第6話( 五 )

 青山二郎が戻って来た時には、日は暮れかかって、公園の木々は鮮やかな夕景に輝いて見えた。ここから一気に空の色は藍色に染まって行く。私はこの暮れようとする夕方と夜との間の時間が一番好きだ。もっと言うと、それに加えて仕掛かり中の原稿の進みが良いと、もう言うことはないのだが。

 約束通り、青山二郎が声を掛けて来た。


「入っていたのは、やっぱり奥さんからの手紙と家族の写真だった。あと南部鉄器の文鎮かな」

「南部鉄器の文鎮? それって、なんか変わってますね。源さんが使いそうにないでしょう」


 私が不思議そうに言うと、青山二郎は微笑んで答えてくれた。


「そうだね、僕たちも同じことを思ったんだけど、手紙を読んで分かったよ。南部鉄器というのは盛岡藩時代からの地元の名産で、その文鎮は成人式の記念品だった。息子さんは大阪の大学に入っていて、アルバイトをしながら生活費を稼いでいたから、成人式には出られなかった。それでお母さんが代わって受け取っていたんだ」

「じゃあ、それを源さんに送っていたんですか」


 私たちが話していると、小さな叫び声を上げる男がいた。午後からずっと私たちの話を聞いていた、あの若い男だった。彼は青山二郎の方を見ながら、何か言いたそうにしている。声をかけたいが、どうしようかと迷っているのだった。少しの間我々は顔を見合わせるよう黙っていた。

 青山二郎がその男の顔を見ていて、急にはっと気が付いたように言った。


「もしかしたら、君は源さんの息子さんじゃないか」


 私は驚いてその若い男を見た。男は思わず立ち上がっていた。


「よく見ると、さっき見た子供の頃の写真に面影が似ている」


青山二郎が続けて言う。


「ええ、そうです。私は辻本篤士と言います」


 若い男は覚悟を決めたようにきっぱりとと答えた。


「この場所はお母さんから聞いて来たのかね」

「二週間ぐらい前に、職場に母親が危篤だと連絡がありました。僕は慌てて実家に帰りましたが、母はもう虫の息でした。やっとのことで話を聞くと、小さい頃に別れた父親が、実はここにいると言いました。でも母とはそれぐらいしか話が出来ませんでした。僕はどうしていいか分からなかった。何とか葬儀を済ませて仕事に戻りました。母の荷物の整理とか、実家の後始末とか、まだ何も手をつけてはいません」

「それじゃ、出張のついでに源さんに会いに来たのかね。今回の事は大変残念だったけど、源さんと少しは話ができたのかね。ここで源さんの事故に居合わせるなんて、やっぱり運命としか言いようがない」


 青山二郎が同情したように言うと、若い男は小さく答えた。


「遠くから様子が見られればいいかなと、寄っただけです」


 修くんの話だと彼は源さんにお酒を奢っていたと言う。その時に何の言葉も交わさなかったのだろうか。私が口を挟もうとすると、里見清史郎が横から私を制した。


「それは、本当に私の成人式の記念品なのでしょうか。私は残念ながら参加していないので、友達に聞いただけなのですが。その文鎮は、その人が買った普通のお土産なんじゃないですか」


 辻本篤士と名乗った若い男が言った。


「あなたのお母さんは、頑張っているあなたの成人の記念に、受け取れなかった文鎮に代わる何かを贈ろうと考えられた。そして偶然にもちょうどその時、源さんが入院したと連絡が来た。お母さんが迷いながらも手紙を送ると、源さんから折り返し電話が来た。お母さんがこの話をすると、源さんは貯めていたお金を使って、腕時計を買って寄越したそうだ。それでお母さんは、その代わりとして源さんに君の文鎮を送ったと手紙に書いてあったよ」


 青山二郎は静かに答えた。

 その話を聴くと、若い男は思わず左手の腕時計に手をやって、強く握りしめた。凝然と青山二郎の顔を見つめながらうめき声を上げた。


「この腕時計は、あの男が買ったと言うのですか。まさか、考えもしなかった」


 囁くように呟いた。


「無理やり別れさせられたけれど、奥さんはまだ源さんのことを愛していたんですかね」


 私はついありきたりな物言いをしてしまった。


「それは何とも言えないな。ただ、独りで責任を取って、無一文で東京に出て行ったご主人にも、やっぱり幸せになって欲しいとは思ったんじゃないかな。苦しくても自分は子供と一緒に生きて来れた。ご主人に対しては、ちょっと、一言では言えない思いがあったに違いない。でも、ご主人がこの文鎮を受け取ったら、どれほど喜ぶだろうとは思ったに違いないし、だから送ったんだろうね」


 里見清史郎は若い男の顔を見つめながら言った。


「それは本当なんでしょうか。僕には分からないです。母からは、父のことはちゃんと話を聞いたことはなかった。僕は何時も不満だった。母は何も話してくれなかった。今になって、こんな話を聞くなんて」

「その腕時計なんだね。さっきから大切そうに触っているけど」


 青山二郎が腕時計を見て言った。


「そうです。これはもう僕のお守りのような母の形見なんです。入社面接の時とか、大事な時には必ず着けるようにしています」

「話の続きなんだが、その時計には、お祝いの言葉が彫られているらしいね」

「はい、正面に私の名前と裏蓋に言葉が彫られています。でも流麗な飾り文字なんで、実は僕には読めないのです。だから母の話で知っているだけなんです」

「お母さんの手紙によると、送り主のイニシャルとして、自分だけじゅやなくて、ご主人のイニシャルも入れてあると書いてあったよ」


 青山二郎は確認するように言った。

 若い男はもう何も言えなくなった。みるみる動揺の度が増しているのが分かった。ふらふらと力なく腰を落とし椅子に座ると、テーブルの端に両手で掴まった。


「しっかりするんだ。急に色々なことがあって、動揺するのは分かる。籍を抜いたとは言え、実のお父さんが亡くなったんだ。これからのことは、僕たちも協力するよ」


 青山二郎が力づけるように言った。


「すいません。そうじゃないんです。もう僕は後戻りはできないんです。これから自分がどうすれば良いのかなんて、ずっと覚悟は出来ていたはずなんだ。自分の始末ぐらいできます」


 若い男は覚悟がついたように、冷たく答えた。


「待つんだ。何を考えているのか分からないが、早まってけない。君が源さんを殺したんだね」


 里見清史郎が言った。若い男は黙っている。


「ちょっと待ってください。どうゆうことですか。医者の話だと池に落ちて水死したんですよね。しかも水に落ちたところを直接見た人はいないけれど、音を聞いた人が声を上げてからは、みんな池を注目しているし、直接手を下すのは無理でしょう」


 私はつい驚いて叫んでしまった。


「因果関係を厳密に証明するのは難しいかも知れない。でも、君は殺そうと思ってやったし、その可能性が高いと考えて飲ませたんだ」

「先輩、アルコールのことですか。確かにアルコールで酔わせてボートに乗れば、誤まって池に落ちることはあるかも知れないが、そんな運任せな。しかもそれなら、ここのお客の飲み残しのお酒だって原因だから、修くんや青山さんも同罪だと言うのですか」

「確かに昨日のことがあって、私も責任を感じていたんだ。直接の原因とは思わなかったけれど、その一助になったかも知れない」


 青山二郎も言った。


「君はあれがここで手に入ることをどうやって知ったのか、確実な証明はできないが予想はできる。君は広場を見ていて気がついた。そしてネットで検索して確信したのだろう。実は僕も気がついたのだから」


 里見清史郎は我々の騒ぐ声には構わず、若い男に向かって話を続けた。男は暗い顔をして黙って聞いている。


「この薬は無色無味で、極めて少量で人体に影響を与える。感覚や感情、記憶、時間感覚を拡張、変化させる。化学者のアルバート・ホフマンは1943年の実験で、自分自身の体験を観察記録に残しているが、彼は眩暈に襲われて倒れた後、目の前には異常な造形と色彩が万華鏡のように幻出した。空間が回転し部屋の全ての物がグロテスクに変化したと書いている。君は薬に酔った源さんをボートに乗せて池に送り出し、何らかの刺激を与えることで池に落としたのだ。でも死因は溺死なんた」

「ちょっと、よく分からない。先輩は何の事を話しているのですか。私たちにもわかるように話してくださいよ」


 私は食ってかかった。


「LSDの事だよ。彼は酒に混ぜる事で源さんに飲ませたのさ」

「LSDって、今日の逮捕の原因になった麻薬ですか」


 青山二郎も驚いたように言った。


「LSDは容易に水に溶ける。公園の絵描きの男は似顔絵を渡す時に、LSDを浸して乾燥させた紙片を一緒に渡すことで、LSDを売っていたんだ。私がネットで検索すると、闇ネットに買う際の合言葉も出ていた。上手いやり方だ。普通に似顔絵の客も来るのだから、それで区別していたんだ。それを買った客は、手っ取り早く使いたければ、それを水に浸してその水を飲めばいいのだ。本当は血管に直接注射するとかの方が効きがいいだろうから、お勧めはしないががね」


 私は紙を丸めてマドラー代わりに掻き回していた男の事を思い出した。あれは水割りを作っていたのではなかったのだ。どおりでクタクタになるまで紙を浸して、水に溶けよとばかりに掻き回していた。


「すると、、」


 私が言うと、里見清史郎は頷いて見せた。


「この話はさっき木谷巡査が帰るときに確認した。最初はどのように売っているのか分からないので泳がせていたらしい。普通のお客も来るのから、最初は方法が分からなかったんだ」


 その時、ずっと黙っていた若い男が話し出した。静かな声で淡々と話す様子はとても平板な口調になのに、感情も苦悩も強く伝わって来た。私たちはただ黙って、彼の話を聞くより他なかった。


「僕は父親が恋しかった。小さい時は特に恋しかったんだ。何時も、姿は現さなくても、きっと何処かで僕を見守ってくれていると想像していました。そう想像しては自分を慰めていたんです。母の実家に引き取られた時、お祖父さんはろくに口も聞いてくれませんでした。叔父さんも従兄弟たちも、本当に嫌な奴らでした。僕と母はただ肩身が狭くて、そんな彼らが何を言っても、頭を下げていなければならなかった。

 段々僕は我慢ができなくなりました。母は病がちで働く事も出来ません。いくら厳しくても家族が一つになって、一緒に生きて行ければ、どんなに良いでしょう。だから、どんなに恥ずかしくても、父には出てきて欲しかった。一方的に世話になっているのだから、みんなで償うしか無いじゃないないですか。でも父は現れませんでした。ずっと独りで苦しんで来たと言うのかもしれませんが、それでは誰も救われない。僕は段々父を憎いと思うようになりました。独りで苦しんでいるように見せて、実は逃げているのだと思いました。

 家を出て大学に行けた時、やっと息がつけました。そして就職して、やっと独り立ち出来たのです。これからだと思いました。これから頑張って働いて、いずれは母親を引き取ろう。気がすすまないが、世話になった母の実家の人たちにも、いずれは役に立つ人間になって、母親の面目を立てたいと思いました。それが母の突然の死で出来なくなりました。僕はとうして良いか分からなくなりました。そんな時、父が生きていると聞いたのです。

 出張で東京に来ることになり、私は迷いました。果たして、父親に会った方が良いのだろうか。今さら母は生きて戻っては来ません。長い間離れていた父親には愛情は感じませんでした。それでも会ってみたら、親子の情愛が湧くかも知れないとも思いました。

 とにかく遠くから一度見てみようと思いました。

 来てみると、浮浪者の父は有名人でした。この店の人に聞いて、遠くから様子を見ていました。そうして見ていると、あの人は本当に自由に見えました。自分と母は暗い田舎に長い間閉じ込められて、身動きもできないで苦しんで来た。でも遠くから見た父は、何の責任も無く、本当にのほほんと生きているのです。ふざけるなと思いました。小さい時に感じた憎しみが再び沸き起こって来ました。僕たちや母がこんなに苦しい思いで生きて来たのに、全ての責任を放棄して、自由気ままに生きている。僕は許せなかった。

 もう、小さい時からずっと色々考えて来たのです。父親がここで残り酒を貰うのを見ている時、酔わせて池に落とす事を思いつきました。でもしばらく見ていると、お客さんの中に紙を浸して飲んでいる人がいるのに気がつきました。若い頃にグレていたので、自分はやっていませんでしたが、知識はありました。そう思って似顔絵描きの男を見ていると、ピンと来る物がありました。携帯で調べると更に確信しました。あの男は薬物を売っているのだと。その時、一瞬で頭の中に手順が思いつきました」


 この時の彼に対して、何と話しかけて良いかなんて、私には思いもつかなかった。私も青山二郎も全く分かっていなかったのだから。ただ里見清史郎だけが、その頭を働かせて、この顛末を理解していたのだ。男は話しながら、心が固まって来ていると言うか、その態度に決然とした気配を漂わせて来た。


「するとやっぱり、君は源さんの様子を観察して、頃合いを見計らって、ボートを流したんだね」


 里見清史郎が言った。


「はい、そのまま池の真ん中で動揺させて、身体を動かせさせられれば、きっとバランスを崩して池に落ちるだろうと思いました。そしてその通りになりました」

「でもどうやって動揺させたんだ?」


 私は訳分からず聞いた。


「言ったでしょう。私はその時言う恨み言を小さい時から心の中で反芻して決めていました。実際に面と向かって言うことになるかどうかは分かりませんでしたが、私は心に十分すぎる位に貯め込んで来たのです。母の名前も出して、私である事を知らせると、混濁した意識の中でも、あの人の心をグサリと刺すことができたのです。私は肉体を殺すだけじゃなくて、あの人の心も、言葉で殺してしまったんだと思います」

「ちょっと、先輩。それでも、薬物で安定を欠いたからと言って、絶対に落ちるかどうかは分からない。これを犯罪として第三者が立証できませんよ」


 私は粘って言った。


「そうだ、彼の自白が無ければ、物的証拠だけでは証明出来ない。後は状況証拠を積み重ねて証明することになる。彼の手元に似顔絵があるからと言って、薬物を染み込ませた紙片はもう無い。源さんが飲んだ飲み残しの酒の中には、他の薬物常用者の飲み残しがあったかも知れない。それに、そもそも薬の作用よりアルコールの作用の方が原因だったかも知れない。携帯に電話の記録が残っているかも知れないが、それが本当に源さんが落ちる原因になったのかも証明できないだろう。そして、源さんは彼の話で絶望して、自分から水に飛び込んだのかも知れないじゃないか。

 ただ、木谷巡査には源さんの死体を検死する必要がある事は言ってあるから、きっと薬物は検出されるだろう。でもそれも、さっきからの話で、決定的ではない。彼の覚悟次第なんだよ」


 里見清史郎は分かって言っているのだ。


「もう覚悟はできています。警察を呼んでください。お世話をおかけしました」


 若い男ははっきり言った。しかも、その声は想いを吹っ切ったように、幾らかは明るくも聞こえたのだった。

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