第27話
―臣―
午前中の部活の練習が終わり、臣は急いで家に帰ってシャワーを浴びた。終わったらすぐ行くとは言ったが、汗をかいたまま彼女の家に行きたくはない。
強引に数学を教える約束を取りつけてしまったが拒否はされなかったので、彼女の母親も取り込んで外堀から埋める作戦だ。幸い大人への印象はとても良い自信はある。
臣は頭から滑り落ちる水滴を見ながら先日の夏祭りの事を思い出していた。
白地に紺の朝顔柄の浴衣を着た彼女は可愛すぎて直視できなかった。妖精ですか?天使ですか?お母さんグッジョブ、と思いながら心の中で拳を握りしめた。
少し引き下げた後ろ衿から覗く白い襟足が色っぽくて何度も盗み見ては触れたい衝動を抑えた。
可愛いと言いかけて思いとどまるたびに、心配そうに虫除けスプレーを出す鈍さも身悶えするほど可愛い。
他の人間の眼に触れさせたくなくて急遽合流を取りやめた時は臣の立場ばかり心配していたが、それより自分の心配をしろと言ってやりたかった。
道行く男が全員彼女を見ているような妄想に囚われて、2人きりになった時は心底ほっとした。ほっとしたが今度は自分が何かやらかしそうで心配になる。
小さな口で少しずつたこ焼きを食む横顔を食い入るように見てしまったが、それくらいは勘弁してもらいたい。
―なんだよあれかわいすぎか。
線香花火が大好きだと眼をキラキラさせて、自分を萌え殺す気なのかと本気で思う。小さな炎を見つめる彼女の瞳もゆらゆら揺れる。正直花火よりもその顔だけを見ていたくて無意識に身体を寄せていた。
火薬と煙と川の匂いに混じって、彼女の細い身体から甘い香りが漂い頭の芯が痺れる。
もう「好き」と言ってしまおうかと考えた時、ゆらめく瞳から涙がこぼれ落ちるのが見えた。
先日の言い合いで華が怒ったまま祖母の家に行ってしまった事が
―また『ハナ』だ。
どうやっても入り込めない心の中心に華が居座っている。涙をこらえる姿はいじらしく、慰めたいのにじりじりと焦げつくような焦燥が募り、気付けば唇を奪っていた。
真っ赤になっていた彼女が少しは自分を意識してくれたらと願わずにはいられない。かなり意地の悪い事をしてしまった。
―もう取り決めなんてどうでもいい。
彼女が泣いているのに傍にいない華が悪い。葉も普段は警戒心の強い小動物のようなのに、あんな風に泣くなんて無防備で鈍感にも程がある。
嫌と言われない限りは、否、例え嫌と言われても、搦め手で捕らえて絶対に逃がすつもりはない。
―早くこっち向け。もっと俺を見ろ。
自分の事を考えて悩んでくれるうちは華の事を頭から追い出しておけるはずだ。今のところおかしな推測ばかりしているようだが、そこもまた可愛いのでしばらく悩んでいてほしい。触れるたび真っ赤になっても本気で嫌がっていないのは分かる。
柔らかな唇、片手で握れそうな細い首、しっとりした肌の感触を思い出し、ズクリと身体の奥に生まれた熱に、臣は慌ててシャワーを冷水に変え頭から浴びた。
これから彼女の家で勉強会だ。シンプルでぬいぐるみなど1つもない本ばかりの色気のない部屋だが、彼女の甘い香りが満ちている場所でも冷静でいる必要がある。
家族のいる家で何かする訳にはいかないし数式を解いていれば少しは理性が保てる。何も知らない彼女を怯えさせたくはない。
ーゆっくり、慎重に。
じわじわと包囲網を狭めて、いつか自分の手の中に堕ちてきてくれればいい。
臣はカランを捻って水流を止め、形の良い唇の端を微かに綻ばせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます