16話

 意識を手放すことができないまま朝を迎える。カーテンから差し込む光を睨み、仕方がなく体を起こす。疲れの取れていない体を動かして、まだ目覚ましが鳴っていないスマホを手に取った。ディスプレイには一件、山川からのメッセージが届いている。


『ごめん、感情的になった』


 彼女がどんな思いでこの文面を打ったのか正確に読み取ることはできない。ただ、言わせているという感覚は拭えない。

 悪いのは僕だ。僕が折れるべきだった。気持ちの整理がつかず、何を言えば良いのかわからない。こうして迷っている間に僕はまた彼女に傷をつけてしまっているのだろう。その事実に情けなくなる。


『こっちこそ悪かった。埋め合わせは絶対にする』


 そう入力して、恐る恐る送信ボタンを押した。ぐちゃぐちゃな内心のまま、表面だけ取り繕ってなんとか捻出した一文。それは疲れた頭で考えた割にはマシに見えた。

 普段は顔を合わせない母と珍しくバッティングした。母は呆れたように僕を見て「早いうちに仲直りしときなよ」と知ったような口で言う。そんな軽い気持ちでできたのなら、僕はこんなに悩んでいないと内心で突っ込む。焼いた食パンを食べて、妹と顔を合わせないように早く家を出た。


 普段よりも一時間早い通学路は人が少ない。自転車のペダルを強く漕いで、普段は出さない領域までスピードを上げていく。やけくそに、現実から逃げるようにがむしゃらに。

 校門前の坂道を一気に登って、駐輪場に自転車を停める。外周を走るどこかの部員たちの掛け声を聞いた。なんとなく立ち止まって彼らが来るのを待った。

 Tシャツを汗で濡らしながら走り去る彼らを見る。どこに向かって走っていいのかわからない自分と、なぜだか似ていた。チラチラと後ろを見ていたからかもしれない。その視線を追って最後尾を見る。見覚えのある長身の坊主頭が後輩たちを追い回していた。


 五十嵐涼介。彼は自分とは対照的に真っ直ぐに前を見て、全力で、笑顔で走っていく。なんだか今の僕が追い回されているような気分になる。

 自分にもあんな時期があったはずだった。手から離れて、もう二度とそうなれないと知っていても、やけに彼が羨ましい。

 彼らが走り去って、足音が小さくなった。向かった先の教室には誰もいなかった。自分の席に座ると、体力の限界を迎えたみたいだった。昨日欲しくてたまらなかった眠気が襲ってくる。それに逆らうことなく僕は目を閉じて、腕を枕にして眠った。


 ▼


 周囲のざわめきで目を覚ました。顔を上げて、前髪越しにうっすらと目を開ける。ちらりと見た時計からして一時間ほど経っているようだった。ホームルームまではまだ時間がある。二度寝をしてしまおうと思ったけれど、それを周囲が阻んだ。


「あっ、ようやく起きたみたい」

「やっとか。揺すっても起きねぇから、死んでるかと思った」

「アンタ盛りすぎ。バリバリ寝息立ててたじゃん」


 女子の突っ込みに「そうだった」と男子が頭をかいた。いつだったか僕に黛との関係を聞いて来た奴だ。名前は未だに憶えていない。

 彼は肩を強く叩いた。パーソナルスペースなんて知ったこっちゃない、空気を読まない彼を鬱陶しく思った。


「聞いたぜ入江。とうとう念願のデートをしたらしいじゃんか」

「…………」


 何だ、嫌味か? でもまあ、妹たちが言っていたように傍から見ればそう見えなくもない状態であった。結果としては大失敗だったけれど、結末を見ていなければ野次馬根性でほじくり返したくなる気持ちもわからなくはない。けれど、そこは今触れられたくない場所だ。さっさと追い返して、二度寝してしまおう。


「……誰を見たか知らないけど、人違いだろ。僕はデートなんてしていない」

「とぼけないでよ~。入江君、黛さんと付き合ってるんでしょ?」

「……は?」


 眠気が完全に吹っ飛んだ。

 どういうことだ。山川じゃなくて黛? 本当に勘違いしてないか? 昨日僕と一緒にいたのは山川だ。黛と一緒にいたのは五十嵐だった。第一、僕と五十嵐は全然見た目が違う。見間違えるなんて、ありえない。シルエットがまず大きく違う。


「何を言い出すんだお前ら。僕と黛が付き合うなんて……あるはずがない。ふざけるのもいい加減にしろよ」


 人には立ち入ってはいけない所がある。僕に人のことを言えないけれど、冷やかすのもいい加減にして欲しい。


「でも、その証拠に今日はえらく早く黛が登校してきているだろ?」

「そうそう。それに私、見たんだよ。黛さんが寝てる入江君の横に座ってた所! 特別~って感じの距離感だったんだから!」


 彼女がキャーと甲高い歓声を上げた。彼女が放った言葉を受けて周囲のざわめきが大きくなっていく。「入江殺す」とか言ってる奴、聞こえてるからな。頼むから命だけは助けてくれ。いや、助けてください。僕にだって何が起きてるのかわからないんだから。


「ね、黛さん?」


 教室の中のほぼ全員が黛の定位置、窓際の座席へ視線を投げかけた。我関せずといった様子で外の風景を眺めていた彼女も、流石にこの空気には耐えられなかったようで、こちらを睨んだ。


「うるさい。別に私がどこの誰と付き合っていようと勝手でしょう。部外者が騒ぎ立てないで」


 黛はギャラリーへ警告した。けれどその言葉は火に油を注ぐようなもので、クラスメイト達はより一層色めく。

 僕は黛の行動に整合性をつけることができない。彼女は意味のないことはしない。けれど今の言葉からは意図が読み取れなかった。

 黛と五十嵐が付き合っているとすれば、彼女はここで僕との関係を否定するはずだ。周囲に勘違いされるのは面倒なはずだから。なにより、五十嵐が良い顔をしないはずだから。

 けれど、そうはしなかったのはなぜか。もしかして、だが……彼女は五十嵐と付き合っていない? あの状況でも? ……正直、考えにくい。

 加えて、別の疑問も浮かぶ。さっきのクラスメイトの話だ。黛は今朝、寝ている僕の横に陣取っていたという話。彼女はなんでそんな誤解されるような行動をとったんだ? こんな騒ぎなんて最初からなかった方がいいはずなのに。

 くそっ……考えが纏まらねぇ。イラついて僕は前髪をかき上げてクシャッと頭皮に爪を立てた。それとほぼ同時に黒板側の引き戸が音を立てて解放される。そこから僕の悩みの種となっている五十嵐が入室した。彼は入るや否や真っ直ぐに僕を見る。


「よう、ケイ」

「……なんだよ」


 右手を挙げて挨拶をする彼を睨み返した。あんなことがあったのに普段通りで腹が立つ。

 正直に言えば、今は五十嵐と向き合いたくはなかった。妹たちと同様に顔を合わせないでいたかった。それは向こうも同じはずだと思っていた。そうでなければ彼はあの時、逃げ出したりしないだろう。けれど、そう思っていたのは僕だけだったらしい。

 五十嵐は僕に向けてズカズカと歩みを進める。それからタイル二枚分ほど挟んだ距離で、僕を指差してこう宣言した。


「俺と勝負しろ、黛と交際する権利を賭けて」


 戸惑いを隠せない僕、そして周囲のクラスメイトたち。混乱の最中で五十嵐だけが不敵な笑みを浮かべていた。

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