幕間 入江ツインズの憂鬱

「ありゃあ、兄ちゃん相当入れ込んでるぜ」


 帰り道、薄暗くなった路地で和己ちゃんが呟いた。私も「そうだね」と同意する。私たちは今日コンパスとしてあの場に出向いた。お兄ちゃんの気持ちがどこに向いていて、それがどれぐらいの規模なのかを判断する指針。その役割はしっかりと果たせたと思う。

 私たちだって伊達に兄妹を十数年やっているわけではない。お兄ちゃんがどうすれば怒るのかその境界線はきっちりと弁えている。今日はそのラインを意図的に超えたつもりだった。

 けれど、お兄ちゃんのラインは普段よりも随分と後ろに引かれていた。そうでなければ夕飯にありつけないまま店を追い出されていたはずだ。

 というか一度追い出されたことがある。だからお兄ちゃんがいない日にしかあの店には足を運んでいなかった。

 お兄ちゃんには我慢しなければならない理由があったのだ。従業員としてのプライドとか、家族の中での力関係だとかそういうのを度外視して優先しなければならない理由が。それは一つしか考えられない。


「黛さん、ね。確かに綺麗な人だったけど、何がそこまでお兄ちゃんを引き付けるんだか……。私にはさっぱり」

「静香ちゃんがお手上げってなるとアタシにはどうしようもないじゃねーか。しっかりしてくれよ」

「無茶言わないで。まだ情報が少なすぎる。お兄ちゃんの口からあの人のことなんて一度も出てきたことがあった?」

「そりゃあ、そうだけどよ」


 和己ちゃんが不貞腐れて道端の小石を蹴った。荒れたアスファルトの上を不規則に転がるそれは私たちの混乱を示している気もした。

 それがなんだか嫌で、私の前に転がってきたタイミングで思いっきり蹴る。側溝の溝へ吸い込まれるように転がって落ちていく。


「……お兄ちゃん、どうしてあんなよくわからないポッと出の人を好きになっちゃったんだろう」


 経緯も理由もさっぱりわからないままに呟く。こと恋愛においてお兄ちゃんは衝動的には動かない。基本的に考えに考えて、行動が遅れて、かっさらわれるまでがテンプレートだった。今回のお兄ちゃんの変化は何が何でも急すぎた。私たちの経験則をはるかに超えている。

 上を向いて考え込んでいた和己ちゃんが私の方を見た。


「……騙された、とか?」

「いや、和己ちゃん。出会って数日でそこまでいくかな?」

「いや、静香ちゃん。山ちゃんがクラスメイトだって言ってたじゃん」


 ……そうだったっけ? そんな大事なピースが頭に入らないぐらい私は混乱していたらしい。


「じゃあ、それなりに時間はあったわけだね」

「兄ちゃんがバイトしまくりの守銭奴だってことは普段見てればすぐわかることだしな。アタシはカツアゲなんてしないけど、もしカツアゲするなら兄ちゃんをターゲットにするかな?」

「それ、お兄ちゃんをよく知らない他人が考えられる?」


 私たちも人のことは言えないけれど、お兄ちゃんはなかなかに柄が悪い。普段は前髪を下ろして誤魔化しているけれど、鋭い目つきが特徴の険しい顔は近寄りがたい。和己ちゃんのような思考は考えにくかった。


「それだけ覚悟を持って来てんだよ。本気で兄ちゃんから金絞りに来てんのさ」

「あんなに綺麗でお淑やかな人が?」

「それは、取り繕うのがめちゃくちゃ上手いのかもしれないじゃん」


 黛さんの姿を思い出す。あの立ち振る舞い、表情の柔らかさは同性の私としてもちょっと憧れる。彼女になれないことはわかっている。それでも、彼女のようになりたいとは考えてしまうぐらいに魅力的に見えた。


「というか静香ちゃん。あの人のこと気に入ってる?」

「まさか。……いや、でも『テレビで綺麗な新人女優さんを見つけた時』みたいな気分ではあるかも」

「あーそれはちょっとわかる。雰囲気あったもんな」


 やはり立ち振る舞いは武器だ。

 私がなるべく丁寧に話すのは気高くいたいから。和己ちゃんが荒っぽく話すのは舐められないため。私たちはそうやって望む『強い自分』を常に演じている。

 黛さんの本心はわからない。けれどもし、彼女が私たちのように意図的に印象を操作しているとする。そうした時、彼女の望む『自分』は誰にでも取り入って思い通りにすることなのではないかと邪推してしまう。


「……だとしたら、絶対にあの人の思い通りにはさせられないね」

「そうだよな。だって兄ちゃんにはちゃんとした人と幸せになってもらう義務がある」


 そうだ。お兄ちゃんは後ろにいる私たちのために色々捨てている。それがわからないほど子供じゃない。だからせめてそれだけはお兄ちゃんに全うして欲しかった。


「うん。だからこんな土壇場で全部ひっくり返されるなんてごめんだよ」

「そうだな。まあまずは山ちゃんをどう焚きつけるか考えないとな」

「そこが一番の問題なんだよね……」


 私は呆れながら呟いて、三つ編みの先輩ことを想ってポケットのスマホを握る。都合の良い文面はなかなか思い浮かばなかった。

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