第31話 (閑話)お祝いという名の課外授業

 小林こばやし大悟だいごは困惑していた。彼の手には手書きの質素なメニューがある。しかしそこに書かれているのは彼にとって未知なる言葉の羅列だった。

 ここは新宿御苑にほど近い小さなフレンチレストラン、気軽に利用できるカジュアルなビストロではあるが、店に漂う雰囲気まだ中学生の彼を緊張させるには十分だった。


「いいわねぇ、困ってる大悟ちゃんの顔ってどこか放っておけないところが母性本能をくすぐるのよ。それってこれからのあなたにとって大きな武器になるわ」


 彼の目の前で余裕の笑みとともにその様子を楽しむこの女性は秋津あきつ薫子かおるこ、「一丁目のママ」と呼ばれる彼女はここ新宿でヤリ手の実業家として一目置かれる存在だった。そんな彼女が大悟を引き受けたのは単なる気まぐれでもなければ憐憫からでもなかった。

 ママこと薫子は自分の手足となり得る、それも決して裏切ることのない人材を欲していた。数少ない身内の中で彼女の目に適った者、それが大悟だった。



 青天の霹靂へきれき、その日を境に大悟の生活は一変した。永年勤続者に支給された特別休暇と旅行券、それで大悟の両親は二泊三日の温泉旅行を楽しむはずだった。しかし二人は帰らぬ人となる。こうしてひとりっ子だった彼は正真正銘、天涯孤独の身となってしまった。

 中学生になったばかりの彼をどうすべきか、数少ない親類縁者にその答えを持つものはいなかった。そこで名乗りを上げたのが薫子だった。周囲の反対を押し切って半ば強引に大悟を引き取ると、彼女はすぐに彼を旧知の私立学校に編入させてしまう。こうして薫子からの庇護を受けながら大悟の新生活が始まった。

 一方で薫子も大悟の育成に余念がなかった。彼女は「お勉強」と称して事あるごとに彼を連れまわしてはこの界隈の表から裏までを見せて回っているのだった。


 そして今日である。この日、大悟は無事に高校進学が決定した。彼が通っている学校は中高一貫教育だが中等部から高等部への進級には筆記試験が待っている。彼の成績ならば余裕で通るであろうことはわかっていたものの、それでもやはり合格は嬉しいこと、知らせを聞いた薫子は早速お祝いのディナーを用意した。

 しかしそこは新宿のママ、単なるお祝いで済むはずはなくそれはお祝いと称した特別研修だった。


「マナーを身に着けることは基本中の基本よ。でもいきなりのフルコースは敷居が高いでしょう、だからまずはカジュアルスタイルから慣れていきなさい」


 こうして彼女は自分が行きつけのビストロに大悟を連れ出したのだった。

 しかし彼の心中は嬉しさよりも妙な緊張感と恥ずかしさでいっぱいだった。それもそのはず、今宵のスタイルは春物のスカートとブラウス、ご丁寧にも頭にはウィッグを着けて顔にも薄いメイクが施されている。知らぬものが見たら彼のその姿はまさに女の子だった。


「さあ、メニューは決まったかしら?」


 大悟の記憶にもレストランの光景はあった。しかし家族三人でのそれはファミリーレストラン、メニューはわかりやすく写真も載っていた。ところが彼の目の前にあるこれには写真などなくカタカナばかりの日本語にフランス語が併記されているだけの代物、テリーヌ、ビスク、キッシュ、コキーユなどなど、まだ中学生の大悟にはちんぷんかんぷんな文字の羅列だった。


「なんなんだ、なんなんだ、これ。さっぱりわからないよ、ピ、ピンチだよ」


 大悟は助けを求めるように視線を上げるが、そこにあるのは不敵な笑みを浮かべる薫子の姿だった。そして彼女にとって大悟が困惑する姿、それも女装をしての姿はますます彼女を満足させるに足る光景だった。


 ダメだ、この人は楽しんでるんだ、ボクを困らせて、それも女の子の恰好までさせて。そう察した大悟はその名からイメージができる唯一のメニューを選んだ。


「グリュイエールチーズのサラダにします」


 数種類の前菜から見慣れた単語であるサラダを含む料理を選んだのは彼の苦肉の策だった。しかしママにとってそれは期待する選択ではなかったようだ。


「よりにもよってサラダねぇ……いくら名前から想像できる料理がそれだけだったからって、野菜を切って盛っただけの料理を選ぶなんて面白くないわね。ま、いいわ、メインとデザートもさっさとお選びなさい」


 この店は前菜、主菜、デザートそれぞれを用意された数種類の中から自分で選んでコースを組み立てるプリフィクススタイルだ。これからメインとデザートも決めねばならない。さあ大悟、君はどうするのだ?

 メニューを前にして視点が泳ぎまくる様子が薫子の母性本能をくすぐったのだろう、彼女はようやっと彼に助け舟を出した。


「フレンチも女装も初めてのこと、大悟ちゃんが緊張するのも無理ないことよね。いいわ、今夜はこの薫子さんが直々に選んであげる」


 薫子はそう言うとギャルソンを呼び寄せて二人分の注文を告げた。


「この子にはグリュイエールチーズのサラダと鴨のコンフィ、デザートには焼きリンゴを。私は帆立貝のマリネとホロホロ鳥のハチミツ焼き、デザートは……そうねぇ、チーズの盛り合わせを頂こうかしら。あと食前酒にはドライシェリー、ワインはハーフボトルで、料理に合いそうなのを適当に見繕って頂戴」

「かしこまりました」

「あ、それとこの子には炭酸水をお願いね」


 清潔感あるベテランギャルソンはママのオーダーが終わったことを確認するとうやうやしくお辞儀をして調理場へと引っ込んだ。大悟はスラスラと澱むことなくオーダーする薫子の姿を呆気にとられた顔で眺めていた。


「ぼんやりしてるんじゃないの。もしわからないことがあったらすぐにギャルソンを呼びなさい。きっと最適な解を示してくれるわ。とにかくこういった場ではお店を味方につけること、それも重要なスキルなの。それともっと堂々としなさい」


 説教にも似た彼女のアドバイスに大悟は今一度姿勢を正す。それにしても今夜のこれは何なのだ。高校進学のお祝いだと聞いていたのに、これではまるで女の子を演じるためのレクチャーではないか。


「それでは課外授業の開始ね。これからあなたには女の子の気持ちになってもらうわ。今夜が一時限目、食事に誘われたときの心構えよ」


 ママの前にはドライシェリーが注がれた小ぶりのワイングラスが、大悟の前には炭酸水のグラスが置かれる。ギャルソンがその場を離れたのを合図にママがグラスを挙げて乾杯の意を示す。大悟はそれにつられて同じようにグラスを挙げた。

 そんな大悟に薫子が追い打ちをかける。


「大悟ちゃん、足は閉じなさい。これからは意識せずともそうできるようにオフのときには女の子の姿でいること。それと今から私のことは薫子かおるこ叔母さんではなくママと呼びなさい、いいわね」


 温和な笑顔を見せてはいるが有無を言わせぬ圧力を感じさせるママの立ち振る舞いに大悟は逆らうことなどできなかった。


「は、はい、ママ」


 そう言って挙げた彼のグラスの中では微細な気泡がカクテル照明の光を受けて黄金色の輝きを放っていた。

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