*2-4-3*
穏やかなアイボリー交じりの白色に、温かく柔らかな暖色の照明が照らす室内。調理室から漂う甘い香りが食欲をそそる。
出航直前という時分。サンダルフォン内に設置された大きなカフェテリアには無邪気な笑みを浮かべた少女が1人、少し早めのおやつの時間を楽しもうという時であった。
わくわくとした面持ちで注文した品が運ばれるのを待ち侘びた少女の目の前に、とろりとしたバターにメープルシロップのかかった焼き立てのパンケーキが置かれる。
「さぁ、どうぞ。アヤメちゃん」
カフェテリアの調理担当の隊員は彼女に優しく言う。
「わぁ、豪華なパンケーキ!冷めないうちに食べなきゃ!」
「気に入ってもらえたかな?」
「えぇ、とっても!」目を輝かせながらアヤメは言った。
焼き立てのパンケーキの皿にはミントの添えられた生クリームとバニラアイス、そして鮮やかな色合いのイチゴがトッピングされ、純粋な絞りたてのオレンジジュースも置かれる。
「ゆっくり楽しんでね」
隊員は微笑ましそうに彼女に言うと、自分の持ち場である調理室へと入っていった。
室内で1人、アヤメは運ばれたばかりのパンケーキを満足そうに眺めて笑みを湛える。
つい1時間ほど前まで艦橋から外の景色を楽しんでいた彼女は、副艦長に付き添われ艦内の探検をした後にここに辿り着いた。
副艦長からおやつをごちそうするという提案を受け、少し早めのお茶の時間を楽しむために自身の大好物を注文したという具合だ。
そして今、待ちに待った大好物が自身の目の前に満を持して運ばれた。
真っ白で大きな円形テーブルには輝くような出来立てのパンケーキが座し、そこからは空腹を刺激する良い香りが漂い周囲を満たしている。
『へぇ、凄いわね。ここは軍艦のような冷たいイメージがあったけれど、実際はとても穏やかで暖かい所ね。ここだけではなく、機構そのものがというべきかしら。イベリスやアルビジアが伸び伸びとしているのも頷ける話だわ』
「そうね。お姉様の誘いが無ければ私もここへの入構を考えていたかもしれない。今でもそう思うの」
少女はフォークとナイフに手を伸ばし、自身の中にいるもう1人の少女と会話をする。
「世界で人の役に立つ仕事がしたい。そんな願いを叶えるとすれば、行き先はかなり限られてくるから」
『国際連盟とその関係機関。或いは機構ね』
「そうそう。去年のことが無ければどちらを選んでいたかは分からないけれど、きっと今とは違った道を進んでいたことだけは間違いない。ねぇ、アイリスはどう思う?」
『私?貴女の決めたことなら何でも。私は千年の間焦がれた願いを既に叶えたのだから』
「貴女らしい答え」
そう言ってアヤメは笑った。いつもは体の主導権はアイリスが担っているが、彼女の大好物であるパンケーキを食べる時にはこうして入れ替わっているのが常だ。
『さぁ、早く食べましょう。本当に冷めてしまうわ』
「うん、いただきます」
アイリスの言葉に軽く頷き、アヤメは満面の笑みを弾けさせながらパンケーキを口に運んだ。
だが、彼女が一口目を口に運び終えようとしたその時。カフェテリアの自動扉が開き、招いた記憶のない“とある人物”が部屋に足を踏み入れて言った。
「まぁ、とても食欲をそそる甘いお菓子の香り。わたくしもご相伴に預かりたいものですわ」
声を聴いたアヤメは笑顔を引きつらせながら至福の一口目を口に含む羽目になった。
それでも敢えて気に留めないように無視しつつパンケーキを楽しむ。ふわりとした生地にとろとろのバターが馴染み、甘いメープルシロップが口いっぱいに広がっていく。
世界で2番目にという条件は付くが、疑う余地もなく最高のパンケーキだ。
とはいえ、その最高のパンケーキの味を堪能する為には“余計な”ものがたった今目の前に現れたわけだが。
唐突に現れた人物は穏やかな表情をしたまま目の前に歩み寄って言う。
「わたくしも同じものを頂こうかしら?あちらのキッチンに声を掛けたら良いのでしょうか」
気も知らずか、それとも知っていてそうするのか。おそらくは後者だ。彼女はそういう人物だ。
この先のパンケーキを楽しむ為には、さすがに無言でいることが難しくなってきた。
「そうですね。それで良いと思います」
アヤメは取り繕った笑みのまま言った。彼女の言葉を聞いてロザリアは言う。
「あらあら、その素直で可愛らしい物言い。貴女はアヤメちゃんですのね?お久しぶりですわ。お元気そうで何より」
「えぇ、総大司教様におかれましても」
アヤメの返事にロザリアは軽く微笑んで見せ、キッチン直通の注文カウンターへ歩み寄って言った。
「彼女と同じものを1つ頂けますか?」
「はい、承知いたしました。ベアトリス総大司教猊下。お飲み物はいかがなさいますか?」
「紅茶でお願いいたします」
「茶葉の指定も出来ますが」
隊員がメニュー表を差し出しながら言う。
「まぁ、素敵。では……セイロン・キャンディーを頂きましょう。ミルクも一緒に」
「承知いたしました。後ほど席までお持ち致します」
「ありがとう存じますわ」
ロザリアは軽く会釈をしてアヤメがいる大きな円形テーブルのすぐ傍まで戻ると、ちょうど彼女の対面となる席に腰を掛ける。
そうしてパンケーキを楽しむアヤメの姿を見て再び柔らかな笑みを湛えた。
なぜよりによって正面に座るのか。さすがに耐えがたくなった少女は視線をロザリアに向けることなく言う。
「ところで、いつも連れているシスターはどうしたのよ。一緒じゃないの?」
「あの子であればブリッジに向かわせましたわ。必要無いかとも思いましたけれど、少々気になることがありますから」
「そう。あまり気にすることでもないと思うけれど?」
「念の為、ですわ。“アイリス”。“偽りの友人は、正直な敵よりも危険”と言いますものね?」
アヤメに代わって表に出てきたアイリスはようやく彼女に視線を向けた。というよりは嫌でも視界に入る位置に陣取られたのだから目を向けないということは不可能である。
しかし、視線を向けた理由はそれが主ではない。ロザリアの言う〈気になること〉の意味が自身の考えと異なっているのではないかと直感したからだ。
調理室や注文カウンターにいる他の隊員に聞こえないように声を潜めて言う。
「アンディーン・ナイアス・マックバロン三等准尉。貴女の言う気になることっていうのは彼女のことではないの?」
「さて。どうでしょうか」
相変わらずの笑みを浮かべたまま話をはぐらかすロザリアに、アイリスは不快そうな視線を送った。
「そういうところ、変わらないのね。呆れてしまうほどに」
「何十、何百、たとえ千年経とうと、人はそう簡単に変わるものではありません。貴女だってそうでしょうに」
アイリスは特に何も言わずにおやつの続きを楽しむ。
ロザリアは美味しそうにパンケーキを頬張るアイリスを見つめながらしばしの間を開け、ふと思いついたように言う。
「あぁ、しかして貴女は変わりましたわね。あの子との出会いがそうさせたのでしょうか」
「否定はしないわ。物陰から人の幸福を覗き見ることしか出来なかった私を変えてくださったのはお姉様に違いないのだから」
そう言った後、アイリスは食べる手を止めてこちらも思い出したというように言った。
「そうだ。言いそびれていたことがあるから言うわ。去年のこと、どうもありがとう」
アイリスは、現代でマリアと自分を引き合わせてくれたことについて、ついぞ言えなかったお礼の言葉を、感情を加えずに棒読みで彼女に伝える。
ロザリアは笑いながら言う。
「うふふ。貴女にも素直なところはありますのね?てっきり、そうした言葉はわたくしに対して生涯に渡り出て来ないものかと思っていましたわ」
「最低限の礼儀は弁えているつもりよ。これでも貴族の端くれなわけだから。社交辞令程度のね?」
そうこうと2人がやり取りをしている内に、ロザリアが注文したパンケーキが運ばれてきた。
アヤメが注文したものとまったく同じ、ふわふわのパンケーキだ。深々とお辞儀をしながら隊員が言う。
「お待たせいたしました。ご注文のパンケーキにございます。紅茶セットはこちらに置かせて頂きます」
「ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ」
隊員は再びお辞儀をすると素早く自身の持ち場へと戻っていった。おそらく話の邪魔にならないようにと気を使ったのだろう。
ロザリアは運ばれてきたパンケーキを一目見て、おもむろに椅子から立ち上がると皿をアイリスに寄せて言う。
「宜しければこのイチゴを差し上げましょう」
アイリスは意外だという表情を浮かべ言う。
「どういう風の吹き回し?それに、その果実があるから敢えて紅茶をセイロン・キャンディーにしたんじゃないの?」
「酸味のある果実とこの紅茶の組み合わせは実に良いものですわね。ですが、これはわたくしの気まぐれとでも言いましょうか。ただ、そうしたいからそうしていると。わたくしの気まぐれ加減は貴女も存じているでしょう?“人は変わらないもの”ですから」
「後で返せとか、食べたイチゴの分働けなんて言わないでよね」
「まさか」
訝しみながらもアイリスは彼女の皿に添えられたイチゴにフォークを伸ばし、自身の口元に運ぶ。
そして甘酸っぱい果実の味わいをじっくりと楽しんだ。
彼女が嬉しそうにイチゴを頬張り、ちょうど呑み込んだ頃合いを見計らってロザリアは言う。
「ところでアイリス。イチゴの花言葉というものをご存知でいらして?」
「知らないわよ」
口元を拭きながら言うアイリスの返事を聞き、ロザリアはそれまでの笑みを解き、代わりに挑発的な表情を浮かべて言った。
「イチゴの花言葉も数あるようですが、中にこのような言葉があるそうですわ。〈先見の明〉と」
最後の言葉を聞いたアイリスは会話の冒頭に自分が感じた違和感の正体をはっきりと悟り、その後は何も言わずにじっとロザリアの瞳を見据えた。
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