*4-4-7*

 またあの夢だ。

 四季を通して変わらぬ景色。その時が昼なのか夜なのかすら分からぬ暗い監獄。外の景色など見ることは叶わず、冷たい石造りの壁と鋼鉄の檻だけを見つめる日々。

 周囲を見渡せば狂人たちの群れ。だが、それもある時を境に消え去り、私は1人きりで薄暗い特別房へと移動させられた。


 監獄と形容こそするが、そこは立派な病院の中の病室のひとつだ。

 私が身を置いていたのは、かつて英国ロンドンのブロムリーに存在した王立ベツレヘム病院。世界最古の精神病棟。

 精神疾患に苦しめられる患者達を【治療可能】【治療不可】のグループに分けて収容し、貴族たちの見世物としていた悪名高き病棟である。

 内部で行われていた醜悪な日常を一目でも目にしたなら、そこが病院とは名ばかりの監獄であるという意見に異論など抱くはずはない。

 それに、管理していたのが刑務所の運営を監督する役所であったというのだから、厳密に言って監獄という呼称が間違いというわけでもないのだろう。


 ただひとつだけ。

 監獄らしからぬ要素を挙げるとするならば、彼女の存在に限られる。


 どうして彼女は、私という存在にそこまで執着したのか。

 幼い姿をした同性が、暗い檻に閉じ込められているのを見て可哀そうだとでも思ったのだろうか?

 生憎と、当時でも彼女の生きてきた年月の実に三十倍弱の歳月を生きてきた身である。幼い姿という理由で同情されたとして、感慨など感じることもない。

 結局、最後の“最期まで”理由を聞くことは叶わなかったし、今さら答えを知りたいなどとも思わないが、今こうして私が十八世紀の遠い過去を夢見るのはきっと――


 彼女に対して想うところがあるからなのだろう。

 しかし、それは“私の想いではない”。

 私が庇護するべき大切な存在。もう1人の私。


 アンジェリカ……

 貴女は彼女に何を感じていたの?

 今でも、貴女は彼女に何を感じているの?



 私はその答えを聞くのがたまらなく怖い。



 あの看護師は―― 彼女は私達の世話係だった。

 暗く汚い独房まで毎日訪れては、私達の食事の世話なんかをしていた。必要無いというのに。

 なぜそうなってしまったかは定かではないが、私達は不老不死の肉体を持っている。故に、食事などしなくても本来は死ぬことはない。

 ただ、空腹に苛まれると少し苦痛を感じる程度のことだ。ほんの少しだけ。

 端的に言って、彼女の行いの全ては私達にとって“必要のないこと”であったのだ。

 アンジェリカがどう感じていたかは分からないが、私にとってはひたすらに鬱陶しいだけの存在であった。


 彼女は連日、私達の独房に訪れて食事の世話をしながら、外の様子の話をしたり、歌を聞かせたりした。

 アンジェリカは私と同様に、食事にも外の話にも興味を示さなかったが、唯一彼女の歌う歌だけは熱心に聞き入っていたと思う。

 そうして、やがてあの子自身も彼女の真似をして歌い始めるほどに。



If you intend thus to disdain,〈もし、貴女が私を軽蔑するのなら〉

It does the more enrapture me,〈それはますます私を惹きつける〉

And even so, I still remain〈それでも私の心は〉

A lover in captivity.〈貴女に魅了されたままなのだから〉



 物悲しげな旋律に乗せて彼女はそんな風に歌っていた。

 曰く、この歌はイングランドに古くから伝わる民謡であるという。一説では、十六世紀にとある王妃に贈る為に生まれたものではないかと言われているが真実は定かではない。

 俗説は多々あれど、遠い昔に生まれた歌である為に起源を探ることは限りなく困難なものであるのだろう。

 確かであるのは、この歌が数百年という時を経て語り歌い継がれて存在しているということくらいだ。


 私達の世話を焼いていた看護師は言った。

 この歌は【愛の歌】であるのだと。

 もちろん、私達はそんなものを知らない。愛とは罪に対する報酬を授けること。悪行に対する対価として罰を与えることでしかない。

 であるからして、どうして私達に歌詞に語られるような心の動きなどが理解出来ようか。


 ただ、分からないなりにアンジェリカはこの歌を覚えて歌った。

 彼女がいる時も、いない時も。ふとした瞬間に、いつも。そうして結局のところ歌の全てを覚えるに至ったのである。

 私はあの看護師の歌も、アンジェリカの歌にも興味こそなかったが嫌いではなかった。

 特に、アンジェリカが歌うとなぜか心地よく、なぜかこれまでの意味のない生に意味が与えられたような不思議な感覚になったものだ。

 理由など知らない。愛を知らない者に愛の歌の意味や理由などわかるはずがない。

 それでも。意味や理由が理解出来なくても、なぜか好ましく思っていたことは事実だった。



 他愛のない、変化のない日常は過ぎ去っていく。

 気付かぬうちに季節が幾度か巡り、やがて生命が眠りに就く冬がきた。

 気温の変化で感じ取るしか無かったが、あれは冷たい風を運ぶ秋が過ぎ去り、本格的な冬の季節が訪れた時のことだったと思う。

 夜。いつものように、私達の食事の世話を焼きにきた看護師に私は珍しく自ら言葉をかけた。


『貴女、飽きもせずによく私の相手をしていられるわね? もしかして暇なの?』

 すると彼女は言った。

『これが私の仕事だと言ってしまえばそれ。でも、本当のところはどうかしらね。私はただ、自分がそうしたいと望むからこうしているのだと思う』

『物好きね。てっきり、私が可哀そうだからなんていう、くだらない理由で同情しているだけかと思ったわ。それより、私が怖くないの? 貴族たちに見世物にされる狂人よ。精神を病み、他者を傷付けることにのみ快楽を覚える異常者。前にいた檻の中で他の患者にそうしたように、貴女のことだって殺してしまうかもしれない』

『それは御免被りたいわ。でも、今の貴女はそんなことしないでしょう? 私には分かるわ。貴女は決してそのようなことをしない』

 彼女の言葉が癪に障った私は語気を強めて言った。

『大した自信だこと。貴女だって、私達が他の患者を痛めつける瞬間を幾度となく見たでしょうに。どうしてそう思うのかしら?』

 睨みつけるように彼女をじっと見据えて言うと、彼女は一瞬だけ私の顔を見た後に視線を逸らして言った。

『こう言うと、きっと貴女は怒ってしまうと思う。けれど、問われたからには答えてあげないわけにはいかないわ。理由は単純なことよ。だって、貴女はすごく優しいのだから』

 そう言われた時、心の中で何かが軋むような気がした。

 言葉では言い表せない感情。恐怖とも不安とも違う。それでいて、落ち着かない焦燥感のようなものを。私は思わず聞き返す。

『私が優しい?』

 怪訝な顔をして問い掛けた私に、看護師は頷きながら返事をした。

『えぇ、とても。貴女、アンジェリーナちゃんね?』

 思いがけず名前を呼ばれたことで私は言葉に詰まってしまうが、彼女はその様子を見て微笑みながら言ったのである。

『ほら、やっぱり。たまに誰もいない場所に向かって話しているのを聞くから。ごめんなさい、盗み聞くつもりとかそういうのではないの。ただ、アンジェリカちゃんは虚空に向かって、大切な人に語り掛けるようにいつも名前を呼んでいたから気になったのよ。

 Another me, Different me, Alter Ego. Angelina, Angelina.〈もう1人の私、私とは違う私、私に無いものを持つ私。アンジェリーナ、アンジェリーナ〉

 彼女はずっとそう呼び掛けていた。その時、思ったの。貴女の中には2人のアンジェリカちゃんがいるんだって。

 1人は朗らかで無邪気な彼女。そしてもう1人は、今私の目の前にいる貴女。違うかしら?』

 的確に自分達のことを言い当てられた私は何も言うことが出来ず、そっぽを向くしかなかった。

『それについさっき、貴女は自分のことを“私達”と言ったわ。それが何よりの証。ただ、気を悪くしたのなら重ねて謝るわ。ごめんなさい』

『別に良いわよ』

 戸惑いながらも、そう呟くのが精一杯であった。



 精神分裂病、今の時代で言う統合失調症、或いは解離性同一性障害と言われる精神疾患が世に認められ始めたのは十九世紀に入ってからのことである。

 分からないもの、理解できないものを恐れる人間の特性上、長きに渡って私達のことをあのように受け入れる者など見たこともなかった。

 多くの人間達は1人の人間が持つ表の顔と裏の顔といった具合に、ただ私という人間の本質が“実はそうであり、残酷なことをやってのけるからには精神がおかしいに決まっている”という偏見でしか見ていなかったに違いない。

 にも関わらず、明確な病名など存在しなかったあの時代に、あの看護師は私達という2人の存在がそれぞれ“別に存在する”ということを的確に見抜き理解し、自身の中で認め受け入れた上で私達と接していたというのだ。


 むしろ、この事実は私にとって受け入れ難いものであった。

 否定され、非難され、罵られる方が慣れていたこともある。誰にも認められず、誰にも必要とされなかった私達を指して、“そういう存在である”と認めたのは彼女が初めてであった。

 この時になって私は初めて、自身が感じていた焦燥感の正体というものが〈自身の中にだけある恐怖〉であることを理解した。


 私は自らの内に沸いた恐怖を掻き消す為に彼女へ言った。

『もういいわ。1人にしてちょうだい』

 とにかく彼女という存在を目の前から遠ざけたい一心であった。気持ちの中に突如として沸いた言いようのない不安感を鎮める為にはそれしかないと考えたからだ。

 私が言うと、彼女は何も言わずに立ち上がってその場を後にした。きっと、彼女の表情には変わらぬ穏やかな笑みが湛えられていたのだと思う。

 だが、あの時の私にとってはそれすらも畏怖の対象になり得た。


 彼女をアンジェリカに近付け過ぎてはならない。


 その思いで一杯になった。

 元々、私という人格はアンジェリカの心を守る為に、彼女の無意識によって生み出され作られたものだ。

 私という存在は当たり前のようにあの子の中にあるが、言い換えれば私という存在はあの子の考え方ひとつでどうにでもなるということである。

 もし仮に、あの看護師をアンジェリカに近付けすぎてしまえば、自分という存在を認める存在が現れたことをきっかけとして“私という存在があの子の中で必要無くなってしまうのではないか”。

 そう思わずにいられなかった。


 遠い昔、数百年前に私が初めてアンジェリカの中に生まれた日のことを思い出す。

 アンジェリカは生まれて初めて、自身のことを1人の人間として認めてくれようとした相手を殺すことを躊躇った。

 あの時、初めて自身の中に生まれた感情に戸惑い、理解出来ずに立ち竦むしかなかったのである。

 アンジェリカにとって〈誰かに認められる〉ということは救いであると同時に、これまでの自分という存在の在り方を真っ向から否定することにも繋がってしまう。

 あの子にとっての“愛”とは、罪を罰した時に得られる両親の反応のことであった。両親の希望する行いを否定した結果として愛が得られたとすればどうなるだろうか?

 生まれてから繰り返し行ってきた自らの行いが“間違いであった”と認識させ、自らを絶望させ、最悪の場合は自分から死を選択してしまう危険性すらある。

 そんなことを、あの子にさせるわけにはいかない。きっと、だからなのだろう。あの子が持つ防衛本能が私という人格を生み出し、それによって自らの心を守ろうとしたのだ。


 そうだ。

 私は嘘をついている。


 私はアンジェリカと違って“愛”というものの本質を既に知っている。

 ドイツ、ミュンスターで忌々しいフロリアンに言われたことは何もかもが正しかった。

 正しいが故に認めたくなかった。


 あの時、彼はこう言った。


『アンジェリカ。君は最大多数の人々が言う“愛”と呼ぶものを本当は知っているはずだ。

 知っているけど、その身に受けたことが無いから受け入れ難い。理解できないのではなく、認めたくないんだ。

 なぜなら、それを認めてしまった瞬間に、君という存在の定義そのものが揺らぐからだ。

 君の言う、〈愛とは何か〉という問いは言葉通りではない。君が本当に欲しているものは言葉の意味なんかじゃなくて〈自身に与えられることが無かった〉もの。そのものだ』


 まさしくその通りだった。

 彼の言う通り、私という存在の定義はアンジェリカが愛というものの本質を認めてしまった瞬間に揺らいでしまう。

 自身に与えられることが無かったものを手にしてしまえば、その瞬間にきっと――



『君はただ、自身が望むものが〈欲しい〉と、素直に誰かに言うだけで良かったんだ』



 数百年前のあの日。

 信仰心の篤かった囚人に、その言葉を言えばあの子は救われたのだろうか。


『愛が欲しい』


 そう言えば、私という存在が生まれることもなく、彼女の人生は何かが変わっていたのだろうか。

 答えなど知るはずも無いし、知りたいとも思わない。

 私が願うことは常にひとつだけであるし、アンジェリカが願う夢が、理想が叶えられるようにすぐ傍で支えること以外に望むべくものなど何も有りはしない。




 これは本格的な冬の到来を迎えたある年の暮れの記憶である。

 監獄の中は酷く冷え込むが、そんなことは私達にとってはどうでもいいことであった。

 しかし、私にとってどうでもよくなくなった事柄は何の前振りもなく再びやってきた。

 私が彼女を遠ざけたすぐ翌朝に看護師の彼女は懲りもせずに再び私達の前に姿を現したのである。

 世話係、食事係なのだから当然といえば当然ではあるのだが、前夜のことを何も気にしていない様子で現れたものだから私は面食らってしまった。

 昨夜、私と彼女が話している時に眠っていたアンジェリカは、なぜ私が彼女を目の敵にするように見据え、ずっと不機嫌そうに見ているのか知る由もなかっただろう。

 その朝はいつものようにアンジェリカが彼女の相手をし、差し出された食事に手を付け、他愛のない話をして最後に歌を歌った。


 例の愛の歌。グリーンスリーブスだ。

 その日の朝に聞いた歌はなぜか強く頭の中に残った。

 彼女は私達を慈しむような瞳で見据え、優しい声で歌い上げる。


Well, I will pray to God on high,〈私は天上の神へ祈りを捧げよう〉

that thou my constancy mayst see,〈彼女が私の変わらぬ想いに気付き〉

And that yet once before I die,〈私が死ぬ前に一度でいいから〉

Thou wilt vouchsafe to love me.〈私を愛してくれるようにと〉



 この時だったのだろう。

 私の中で、彼女に対する明確な殺意が芽生えたのは。

 彼女を殺してしまわなければ、私達の将来にとって取り返しのつかない出来事が起こる。

 かつて、信仰に篤かったあの男性を殺したのと同じように、あの看護師も殺してしまわなければ。


 そうして運命の夜が訪れた。


 いつものような夜。ただなんとなく建物の周囲が静かになったことで夜が来たのだと悟るしかない監獄の中で、彼女の足音が聞こえた。

 時間は相当遅い。私の中でアンジェリカはすやすやとした寝息を立てて眠ってしまっている。

 監獄の前に辿り着いた看護師の彼女は、いつもと変わらぬ笑みを湛えて優しく言う。

『ごめんなさい。他の仕事が長引いてしまって、ここに来るのが遅くなってしまったわ。お腹空いたでしょう?』

 そう言って食事を私の目の前に差し出した。

 患者用に与えられる僅かなパンと具の無いスープという質素な食事ではあったが、彼女の優しさからか、スープは温められており、独房内には蒸気とほのかな良い香りが立ち上った。

『焼き立てのパンもあげられたら良いのだけれど、私に出来るのはスープを温め直すことくらいのことだから。さぁ、お食べなさい』

 彼女が言うが、私は運ばれてきた食事に手を付けることなく檻を隔てた彼女の目の前に立ち尽くす。

 全てはこの子の為、私の為、私達の為に。


 すると、彼女は一瞬不思議そうな表情を浮かべはしたものの、すぐに何かを察したように顔を俯けて言ったのだ。

『そう、やっぱり私を殺すのね?』

『えぇ、そうよ』

 私は何を迷うこともなく言った。最良の判断。最善の判断。

 今そうしなければ、この先には“私達の”未来はない。

『昨日の夜、貴女が私に立ち去れと言った時に感じていたのよ。理由は分かっているわ。あの子の為に。だから言ったでしょう? 貴女は優しい子だって』

 私は無言のまま立ち尽くした。もはや彼女の言葉を聞く必要などないからだ。

 だが、彼女は私の目をしっかりと見つめ直してから言った。

『最期に、ひとつだけ貴女に謝らせてちょうだい。アンジェリーナちゃん、貴女とは十分に話が出来たとは言い難いから。私が伝えたいことはひとつだけ。貴女たちのことを、本当の意味で助けてあげられる大人でなくてごめんなさい。それだけよ』

 彼女はそう言うと服の中に仕舞っていた十字架を取り出して神に祈りを捧げる姿勢を取り、静かに目を閉じたのである。



 その瞬間、私の脳裏に過去の景色が色濃く蘇った。


『情けない大人で、申し訳ない。君をこのような辛い目に遭わせてしまう私達は最低な大人だ。そのことを、今日は君に伝えたかった。

 運命などというものがあるとすれば、私はそれを憎もうと思う。そして先に言った通り、君の幸せを願って祈りを捧げよう。主よ、憐れみ給え』


 数百年前、公国の監獄の中でアンジェリカの目の前に跪き、祈りの姿勢を取ったあの男性のことが!


 同じことの繰り返しだ。

 直後に私は奥歯を噛み締め、酷い叫び声を上げながら、持てる力の全てを注ぎ込むようにして彼女を葬り去った。

 どうやって殺したのかなど記憶にない。

 気が付いた時には目の前は真っ赤だった。返り血を浴びて真っ赤に染まったぼろぼろの服と顔。

 そして―― 赤黒く燃え盛る炎。

 絶対の法の力を使い、監獄を破壊して彼女を殺し、外に抜け出した私はどうやら病棟全体に火を放ったらしい。


 リナリア公国が燃え尽きる景色と酷似するそれはとても美しかった。

 行く宛ての無くなった自らが望んで足を踏み入れた場所であったが、病棟から抜け出したあの瞬間は籠から解き放たれた鳥のように自由を得た気分であったことを覚えている。

 私が目の前に燃え盛る病棟をじっと見据えていると、私の中で目を覚ましたアンジェリカが眠たげな声で言った。

『何事ぉ~!? あはは、でもとっても綺麗☆ 凄い凄い! 良き良き! 良き景色なり☆』

『そうね、とても綺麗だわ』

 言って間もなく、眼前から立ち昇る黒煙で視界の全てが遮られると、惜しむようにアンジェリカは言った。

『あぁーん、いやぁー´・・` もう少しこの景色を眺めていたかったのに、残念』

『そうね、もう少し眺めていたかったのも事実だけれど。行きましょう。ここにいると私達は目立つし、煙で煤だらけになるのも御免被りたいわ』

『うんー☆ そうしよう! でもでもー、どこに?』

『そうね、じゃぁ……』

 私は考えを一通り巡らせた上でアンジェリカに言った。

『私達の生まれた場所に行きましょう』


 海を隔てた遠い場所。

 英国から船で漂ったとしてどの程度の時間がかかるものなのだろうか。それより船はどこで手に入れたものだろうか。

 その時はそんなことすらどうでも良かったし、何も考えてはいなかったが何とかなるだろうという予感だけはあった。

 私が言ってすぐ、アンジェリカが返事をする。

『名☆案! 他に行くところもないしー? 里帰りしてみるのも悪くないかもねー。ほらほら、もしかしたら懐かしい顔が見られるかもしれないし? 想い人に祈りを捧げ、憐れに彼を待ち続ける王妃様! 再会した暁には思いっきり泥を被せてやるんだから☆ きゃはははは^^』


 彼女はいつだって楽しそうだ。

 監獄内で出会った看護師のことなど、あの瞬間には忘れ去っていたのではないだろうか。

 いずれにせよ、私は目の前に迫った脅威を排除することに成功したし、彼女の心の安定を乱すものを消し去ることに成功した。


 同時に、私の頭の中には殺したばかりの“彼女の歌声”が響いた。


Well, I will pray to God on high,〈私は天上の神へ祈りを捧げよう〉

that thou my constancy mayst see,〈彼女が私の変わらぬ想いに気付き〉

And that yet once before I die,〈私が死ぬ前に一度でいいから〉

Thou wilt vouchsafe to love me.〈私を愛してくれるようにと〉


 何もかもが正しかった。

 何も間違いなど無かった。

 そのはずであったのに、どうしてだろうか。


 紅蓮の炎に包まれ、燃え盛る病棟を眺めながら笑顔を見せるアンジェリカと対照的に、私は1人唇を噛み、心の奥底で絶望にも似た感情を抱いた。

 この後、私が彼女にあのようなことを言ったのはせめてもの罪滅ぼしというものだったのかもしれない。

 目指すべき場所は決まったが、行く宛てもない私達は早速燃える病棟を背にして歩き出していたが、私はあの看護師の歌声を脳裏で聞きながらアンジェリカに言ったのだ。


『ねぇ、アンジェリカ?』

『なぁに? アンジェリーナ☆』

 明るい声で返事をしてくれた彼女に私は言う。

『あの歌、私にも教えてちょうだい。貴女がいつも歌っている、あの歌を』

 私が言うと、アンジェリカは満面の笑みを浮かべて言った。

『いいともー☆^^』


 西暦1747年12月末。

 新たな年を迎えるという矢先に自らの居場所を葬り去った私達は、生まれ故郷であるリナリア島へ戻る船を手に入れる為に南の街ブライトンを目指し、ショアハムから自らの運命を大きく変えることになる航海の道へと踏み出したのだ。


                   *


 ぼんやりとした視界が焦点を結び、鮮明になっていく。

 微睡から引き上げられて、夢から醒めたアンジェリカが目にしたのは見慣れた玉座の間の景色であった。

 直線状に立ち並ぶ、炎を模した電子照明の柔らかく揺れる温かみのある光が空間の境界を鮮明に照らし出す。

 それらは穹窿状のボールト天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが放つ神々しい灯りと相まって、広大な玉座の間一面の隅に至るまで、夜を感じさせないほどに煌々と照らし出していた。

『私、眠っていたんだ。そうか、それでまた…… あの夢を』

 アンジェリカは左手を顔に当て、重たい身体を玉座から起こすと深い溜め息を吐いた。

『最近は夢を見る時間が増えていっている。未来予知の力をもつ者の夢には意味があるというけれど―― あれは数百年も前の記憶。過去の出来事。そんなものに意味があるだなんてね』

 ぼうっとする意識を現実に引き戻しながら、おもむろに顔に当てた左手を膝の上へと下ろす。

 すると、視界の端に水の入ったグラスを差し出す大きな手が見えた。見慣れた黒衣を纏う、このような大きな手の持ち主など1人しかいない。

「リカルド? 貴方、ずっとそこにいたの?」

 アンジェリカはグラスを差し出した人物に顔を向けながら言った。視線の先にはやはり、丁寧に首を垂れる彼の姿がある。

「随分と寝苦しそうにされていらっしゃいました。悪い夢でもご覧になりましたか?」

「いえ、ただの昔の記憶よ。何の他愛もない、ただの昔のね」

「左様でございますか。眠りは人の記憶を呼び起こす再現装置の役目があると言います。現実に起きた出来事、或いは現実で抱える意識を別の対象に置き換えて具現化させているのだと」

「それで? 過去の記憶を呼び起こして何の意味があるのかしら」

「はい。夢の中で記憶を辿り、それらを追体験、或いは整理することで意識の浄化を図っているものだと推察されています。

 人が無意識化で抱く置き換えの対象には一貫性があるとされ、これをもって人の夢は潜在意識化で繋がっていると考えた心理学者もいるほどです。

 そのようにして誕生したものが夢占いであるかと。オカルトの類ではありますが、そこに意味を見出すには参考になるやもしれませぬ」


 記憶の整理、意識の浄化。

 私の心に迷いがあるということ?

 拭えない記憶を思い出すことで、その時の判断の正誤を確認しているとでもいうのかしら。


 アンジェリカは思いを口に出すことなく、代わりに彼の差し出してくれたグラスを手に取り水を口にした。

 そうして意図的に話を逸らすように言う。

「アビーに尋ねたら面白い仮説を並べ立ててくれそうな話ね」

「長くなりそうではありますが」

「違いないわ」

 そう言って鼻で笑ったアンジェリカはグラスをリカルドへ返し、再び玉座の背もたれに身体を深く沈めた。

 ボールト天井に埋め込まれたステンドグラスを見つめ、先に広がる漆黒の空を捉えようと目を凝らす。

 だが、暗いものは暗いだけであり、当然のことながら目視できるものではない。

 自らの行いの無意味さが馬鹿らしくなったアンジェリカは小さな溜め息をついてそっと目を閉じ、呼吸を整えてから再び目を開いた。

 顔をリカルドへと向け、彼を慈しむような眼差しを送り言う。

「ところで、貴方は眠らなくて良いの? 貴方は私達とは違う。眠らなければ身体に障るわよ」

「お恥ずかしい話ですが、眠れぬのです。明日、ついに我らの理想が完遂することを思うと神経が昂ってしまい。ついに、共和国の悲願が達せられる。ついに貴女様の理想が叶えられる。感慨深いものです。同時に、これで終わってしまうのかと思えば一抹の寂しさも覚えます」

「まるで遠出を楽しみにして眠れぬ子供のようね。貴方にもそんな無邪気なところがあるだなんて、意外だわ」

「誠に。しかしながら、我ら共和国に住まう民が数百年に渡り追いかけた理想の成就です。昂らないと言えば嘘になりましょう。

 ただ、恐れながらアンジェリカ様。明日はそれほどまでに重大な決戦の日。貴女様におかれましても執務室でゆっくりお休みになられた方が宜しいかと存じます。空調もベッドの具合も貴女様好みに完璧に整えさせておりますし、良い休息をとることが出来るかと」

「ありがとう。何から何まで貴方に迷惑をかけてばかりね」

「迷惑などと思ったことはございません。全て、私の意思で行っていることでありますから」

「感謝しているわ。それと、先に言っておくけれど明日も宜しくね。私もネメシス・アドラスティアに乗艦するけれど、艦の実質的な指揮は貴方に任せる。私はサンダルフォンの動きを注視しなければならないから。

 海上戦力の指揮はシルフィーがうまくするでしょうから、他のことなど気にかけず、思うようにやると良いわ。アンティゴネの指揮も含めてね」

「はい」


 リカルドは短く返事をすると、丁寧に礼をして忠誠を示す。

 だが、彼の様子から迷い事があると察したアンジェリカは努めて穏やかに話を続けた。

「何か心に迷いがあるわね? 意外ついでというべきか。貴方らしくない。悲願達成、理想成就に先駆けて何が貴方の心を不安にさせているのかしら。聞かせなさい」

「全てお見通しであるかと存じますが、敢えての発言をお許しください。懸念が1つございます。国際連盟 セクション6に籍を置くあの2人。マリア・オルティス・クリスティーと連れのアザミという女。

 2週間前に初めてこの目にした時から今に至るまで、彼女達から感じ取った底の見えぬ不気味さのようなものが拭えないのです」

 予想通り。というよりは、自分はロザリアの持つ力の一端を彼に対しても行使できるのだから最初から分かっていたことでもある。

 彼の言う通り、口に出さなくても全て分かるが、敢えて彼の口から直接聞いてみたかった。

「そうでしょうね。私も自分らしくない小細工を弄して保険をかけてみたけれど、うまく機能するかは何とも言えないところだわ」

「プロヴィデンスに仕込んだ機密区分のデータについてですな」

「えぇ。マリアがプロヴィデンスを掌握する為には、必ず正規のセキュリティという枠組みを超えたイレギュラーのリンク接続、つまりはイベリスという媒介を用意して、彼女を手駒にすることが絶対条件となる。

 であるならば、先んじてマリアのやろうとしていることの全てをイベリスと、唯一マリアに対抗できる力を秘める姫埜玲那斗に知らせておく必要があった。

 今頃はイベリスも肝心なデータの中身を確認して、その全てを玲那斗に報告している頃合いでしょう。それを元に、彼らがマリアに対していずれかのタイミングで反旗を翻すかどうかは賭けでしかないけれど」

「手元に入る情報を見る限り、彼の中に眠る王の魂は眠りに就いたまま目覚めている様子はありません。先日、アンジェリカ様より頂いたお言葉に基づき彼の動向は注視しているところではありますが。もしや、彼の力を目覚めさせるためには別の要因が必要なのでは?」

 ご明察。さすがはテミスのリーダーであり、自らの補佐官を長きに渡って勤め上げる男である。

 アンジェリカはいつも通り“話の早い人間は好ましい”と思いながら話を続けた。

「昨夜も言った通り、マリアの異能、つまりは未来視やラプラスの悪魔と呼ばれるインペリアリスを封じた上でこちらが優位に立つには、レナト王が持つ絶対王政の力を借り受けるほかない。

 けれど、王の力を発揮させるには貴方の言う通り条件がある。それはつまり姫埜玲那斗の死よ。あの人の魂、あの人の意識は姫埜玲那斗という人間が一度生と死の境界を彷徨うほどに不安定な状況に陥らなければ覚醒することはないわ。

 だからこそ、イングランドの地で私達は玲那斗を殺すことが出来なかった。私達にとっても有用な切札を意味なく消費することは避けたかったから。

 全てはタイミングよ。彼の内に、王家の守護石に秘められ眠る王の魂を、マリアの目論見を封じることに利用するのであれば、彼を殺して良い瞬間というのは僅かな刹那に限られる。

 殺さなかったといえば、ミュンスターの地でフロリアンを殺さなかったのも似たような理由から。あれはもっと直接的にマリアを止めるために必要不可欠な存在なのだから」

 リカルドは考え込む姿勢を取りながら言う。

「我々の悲願達成における最大の障害。例え、無条件で我らが世界連合に勝利を収めたとしても、それが彼女達の理想実現の踏み台にされてしまう可能性が否定できない」

「その通り。明日の最終決戦において世界連合をねじ伏せることなど造作もないこと。ただし、正午に話したように玲那斗やフロリアンを生かしたまま、マリアとアザミだけを葬るのは簡単なことではないわ。言い換えれば連合艦隊を壊滅させたところで、マリアとアザミを殺し切ることが出来なければ、長い目で見た時に私達の敗北といって過言ではない。

 今回の戦争における私達の敵は最初から世界そのものではなくあの2人なのだから。」

「2人、ですか。アザミという女性。いえ、あれにとって性別などというものは本来どうでもよいものなのやもしれませぬな。神の力を持つ真正の悪魔。2週間前は姿こそ見せませんでしたが、ミュンスターで確認することのできた黒妖精バーゲストの存在もあります」

 尊敬の念を送る妖精の名を聞いたアンジェリカは表情を曇らせ、吐き捨てるように言った。

「本当に。彼のように聡明な妖精が、どうしてマリアなんていうただの人間に仕えているんだか」

 しかし、リカルドは首を横に振って言う。

「いいえ。マリア・オルティス・クリスティー。彼女は人間の皮を纏った化物でありましょう。自らの欲に従い忠実に事を為そうとする、真に人の行いを為される貴女様とは根本が違います。

 地球人類の為。世界の未来の為。万人が平等に暮らすことのできる紛争のない恒久平和の実現を目指すなどと。

 自身の理想などというのは偽りであり、突き詰めて言えば自らの欲望によってではなく、それが世界にとって“正しい”と認識したからという理由で行われる彼女の行い。それは完全に人の道を外しています。

 シルフィーの言を借りるなら、真の意味で欲を持たない彼女は本当の意味で人と言うべきものでは既にありません」

「我儘さと傲慢さは折り紙付きだけれど、ね? 諦めと頑なさえなければ、イベリスと共に可能性を信じ続けることも出来たでしょうに。リナリア公国から移住した先での出来事がきっとあの子を狂わせてしまったのね。責任の多くは、そう。王の座に就くことのなかった愚かな男の行いによるものに起因するわ。

 不可抗力というのかしら。仕方のないことだけれど、その最低な国王様の力を借りなければならない状況になっていることが、私の最大にして唯一の不満でもある」


 アンジェリカはそこで言葉を切り、2度目の大きな溜息をついて言った。

「やめにしましょう。マリアやアザミのことは考えていてもどうしようもないし、考えるだけ時間の無駄よ。埒が明かない。

 オッカムの剃刀という言葉があったわね? ある事象の説明に対して多くの仮説を用いるべきではない。私達もその言葉に従い、単純に物事を運ぶべきだわ。

 サンダルフォンに対しても、都合よく玲那斗やフロリアンを生かしたまま沈めるなんてこと、言ってしまえば出来るわけがない。

 殺そうとしているのに殺してはならない。私達が理想の勝利を得るためにやろうとしていることは考えるほどに矛盾だらけで、実に難儀なことなのだから。

 単純といえばそう…… 目の前にある勝利。それをあと少しのところで手中に収めきれないのは全て、単純にマリアとアザミという規格外の存在のせいなのだけれど」

 そうして玉座から立ち上がると、ゆっくりと階段を下って行きながら続ける。

「リカルド。貴方は先に懸念が1つと言ったわね?」

「はい」

「私にはもう1つの懸念がある。明日のアンディーンの動きをアムブロシアーに監視させて逐一報告させなさい」

「はっ、仰せのままに。そういえば先程、シルフィーが中央庭園を一望するバルコニーで彼女と何やら会話をしていたようでした。珍しい組み合わせでしたので、その気がなくとも目に留まりましたが」

「考えることは皆同じということよ。あの子も姉妹として“最後の忠告”を姉に手向けたのでしょう。どういう結末になるかは明日分かることだけれど」

「考えたくはないものです」

 アンジェリカはゆっくりと、一歩一歩階段を踏みしめながら下っていく。

 やがて長い階段の中腹まで降り立ったところでくるりと玉座へと向き直り、リカルドへ顔を向けて言った。

「貴方、随分とアンのことを買っているのね?」

「彼女は我々の仲間です。彼ら機構の仲間でもあったのでしょうが、それは過ぎ去りし過去のこと。思いを同じくする者であるならば、貴女様の理想達成の為に全力を尽くしてくれるものだと信じてやみません。

 ですが、先のご命令は確実に遂行いたしますのでご安心ください。要塞防衛の為、中央司令の護衛に回るアムブロシアーへ特別な指示を出しておきましょう。“人”は信用なりませんから」

「頼んだわよ」



 アンジェリカはそう言うと黒衣を翻しながら再び正面へと向き直り、気品あるヒールの音を響かせながら階段を下っていく。

 ヒュギエイアの杯が傾けられた悪魔の御印を背負い、小さくも威厳ある姿のままゆっくりと、一歩一歩確実に。

 そのようにして階段を下り切ったアンジェリカは、いつものように赤紫色の煙に包まれたかと思うと、光の粉を霧散させるようにその場から消え去った。



 彼女が玉座の間から去り際に強く念じた想い。

 明日という日がグラン・エトルアリアス共和国にとっての栄光の日であるようにと。



『私達の想いが、間違っていないということの最期の証明の為に』


 憎しみを生み、そして叫べ。海と天は絶望に満ち、悲しみは地に増えよ。

 こうして夕闇が世界を包み、滅びの朝は訪れる。




 城塞の主であるアンジェリカが去った玉座の間でリカルドは1人、彼女が消え去った後も彼女の佇んでいた方向へ首を垂れて深く礼をし続けた。

 真実の忠誠を示す為に。



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