第5話 東京オリンピック
「Nさん、どうぞお入りください」
帝都中央病院の二階のフロアの一番奥にある
脳神経内科の待合室にいたNは
名前を呼ばれ診察室に入った。
「こんにちは。よろしくお願いします」
とN。
「こんにちは。Nさんですね。脳神経内科は本日が初診ですね」
そう言うと医師はカルテに目を通す。
「ご自身の記憶障害を疑われているという事ですね。
具体的にはどういう感じでしょうか?」
そう聞かれたので
Nは自分の身に起きている事を淡々と語った。
大谷翔平という架空の人物を、現実として理解していたこと。
コロナウィルスが世界中に蔓延し、多くの人が亡くなり
マスクをする生活が当然だと思っていた事。
「ありがとうございます。
確かに少し記憶が混濁しているのかもしれませんね。
とはいえ、記憶が混濁したりすることは
実はそれほど珍しいことではありません。
事故や強い精神的なショックなど
外部からの刺激によっても
こういう事は起こりえます。
最近、何かショックを受けるような事はありましたか?」
Nは、大谷とコロナ以外にショックな事を思い出せなかった。
田宮と大谷良子の件は、
ある意味ショックだが意味合いが違う。
ありません、と答えるN。
Nに食事やら家族やらいくつか聞いた後医師は
説明を始めた。
「ありがとうございます。
わかりました。
脳の中の記憶のシステムというのは
実はまだよくわかっていません。
とはいえ科学はどんどん発展していて
わかることもいくつかあります。
まずNさんの脳に異常があるかどうか
脳波を測定する装置がありますから
調べてみましょう。
全ての異常がわかるわけではありませんが
もし脳に出血があったり腫瘍があったりすると
判別することができます。
そして今日午後、
心療内科も予約されているようですので
ストレスとかそういう心の部分も
お話しされてみてください」
朝イチでやってきたが
脳波を測定する装置の予約が当日になったため
午後に測定することになった。
本来この装置の測定は
当日予約は不可で
また後日検査に来ることになるのだそうだ。
数時間の待ち時間ができたが
今日検査してほしかったNは喜んだ。
Nはそのまま待合室に戻り考え込む。
長年の習慣になってしまい
Nは朝からずっとマスクをしていた。
ただ、ここは病院なので
周りの多くの人がマスクをしている。
Nにはこの光景が安心だった。
病院から出ると
誰もマスクをしていない世界がある。
自分の頭の中がおかしいとは思っていながら
意識と無意識の狭間で
その世界をまだ受け入れていなかった。
正常な世界ではない、と。
Nは待合室の椅子に座りながら
しばらく考え込んでいたが
ぐるぐるといろんな事が浮かんできて
落ち着かなかったので
売店へ行き、ホット缶コーヒーとあんパンを買い
飲食ができる一階北側の裏口ロビーの外にある
ベンチがずらっと並んだ屋外の休憩スペースに移動した。
風は当たるが屋根はある。
冬の風は少し肌寒かったが
今のNには寒いくらいが心地よかった。
そこで食事を済ませたNは、
ヒマなのでまた売店に行き
缶コーヒーとどうでもいいスポーツ雑誌を適当に選んで一冊購入した。
それらを持ってまたさきほどの休憩室に行くN。
そこでパラパラと雑誌をめくり、Nは仰天した。
「オリンピック総まとめ」
と銘打たれた特集記事の中に
「2020マドリードオリンピック」
のページを見つけたのだ。
今は2021年、12月。
Nの記憶では、コロナウィルスの影響で
オリンピック・パラリンピックは
1年遅れの2021年、今年に行われた事になっていた。
そうか、確かにコロナがないのなら
オリンピックは2020年に行われるはずだ。
しかし、開催地が東京ではなく
スペインのマドリードになっている。
Nは深呼吸をして、考えた。
最初は「大谷翔平」という人物がいないだけかと思った。
しかし、そうではなかった。
「コロナウィルス」もない。
「東京オリンピック」もない。
そうなると、他にももっと変わっている事があるはずだ。
俺の記憶とこの世界の間で。
午後の脳波測定まで、Nはその雑誌を読み耽った。
ウサイン・ボルトの名前がなかった。
もしかしたら他にもいない選手がいるかもしれないが
あまり熱心にオリンピックを見た事がないNは
思い出す事ができなかった。
そうこうしているうちに午後の脳波測定を終え
結果は心療内科の後に教えてもらえることになった。
Nはそのまま、心療内科の診察に向かった。
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