*2-2-3*

「ねぇ、シルフィー?」

 玉座に座ったままアンジェリカは言う。

 ネメシス・アドラスティア出航の準備に取り掛かる為にリカルドは席を外し、玉座の間という広い空間には今、アンジェリカとシルフィーの2人しかいない。

 これからのことに想いを巡らせているのか、楽し気な様子で微笑んでいたシルフィーは視線をアンジェリカへと向けて、さらなる笑みを湛えて返事をする。

「はい、アンジェリカ様、アンジェリカ様。わたくしをお呼びでしょうか。愛しいアンジェリカ様」

 恍惚。陶酔といって良いだろう表情で言う彼女に、アンジェリカは悪戯な声色で言う。

「今、機構のあの子から連絡が入ったみたいよ。これから機構と国連の会合の場に立ち会うんですって」

「そう、ですか」

“あの子”という単語が発せられた途端、大型犬のような愛くるしい笑みを浮かべていたはずのシルフィーの表情が幾分かトーンダウンした。

 アンジェリカは続ける。

「ずっと聞いてみたかったの。ねぇ?貴女はあの子のことをどう思っているのかしら?」

「良き“姉”であると、そう思っています。遠方の地で貴女様の為に、役目をよく努めているとも」

「違う、違う。それはこれまで幾度となく聞いたことと同じ。私が知りたいのは貴女の“本音”。素直な想いを聞かせてちょうだい」

 表情こそ笑顔のままだが、心を無にしたような答えを繰り出すシルフィーに挑発的な目を向けてアンジェリカは言う。


 直後にアンジェリカは玉座から立ち上がり、紫色の光の粒子を散らせたかと思うと一瞬の間にシルフィーの目の前に姿を現した。

 小さな少女はシルフィーの顔を見上げ、彼女の心臓のある辺りに人差し指を当て、指先を軽く上下に動かし胸をなぞりながら甘ったるい声色で囁く。

「貴女と彼女の間に、“愛”などというものはあるのかしら?ねぇ、シルフィー。私に教えてちょうだい」


 シルフィーは自身の周囲が甘い花の香りに包まれるのを感じた。アンジェリカから香るこの香りは、幾度となく自分の心を蕩かせてきた魅惑の香りだ。

 何も考えられなくなるような底知れぬ甘美さ。一度この香りを覚えると、他には何もいらないと思ってしまうほどに。

 だが、それでいてアンジェリカ本人の目つきは非常に狡猾なものであった。獲物を捕食する間際の肉食獣が見せる目。

 今の自分は蛇に睨まれた蛙。“目的”を絶対に果たすために仕掛けられた罠にかけられた憐れなるエサ。彼女の欲を満たす為だけのものに過ぎない。自分が心の奥底に秘めてきた想いを吐露するまで、彼女は決して逃がしてはくれないだろう。

 彼女の眼光に捉えられたシルフィーは、しかし再び柔らかな笑みを湛えて言った。

「さぁ?わたくしと彼女は“他人”でありますがゆえ。そこに貴女様がお聞きになりたい“愛”があるのかどうかは自分でも理解が及びません」



 あぁ、なんて素晴らしいこと。

 今、この時、この瞬間。この世界において自分だけが彼女の視線を独り占めにしている。

 彼女の香り、彼女の視線、彼女の声、彼女の姿そのもの。その全てが自分の目の前にあり、その全てが自分の為だけに向けられている。

 自らの言葉を聞く為に、彼女が自分の為だけにその耳を傾け、自分の為だけの時間を用意してくれている。

 今この瞬間だけは、彼女の全てが自分のものだ。

 これ以上に幸福なことがあるだろうか?


 彼女の息遣いが聞こえるほどに近く……なんという至福。彼女が自分の胸に触れる指先から伝わる微かな熱が、自分を狂わせていく。

 いっそ、この瞬間を永遠にしてしまいたい。

 世界などというものを早く壊して、彼女の想いと共に自分だけが彼女に、彼女達に寄り添いたい。

 ただしその感情は彼女自身の理想に背くものでもある。


 ぁぁ、あぁ、あぁ!アンジェリカ様、アンジェリカ様……

 どうか、どうかわたくしめの欲望という身勝手な罪を、貴女様の手で断罪してくださいませ。

 それこそが、わたくしめの抱くたったひとつの“願い”なのですから。



 シルフィーの心はアンジェリカに対する想いで一気に満たされていった。

 そんなこととは関係なく、アンジェリカは話を続ける。

「へぇ。たとえ腹違いの兄弟姉妹であっても、共に育つ中で家族を越えた愛情が芽吹くなんて話が人間にはあるって見たから。てっきり貴女達の間にもそういうものがあるのかと思ったのだけれど」

 アンジェリカがそう言った途端、シルフィーは悲しそうな表情を浮かべて言う。

「まぁ、いけません。アンジェリカ様。まるでご自身が“人間ではない”かのようなおっしゃりよう」

 唐突に論点をすり替えられたアンジェリカは、それも“彼女らしい”と思いながら敢えて話に乗った。

 その方が面白い話を聞くことができそうだからである。

「貴女には私が人間に見えるの?千年を越える歳月を生き、人には有り得ない力を持った私を、私達を貴女は人間だと言うのかしら」

 シルフィーの胸元をなぞっていた指に力を籠め、心臓に突き立てる勢いでぐっと押し込みながらアンジェリカは言った。シルフィーは吐息を漏らしながら言う。

「人間とは、己の欲望に忠実に、且つ従順に生きてこそでありましょう?理性、羞恥、感情全てを投げうって、〈本能〉を曝け出したときにこそ生命としての“人間”の本質が垣間見えるのです。権力による支配、武力による対峙、そうした人の本能がもたらす罪をもって、この世界の歴史は編み上げられてきました。わたくしはそれを美しいと思います。それ“が”美しいと思います」

「何が言いたいのかしら?」

 そう言うアンジェリカに、今度はシルフィーがぐっと顔を寄せて囁く。


「〈罪がもたらす報酬は死である〉」


 その後シルフィーは顔を上げると満面の笑みを咲かせ、ふっと両手を広げて天を仰ぎながら言った。

「世界が犯した罪に対する罰を与える。わたくしは貴女様が描かれる理想が美しいと思った。貴女様の想いが、本能が愛おしいと思った。なぜなら、貴女様のような強き思いと本能を持つお方こそ真なる“人間である”と感じたからにございます。故に断言致しましょう。理性や虚構などに塗れ尽くしたこの世界において、本当の意味で“人間”であると言えるのは、貴女様だけであると」


 わかるような、わからないような。

 とにもかくにも彼女にとっては自分達、そう……アンジェリカとアンジェリーナという存在以外の全てが、この世界で生きるに値しない、つまり“人間”というカテゴリーからは外れた存在らしい。


 ということは?


 アンジェリカは至極冷静に、逸れてしまった話を正す。

「なるほど。それで?結局のところ貴女は彼女を、アンディーンをどう思っているのかしら?」


 アンディーンという名を聞いた途端、シルフィーの表情からそれまでの笑顔が嘘のように一瞬で消え去った。

 虚ろな目で上を見やったまま大きな溜息をついた彼女は、広げた両腕をだらりと下ろして吐き捨てるように言う。

「“あれ”は実につまらない。わたくしの目には人間としてすら映らない。そのように退屈な“モノ”にございます」


 アンジェリカは、これまでシルフィーが見せたことのない表情を見て心底愉快な気持ちになった。

 ようやく彼女が心の奥底に持つ〈真実〉を暴いたような気持ちになったからだ。

「そう、それが“シルフィー”という本質なのね」

「いかにも。建前を語り、貴女様の前で虚飾を並べるわたくしめも真に人とは言えぬものでありましょう。だからこそわたくしにとって貴女様は眩しい。あぁ、アンジェリカ様、アンジェリカ様」

 シルフィーは膝を折り、アンジェリカに縋るように身を寄せながら言う。

「“あれ”はいつか、アンジェリカ様の進まれる道の障壁となってしまうかもしれません。そう考えるだけでわたくしは、あの子のことを……」


 アンジェリカはシルフィーの頭を優しく抱き、撫でながら言った。

「感傷に浸るのはー、めっ!なんだよ?大丈夫、大丈夫ぅ。今はあの子を信じてあげなきゃ☆そ・れ・に。万が一、万が一にだよ?何があっても、シルフィーが私のことを守ってくれるもんね?」

 言葉を聞いたシルフィーは頷いて言う。


「はい、この命果てるまで。貴女様の傍で、貴女様の為に。アンジェリカ様、アンジェリカ様」


 シルフィーの返事を聞いたアンジェリカは、静かに目を閉じ彼女の頭を撫でながら言う。

「そう、良い心掛けだわ。ただ、残念ね」


“残念”という言葉に反応したシルフィーは視線をアンジェリカに向ける。

 撫でる手を止めず、アンジェリカはシルフィーの目をしっかりと見て諭すように言った。


「それでは、私には貴女が罪人であると思えない。貴女の“願い”に私はいつまでも応えられないじゃない?」



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