第4話 ルナティック・イン

 寂れかけた飲食店街、無味乾燥なマンションやオフィスビルに囲まれた中にその建物はあった。木造モルタル三階建てのそれは昔ながらの看板建築で一階が店舗に、二階と三階は住まいや倉庫に供されていた。

 正面には二つの古びたアーチ窓、その並びにはこれまた重厚な木製の扉があって、そこには営業中の札がかかっていた。

 扉の頭上には木製看板が掲げられており、黒いペンキで書かれた店の名を白熱灯が照らしていた。


Lunaticルナティック INNイン


 その文字を見上げながら彼は今一度襟を正して呼吸を整える。そして小林こばやし大悟だいごはひとりの女子高生となって扉のノブに手を掛けるのだった。



 物語は今から小一時間ほど前に遡る。ママが彼のために衣装一式とウィッグを用意してくれた。


「ママ、この服って……」

「メイド喫茶に乗り込むのにメイド服でなんてあり得ないでしょ。今日のミエルはバイトに応募するJKなんだからそれなりのを用意したわよ。とにかくさっさと着替えなさい」


 目の前に用意された衣装、それは大悟が通う成文館せいぶんかん高校の女子が着ている制服そのものだった。

 紺色のジャンパースカートに白いブラウス、首元には臙脂えんじ色のリボンタイがあしらわれた制服は胸のすぐ下のあたりのバックル付きベルトがアクセントになっていた。それに短い丈のボレロを合わせた、どこかの歌劇団の制服にも似たそのスタイルは周辺校に通う女子たちの憧れでもあった。

 彼はさっさと制服に着替えると、これもまたママが用意したツインテールのウィッグを着ける。続いて慣れた手つきでメイクも済ませた。


「あら、お似合いじゃない。それってあんたの学校、成文館せいぶんかんの制服なんだから、これから毎日それで学校に行くのもいいんじゃないかしら」

「勘弁してよ、ママ」


 するとママは彼の周囲をぐるりと見て回りながら制服に仕込まれた装備の説明を始めた。


「まずはそのベルト、バックルにはGPS発信機が付いてるわ。今日は使わないと思うけど今後のためにね。もちろん取り外せるから着替えるときには適当に忍ばせておくこと」


 ミエルがバックルを確かめると、校章をあしらった金具が外れてその裏に小さな発信機が仕込まれていた。


「あとはシューズね。右のかかとには小さなカッターナイフ、左のかかとにはピッキングツールが入ってるから必要に応じて使うこと」


 それにしても今日はバイト募集への応募だけ、それも採用されるかどうかもわからないのにずいぶんと念入りなことだ。「なんかピンチの予感しかしない」と、大悟はママの悪ノリにすっかり呆れてしまうと同時にこれら装備を使うことにだけはなりたくないなと思うのだった。



「さあ、いよいよ潜入だ、うまくやらなくちゃ」


 少しばかりの緊張感とともにミエルとなった大悟は最初の一歩を踏み出した。

 乾いたドアベルの音と薄暗い店内に流れるバロック調のBGMがリラクゼーション効果を期待させる。店の奥では四人のメイドが控えていたが、それとは別の毅然とした雰囲気の女性が彼を出迎えた。

 柔和な笑顔がミエルの言葉を待っている。彼は手にしたチラシを見せながら目の前のメイドに問いかけた。


「こちらでアルバイトの募集をしていると聞いたのですが」


 そう言って一礼するも、ゆっくりと頭を上げながら目の前に立つメイドの胸元に目を凝らす。そこには彼女の名であろう「月夜野つきよの」と書かれた小さな名札があった。艶のある黒く長い髪が清楚な雰囲気を醸し出すこの女性がメイド長、すなわち責任者だと思われるが、しかしどこか浮世離れしたおっとりとしたその仕草こそが店を訪れる者に癒しを与えるのだろうなとミエルは思った。

 そんな月夜野つきよのが笑顔の中に困惑の色を浮かべながら言う。


「これは困りましたわ、実はもう決まってしまいましたの」

「はぁ、そうなんですか……」


 早速ピンチだ、早くも計画は見直しか、そう落胆したミエルの気持ちを察してか月夜野つきよのは言葉を続けた。


「でもこれも何かのご縁、せっかくいらしてくださったんですもの、当店自慢のお茶をお出ししますわ」


 すると店の奥からショートカットのメイドが駆け寄ってきた。月夜野つきよのに比べて露出が多めのフレンチスタイルが彼女の活発さを演出している。


蓮花れんか……じゃなかった、婦長様、ボクに提案があるんだけど」


 ミエルはそのメイドの胸元にある名札もチェックする。そこには「望月モチヅキ」の名があった。ボクっ娘の望月、ミエルはすぐさまそう記憶した。


「どうしたんです、望月モチヅキさん」

「せっかく来てくれたんだ、だから彼女にもお願いしようよ。最近はお店も人気で忙しくなってるし、それにこの人が入ってくれれば婦長様がお休みできるシフトを組めるし」

「でも……」

「大丈夫だよ、待宵マツヨイもそのくらいの経費は問題ないって言ってるし、眉月マユヅキもブレンダーに専念できるしさ、ね、そうしようよ」

「そうですか、望月モチヅキがそこまで言うのなら……」


 月夜野つきよのはミエルに向き直るとあらためて深々と頭を下げた。


「それではお願いしますわ。お仕事についての詳しいことはこの望月モチヅキが説明します。あなたのお店での名前は追ってお知らせしますわ」

「あ、ありがとうございます。頑張ります!」


 そう言って元気よく応えるミエルだったが、月夜野つきよの望月モチヅキの背中越し、店の奥では他の三人のメイドがまるで観察するかのように彼のことを見つめていた。

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