旦那ちゃまとわたし

しーの

フレンチトースト、或いはパン・ペルデュ。貧しい騎士の友たるこの退廃的な食べ物(1)

 ぱちん。

 いつも通り朝日が昇ると同時に目が覚めた。

「ふわぁ……」

 半身をおこしたところで背を伸ばし、あくびをかみ殺すまでが一セット。毎朝のルーティン。もう儀式みたいなものだ。

 残念ながら目覚まし時計なんて気の利いた代物はない。ましてやタイマー機能付きのスマホなんてもっての外。

「ほら、起きな。リリー」

「おはよ、お姉ちゃん」

 隣のベッドで寝ていたはずの我が姉アマンダは、早くも身支度を整えて準備万端の戦闘状態だ。なんとなく常在戦場という四文字熟語が脳裏を過ぎる。

「おはよう。早く支度しないと母さんにどやされるよ」

「ん〜」

 起きたばかりで、まだ本調子でないのはしょーがない。わたしはエンジンがかかるまで時間がいるタイプなのだ。

 なんとかベッドから抜け出したわたしは、壁際の洗面台に向かった。洗面台といっても蛇口を捻ったら水が出るわけでもない。見た目はちょっと背の低いチェストっぽい家具だ。石の天板の上に水差しと洗面器を置いておいて、そこで顔を洗って身支度するのである。天板部分が石なのは、少しくらい水が跳ねたり溢れたりしても拭けばすむからだ。

 ちょっと大きめの水差しを手に取り、洗面器に水を入れて顔を洗うとスッキリした。

 寝間着を脱いで地味な茶色のワンピースを着たわたしは、その上にしばらく前に貰った姉からのお下がりのエプロンをつけた。元は紺色の生地だったような気がするが、洗いすぎて随分と色が抜けてしまった代物だ。

 ま、これはこれで味があるし、丈夫だし便利なので文句はない。

「先、行ってるからね」

「はぁい」

 わたしは手早くブラシで髪を梳き、左右に分けてそれぞれ三つ編みにしていく。もう慣れたものだ。

 靴下を履いてブーツに足を突っ込めば、これでわたしのいつもの格好が出来上がる。洗面台の鏡を覗き込むと、ブルネットをおさげにした青い眼の少女がこちらを見返していた。

「うーん、我ながら地味なモブ顔」

 そんなに悪くはないと自分でも思うし、顔馴染みのお客さんからは可愛いと言ってもらえるけど、残念ながら誰もが目を瞠るほどの美少女ってわけでもない。例えるならそう、小学校のクラスで上から五番目か六番目くらいには可愛いと言われるくらいの容姿である。

 生まれ変わったって、そうそう誰もが超がつくくらいの美形になれるわけでもない。現実は非情だ。

「ちょうどいいけどさあ」

 前の人生の記憶を持ち合わせていたところで、それがちょっとしたアドバンテージくらいにしかならないのは分かっている。

 わたしは己を知っているので。

「中世なんかじゃなくて良かったわ」

 いや、ほんとに。

 なまじ二十一世紀の日本で生活していた記憶なんかがあると、たとえ産業革命後の英国であろうと不便であることに変わりはない。中世や古代でなかっただけありがたいというものだ。もっとも、ここが本当にわたしの知る十九世紀大英帝国なのかは疑問なのだけど。

「おはよう、リリー」

 階下の台所に顔を出すと、お母さんがお客さんに出す朝食の支度をしていた。四つ葉亭は村で唯一の宿屋だ。パブ兼食事処でもあり、わりと繁盛していると思う。

 何せ提供している食事には、ちょっと自信がある。その昔、お母さんは領主さまのお館で料理人をしていたのだ。娘のわたしが言うのも何だが、その腕前は折り紙付である。ちなみにお酒の管理は元執事のお父さん。けっこう評判のいい宿屋なのだ。

「おはよ、お母さん」

「そっちの皿、運んでおいてくれる?」

「はーい」

 冷菜を乗せた大皿を食堂のサイドボードまで運ぶ。すでにミートパイや冷製のハム、鱈の燻製といった皿が並んでいる。保温皿にはベイクドビーンズとカリカリに焼いたベーコン。籠には茹で卵。野菜はニンジンの細切りサラダと蒸したブロッコリー。

 基本的にうちで出す朝食はブッフェ形式だ。たっぷりの量を用意して、お客さん達は好きなものを自分で皿に盛って食べる。これだと給仕しなくていいので楽なのだ。紅茶とポリッジだけは運ぶけど。

 まぁ、領主館でも朝食はこのスタイルらしい。ご領主一家だけでなく、朝から忙しい使用人らも同様だとはお母さんの言葉。

「おはようございます、ミセス・ロバーツ。リリーちゃん」

 わたしがテーブルを拭いていると、きちんと身繕いしたトムさんが姿を見せた。

「おはようございます」

「おはよう、トム。お早いこと」

「なにかあってはいけませんからね。準備点検は念には念を入れておきませんと」

 トムさんは領主さまのお館で御者として働いていて、お母さんやお父さんとは昔からの顔馴染みの人だ。気安いけれど丁寧な態度なのは、二人が元上司的な位置にいたからだろうか。

「本当に。わたしからもお願いしますよ」

 鍋を掻き回していたお母さんが、カウンターに座ったトムさんに言うと、いつも快活な彼が神妙な顔でうなづいた。

「承知してまさぁ。大事なお役目でございますからね」

「ええ、ええ」

 お母さんがエプロンの端で、そっと目頭を押さえた。

「まだお若かったのに……」

 ご領主さま夫妻が事故でお亡くなりになったのは、ちょうど半年ほど前のことだ。イングランドやスコットランドにも領地を持つ大地主で、ご先祖はウィリアム征服王の時代に渡ってきた騎士だという。この国でも有数の古くからの名家の当主であられ、当然ながら爵位をお持ちでいらっしゃる。もちろん複数。

 本当に雲の上の方々なのだけど、お父さんやお母さんはお館勤めを長年していただけあって、ご夫妻がこちらで過ごされる時は必ず一度はお顔をお見せになり、親しげにお声をかけてくださっていた。

 ご領主さまはお母さんの作るいちじくのプディングが子供の頃からの大好物で、奥方さまはジンジャーブレッドが大好きだったのだ。

「まことに……大旦那さまもさぞお心残りでいらしたかと」

「おいたわしい」

 わたしはトムさんに出す紅茶を入れながら大人たちの会話に黙って耳を傾けた。先代さまは引退して別のご領地で療養なさっていたのだが、当然ながらお戻りになって対応の指揮を取っておられた。が、元々心臓を悪くなさっていたこともあり、無理が祟ったのか先代さままで逝去されてしまったのだ。

 残されたのは、まだ八歳の男の子が一人だけ。

 広大な領地と邸、無数の事業、莫大な遺産。そして、爵位。そんなものが全て小さな男の子の肩にかかる。恐ろしい話だ。

「ミスター・ランダルには及びませんが、このトムも精一杯坊っちゃまにお仕えする所存です。館の皆もそうでしょう」

 そう言ったトムさんは、紅茶の入ったカップに口をつけた。

「何より坊っちゃまにはミスター・サイラスとミセス・ベルがついておられます。よからぬ者は近づくこともできませんよ」

 ミスター・ランダルは知っている。代々ご領主にお仕えしてきた一族出身で、先代さまのお若い頃からお勤めされている家令の方だ。前世的な感覚でいうと、江戸時代の大名家における譜代家老みたいな立ち位置である。お父さんの元上司だ。

 けれども、ミスター・サイラスとミセス・ベルという名前は初めて聞く。お母さんは知っているみたいだけど。

 訊いてみたい気はしたものの、あいにく他のお客さまが入ってこられたので、わたしは慌てて席に着いた方々に紅茶を運んだのだった。

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