ麺だった。緑色が印象的なカップ麺『緑のたぬき』だ。僕は受け取るか迷ったが寒さと空腹に逆らえず恐る恐る受け取った。


「⋯⋯あったかい」


 容器から伝わるお湯の熱が青白くなっていた僕の手にジンワリとしみる。


「よし、そろそろ時間だ。食べても大丈夫だぞ少年」


 そう言っておじさんはペリペリと蓋を剥がすと割り箸を口に咥え器用に割り、大量の湯気の中に顔を突っ込みながら蕎麦を啜った。


 ズゾゾッっと豪快な音を立てながら、熱さに耐えかねてかハフハフっと餌を求める金魚のように冬の冷たい空気を吸いこんでいた。


 子供っぽく見える姿は知らないおじさんと言うより、お父さんに感じた。


「どうした少年?食べないのか?」


 おじさんに促されて自分が見つめていることに気づいた。

 改めて、もらった『緑のたぬき』に視線を落とした。たった数時間離れただけなのに二度と手に入らないんじゃないかと思えた温もりが伝わる。


 僕はペリペリと蓋を剥がすと割り箸を口に咥えた。バキッと変な音を立て割り箸は不恰好な形で割れたが僕は気にせずズゾゾッっと豪快な音を立てながら蕎麦を啜った。


「——あっつ!」


 思わず声が漏れた。

 忘れていた温もりが灼熱になって戻ってきた。僕はたまらずハフハフッっと餌を求める金魚のように冬の空気を吸い込んだ。


「どうだ、美味いか?」

「⋯⋯う゛ん」


 嗚咽が混じった。きっと急いで食べたせいだ。

 視界がボヤける。きっと湯気が曇らせるからだ。

 指先がふるえる。きっと冷たい風が吹くからだ。


「ふぐ⋯⋯えっぐ⋯⋯おいしい⋯⋯おいしいよ、おじさん⋯⋯」

「そうか⋯⋯ゆっくり食いな」

「う゛ん⋯⋯う゛ん、わがっでる⋯⋯」


 僕は無我夢中で食べた。辛さも、苦しさも、悔しさもまとめて飲み込むように必死に食べた。

 その様子をおじさんは特に何も言うことなく見守ってくれた。


「その⋯⋯ごちそうさまでした」

「おう!どういたしまして」


 手元に残る空の容器からは先ほどまでの温かさはない。少し寂しい感じもするが、その代わりに僕の中に何か大切なものが戻ってきた気がした。


「それで少年はどうしてこんなところで座ってたんだ?」


 空の容器を捨ててきたおじさんは僕の横にどかっと座ると聞いてきた。遅い時間に子供が一人で出歩いているのを不思議に思うのは当然だと思う。

 僕は辿々たどたどしいながらも事情を説明した。


「なるほど⋯⋯家出か」

「僕は⋯⋯どうしたらいいんでしょうか?」

「うーん、そうだなぁ⋯⋯」


 おじさんは難しそうな顔をしながら唸った。

 必死に考えを巡らせてくれるのが伝わるが、僕は心の中で答えないで欲しいと思ってしまった。

 子供だからと理由づけされて何もかもを指図される、そんな答えが返ってくるのではないかと思うとむしろ聞きたくなかったのだ。しかし——


「⋯⋯わからん」

「⋯⋯え?」

「だから、わからん!だ」


 ——おじさんの答えは意外だった。

 その答えに目を丸くし、空いた口が塞がらなかった僕からは随分と間抜けな声が漏れていただろう。


「俺には少年の苦しみや悲しみがどれほどのものかは分からない。話は聞いたから表面的なことはわかるが⋯⋯それだけだ」


 聞いておいてだけど、下手な説教よりは良かったと思ってしまった。やっぱり、期待なんてしてはいけないそう思おうとした時——


「だが、勇気を与えることはできる」


 ——不思議と僕の思考が止まった。


「⋯⋯ゆう、き?」

「そう、勇気だ。人生ってのはどんな時でもしょっちゅう嫌なことが起きる。それは俺も、少年も変わらない。それぞれ色んな痛みを感じながら⋯⋯立ち止まっちまう」

「⋯⋯」


 おじさんの言葉が耳の中を反芻した。期待していなかったのに、諦めていたのに、おじさんの言葉から耳が離せない。


「だから俺にできるのは少年に勇気を与えて、背中を押してやることぐらいだ」


 そう言うとおじさんは立ち上がり、ポケットの財布から何かを取り出すと僕に差し出してきた。


「少年はどうすればいいかわかってるだろ?これを使って上手くやりな」


 おじさんが差し出して来たのは一枚の千円札。

 受け取り、唖然としているとおじさんは僕の頭に手をポンとのせ横を過ぎていった。


「あっ!まっ——」


 おじさんを呼び止めようと振り返った。

 しかし、すでに乗り込んでしまっており黒く塗りつぶされたような窓からは車の中は見えない。おじさんがどんな表情で、何をしているのかはわからない。


 そして、すぐにエンジンがつき僕はまた1人取り残されてしまった。


「⋯⋯」


 また1人。孤独の寂しさが津波のような押し寄せてくるが⋯⋯不思議と気にならなかった。

 視線を落とすと手の中には一枚の千円札。吹けば飛んでしまうほど軽いが、今の僕にはこの世のどんなものよりも重たく、安心を与えてくれた。


「⋯⋯よし」


 僕は千円札勇気を握りしめコンビニに入った。必要なものを買い揃えるために。

 買い物はすぐに終わり帰路についた。足取りは軽い、とはならなかったがなんとか家の玄関にたどり着いた。


「⋯⋯ふぅ」


 心臓の鼓動が早いのがわかった。僕は深く息を吐きながら耳元にあるんじゃないかと思うくらいにうるさい気持ちを落ち着かせた。

 逃げ出したい気持ちが悪魔の囁きのように甘い言葉で誘惑してくる。しかし、持っているビニール袋を見ると自然と体が動いた。


「——ただいま」


 そう言って玄関を開けた。


 袋の中に入っていたのは『赤いきつね』と『緑のたぬき』の二つのカップ麺だった。どちらが母の好みかわからなかったため両方を買ったのが後日談だ。


 僕はこの日を忘れたことはない。


 冬の始まりになると、あの日のおじさんを思い出し『緑のたぬき』に手が伸びる。しかし、母の好みは『赤いきつね』のため結局一つづつ買ってしまう。その度に少しだけ笑みが溢れてしまうのは今になってみれば良き思い出だからだ。


 ああ、また冬がやってくる。

 今の僕があるのはあの日があったからだ。あの日の物語が誰かを幸せにできたら僕も嬉しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

緑のおじさんと赤い少年 静電気妖怪 @seidenki-youkai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ