短編集-Various love-

日月香葉

大好き!-Offset love-


僕が初めて咲ちゃんを見つけたのは、大学1年生の時だった。

咲ちゃんは、小さく華奢で、大人しい女の子だ。

後期の授業が始まる9月下旬。彼女は一人で掲示板の前に立っていた。

何かわからないことでもあるのか、ずっと首を傾げている。

普段なら人のことなどまるで気にしないのだが、彼女のことはなんだか気になった。

掲示板の前には、僕と彼女意外には誰もいない。


いつもの僕なら絶対に話しかけたりしないのだが、この時だけは何故か話しかけていた。

『あ、あの、どうかしましたか?』

すると彼女は驚いたように肩をすくめ、躊躇いがちに振り返る。

僕は、なるべく穏やかな表情を心がけた。

僕の姿を見て、警戒心が少し薄れたようだった。

「あ、これ、この教室の場所がわからなくて。。」

あぁ、講堂のことか。

『これは、ホールのことですよ。正門入って左にいくとあります。』

するとパッと明るい笑顔になった。

「あぁ!あそこのことか!あ、あの、ありがとうございます!」

そう言って小走りにホールの方へ向かっていった。

可愛かったなぁ。あんなに可愛い子は初めて見た。

名前だけでも聞けばよかったと後悔しかけたが、そもそも聞いたところで話しかけたり連絡先を聞くようなことは僕にはできないので、忘れることにした。

そう、ここまではいつもと変わらない。

僕は、基本的にいいことも悪いこともすぐ忘れるようにしている。

理由は簡単だ。どちらも過去のことだからだ。覚えていてもなんの意味もない。

そもそも覚えておきたいと思うことや、忘れられないほど強烈な経験もないのだ。

つまらない人生だと思われるかもしれないが、そのくらいでちょうどいい。

面白いこともないが、辛いこともない。これが一番だと思っている。

いや、思っていた。


その日の帰り、ホールの前を通ると、ガイダンスを終えた学生が出てくるところだった。

その中には、先ほどの彼女の姿もあったけど、僕は知らないふりをして通り過ぎようとした。

「あ!あの!」

意外だった。まさか彼女の方から話しかけてくるとは。

『はい。あぁ、さっきの。』

「私、近藤咲って言います!さっきはちゃんとお礼も言わずごめんなさい。」

いや、お礼はちゃんと言ってもらったけど。きっとバタバタと去っていったことを謝りたいんだろう。

『大丈夫ですよ。授業には間に合いましたか?』

「はい、間に合いました!ありがとうございました!」

いいえと言ってそのまま行こうとすると、呼び止められた。


「あの、お礼にお茶でもどうですか?」

今日は珍しいことが続くな。

そこから一番近いラウンジに案内され、自動販売機のコーヒーをご馳走になった。

「私、本が大好きで文学部に入ったんですけど、鈴村さんはどうして文学部に入ったんですか??」

鈴村というのは僕のことだ。ちなみにしたの名前は敬(たかし)だ。

それにしても…

『僕も同じです!本が大好きで入りました。中でも、純文学が結構好きで。』

「そうなんですか!私、純文学は詳しくないんですけど、もしおすすめの本があったら教えてください!」

笑顔で話す彼女はとても可愛かった。神々しいと思えるくらいだ。

『はい、もちろんです』

僕は恥ずかしくなってしまって、返事に困ってしまった。

「あの、私、まだあんまり学校に友達いなくて…私と、友達になってくれませんか?」

なんて可愛いお願い事なんだろう!もちろんOKだ

『もちろんです、あの、もしよかったら、同じ一年生なんだし、敬語は、やめませんか?』

友達が一人もいない僕にしては思い切ったことを言ったと思う。一瞬、断られたらどうしようかと思ったけど、そんな心配は必要なかった。

「はい、あ、う、うん。じゃ、お互いに、敬語なし、なしで!」

『はい、あ、うん。なしで!』

「あ、あと、、私のことは、嫌じゃなければ下の名前で呼んで?家族も友達も、みんなそう呼ぶから」

恥ずかしそうに顔を赤らめ、俯き加減に話す彼女は本当に可愛くて、見ていて僕も恥ずかしくなってしまった。

『あ、う、うん。僕のことは、なんて呼んでくれても、いいです。』

「あ、敬語になってる!」

彼女はそう言って笑った。これが、僕と咲ちゃんの出会いだった。






「あ、敬くん!これからお昼?」

『咲ちゃん!うん、これからだよ!一緒に行く?』

「行く!あ、これ読み終わったよ!純文学ってもっと堅苦しいのかと思ってたけど、すっごい面白かった!ありがとう!」

そう言って差し出されたのは、一週間前に僕が貸した本だ。もう読み終わったのか!

まぁ、お互い様か!

『それはよかった!明日、またおすすめを持ってくるよ!あと、これありがとう!現代文学もとっても面白いね!』

と言って、一週間前に借りた本を渡した。

こんな風にして僕たちはすぐに仲良くなった。

サークルに所属していない僕達は、待ち合わせてもないのに、よく放課後図書室で会った。閉館ギリギリまで本を読み、帰りは一緒に帰った。そして、一週間に一度、お互いのおすすめの本を貸しあった。

「ねぇ、敬くんて一人暮らしだよね?よくこんなにいっぱい本持ってるね!」

そう、地方の大学にしか合格できなかった僕は、学校近くにアパートを借りて一人暮らしをしていた。その時、どうしてもと親にお願いをして、家にあった自分の本は全部持ってきたのだ。

『うん、家を出るときに、自分の本は全部持ってきたんだ。なんだか、ないと落ち着かなくて。おかげで、ただでさえ狭い部屋がもっと狭いんだ』

そう言って笑い合った。

すると、急に顔を赤らめ、俯き加減になった咲ちゃんがぽつりと言った。

「今度、敬くんの部屋に行ってみたいな。」

意外だった。

『え?うん、いいけど…』


咲ちゃんが初めて家に来た日から、僕達は付き合うことになった。

それからの毎日は本当に幸せだった。

授業が一緒の時は並んで座り、お昼は食堂で一緒に取って午後もまた一緒だ。

放課後は図書室へ。そして時々僕の家に泊まりに来た。

僕は、なんだか急に大人になったようで舞い上がった。他に友達もいない僕には咲ちゃんだけいればよかった。

夏休みなどの長期の休みもほとんど実家に帰らず、毎日毎日咲ちゃんと一緒にいた。

同じ部屋で、別々に本を呼んでいても幸せだった。咲ちゃんがその場にいてくれるということがとても幸せだった。

本に囲まれたこの部屋で、咲ちゃんと一緒にいられれば、もうそれ以上の幸せは要らなかった。

『ねぇ、咲ちゃん、ずっと一緒にいてくれるかい?』

「なに言ってるの?当たり前でしょ!」

そう言っていつもの屈託のない笑顔を見せてくれた。







時々咲ちゃんの誘いで外に出ることはあったが、僕は家で本を読んでいる方が好きだった。もはや学校に行くのも億劫な程だ。

咲ちゃんには友達ができたようだが、僕には相変わらず友達がいなかった。

授業も一人で受けることが多くなってきた。

それでも、咲ちゃんとは図書館で会えたから僕はそれでよかった。


ある日、咲ちゃんの幼馴染だという女の子を紹介された。

その子は、咲ちゃんとは見た目も性格も正反対だった。僕は彼女があまり好きではなかった。なんだ?首の後ろが痒い

その日からちょうど一週間後、その子と飲みに行きたいと言われた。

相手が友達ではダメだという理由もないので仕方なくOKした。心配なので帰りは店まで迎えに行った。

それからは、咲ちゃんが友達と飲みに行く日はいつもそうだった。

まただ。また首が痒い。


授業はほとんど一人で受けるようになった。

まただ。また痒い。なんだこれ。

この頃から、僕の周りには誰も座らなくなった。

咲ちゃんは、ほとんど毎日会いに来てくれたけど、優しい日と冷たい日の差が激しかった。精神的に不安定なのかもしれなかった。

ある日、家に来た咲ちゃんは、僕の正面に座った。じっと目を見て言う。

「ねぇ、敬くん?あんまり深く考えないで欲しいんだけど、一緒に病院に行かない?最近の敬くん、ちょっと変だよ。学校にもあんまり来なくなっちゃったし、それに、身体中…」

『大丈夫だよ。それより咲ちゃんは大丈夫なの?機嫌の良い日と悪い日で差が激しいみたいだけど。女の子の事情ならしょうがないけど、ちょっと心配だよ。』

咲ちゃんはその後もよくわからないことを言っていた。

一番わからなかったのは、咲ちゃんが家に毎日来ていないと言い出した時だ。

全く意味がわからなかった。僕は毎日会っているのに。

気持ちの浮き沈みが激しいところを見ると、きっと混乱しているんだろう。大丈夫かな?

咲ちゃんに何かあったらと思うと怖かった。できればずっと家にいてほしかった。

僕と一緒に、お気に入りの本を読もうよ!

あんな幼馴染や大学の友達はほっといて。

出かける?なら図書館にしよう。

あー痒い。痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い

なんだ?急に首が濡れ始めた。指先がすっと冷たくなる。

え?自分の指先を見ると、赤黒く染まっていた。



なんだ?これ?










ある時咲ちゃんが、バイトをしたいと言い出した。本屋さんで働いてみたいというのだ。

僕は、咲ちゃんがやってみたいと思うならやってご覧と言った。バイトの日は当然のように毎回迎えに行った。いつも21時頃にお店を出てくるのだが、半分くらいは夜中の12時を過ぎることもあった。お店はとっくに閉店し、真っ暗だけど、咲ちゃんは必ず笑顔で出てきた。夜中に出てきた日は、咲ちゃんをその場で抱きしめた。

一度、お巡りさんになにをしているのか聞かれた。僕は素直に人を待っていますと言った。でもお巡りさんは納得してくれなかった。仕方がないので帰るふりをして、目立たないところで待った。

ある日。いつも通り、21時にお店を出てきた咲ちゃんに毎日そんなに頑張って大丈夫かい?と聞いてみた。

咲ちゃんは、大丈夫だよと、苦笑いした。このままではいけないと思った。

その日は、僕の家に一緒に帰って来た。

まただ、また痒い。

咲ちゃんが何か言っているがよくわからない。また混乱しているんだろうか?

極力笑顔でいることを心がけたが、痒くてそれどころじゃなかった。

近くでドアの閉まる音がした。隣の部屋かな?







数日後、また友達と飲みに行きたいという。この時は流石に怒った。咲ちゃんの自身の体をもっと労って欲しかった。痒い。また痒い。

しばらく様子を見たが、咲ちゃんは日に日にやつれていったため、バイトを辞めるように勧めたが、咲ちゃんはやつれたのはバイトのせいじゃないという。

ではなぜなのか時くと押し黙ってしまう。それではわからないのでもう一度聞いてみた。

また首が痒くなった。咲ちゃんがあまりにも黙っているので、何度か聞いてみた。

まさかとは思ったが、僕の言葉がわからないのかと聞いてみた。まさか、そんなはずはないだろうが。まだ首が痒い。そんなやりとりをしていたら、咲ちゃんはようやく話し始めたのだが、何を言っているのまるでわからなかった。何度も聞き返し、質問したのだが、帰ってくる答えはすべて珍紛漢紛で、どうしようもなかった。また痒い。痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い

咲ちゃんが何か叫んでいた。声が大きいよと注意した。だが声は大きくなる一方だった。しかも何を言っているのか聞き取れない。

僕は、咲ちゃんを力一杯抱きしめた。そうすることで、咲ちゃんが少しでも落ち着けるといいと思った。咲ちゃんは、僕の腕の中で暴れた。声がうるさい。可哀想に。こんなになるまで追い詰められていたんだね。一回静かにしようね。痒い。痒い。首が痒い。でも、そんなことよりも咲ちゃんの方が大事だった。インターホンが鳴ったが無視した。お客さんごめんなさいね。僕は今、あなたの相手をして要られません。玄関の外で何か言っているようだけど、ごめんなさいね。咲ちゃんの方が大事です。うるさいな。なんだこの声は。玄関先の誰かか?咲ちゃんか?うるさいなぁもう。痒いんだって。黙れよ。余計痒くなるんだよ。黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。あぁ、まだ痒い。痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い




























何時間そうしていただろうか?泣き疲れたのか暴れ疲れたのか、咲ちゃんは僕の腕の中で眠っていた。可愛いな。世界で一番可愛いよ。愛してるよ、咲ちゃん。よかったね、落ち着いたんだね。僕は咲ちゃんの髪を撫で続けた。こんなに愛しい人には、もう出逢えないと思った。まぁ、出会う必要もないんだけど。

だって、僕には咲ちゃんがいるから。


その日を境に、咲ちゃんはすっかり元通りになった。

それからは毎日僕と一緒にいた。

二、三時間本を読み、休憩する。僕は咲ちゃんの肩を抱き、咲ちゃんは僕に肩を預ける。微笑み、目を閉じる。そんな咲ちゃんにそっとキスをする。そしてまた本を読み、食事をし、本を読み、愛を囁き合った。そんな今日を送りながら、そんな昨日を思い返し、そんな明日を夢に見る。ん?なんだ、首の後ろが痒い。うなじのあたりだ。まぁいい。

赤色灯を灯した車が、僕の部屋の前を通り過ぎたようだった。パトカー?救急車?

怖いね、と口にすると、咲ちゃんも怖いねという。そんな咲ちゃんを優しく抱きしめた。

大丈夫だよ。僕が守ってあげるから。咲ちゃんは僕に、どこにも行かないでと言った。


テーブルの上には、二人分の読みかけの本と、飲みかけのカップ。

枕元にはいつの間にか充電が切れた携帯電話。部屋は、本棚に囲まれ、僕の腕の中には咲ちゃんがいる。最高に幸せだ。



















夕暮れの街角、アパートの前に近隣住民が群がっている。

赤色灯を灯したパトカーと救急車が何台も止まっていた。

アパートから担ぎ出されたのは20代の男女。

女性は首を締めらたことが原因と見られる窒息死。

男性は身体中無数の引っ掻き傷があり、失血死と見られている。

男性の両手の指は爪が剥がれ全て血まみれになっており、その全てが男性自身の血であることがわかった。尚、男性の致命傷となったのは、首を引っ掻き回していた際に自身の頸動脈を傷つけたためと思われる。

部屋は本棚とベッド以外には目立った家具はなく、部屋中に男性の血が飛び散っていた。

通報したのは隣の部屋に住む50代の男性であり、彼の証言によると、数ヶ月前から時々男女の言い争う声や、男性が一人大声で話す声が聞こえていたという。そんな中、今回は一際大きく長かったため、直接部屋を訪れたが無視されたために通報したという。






現場に残された読み掛けの本。

その本のページが一枚捲れた。






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