足の裏を汚して

 ベランダに通じているガラス戸を開けると、そこでは寝ぼけたセミが一匹だけ鳴いていた。

 どこにかにいる雌を探して、必至に鳴き叫んでいるけれど、外の暗闇にミスマッチで、間抜けに聞こえる。

「ん……うるさいんだけど」

 床で寝ていた沙代が寝ぼけ眼を擦りながら起き上がった。

「ああ、ごめんね。ちょっと風を入れようと思ってさ」

「あっついだけだよ。それよりもさ、クーラー……入れようよ」

 頭を掻き『早くつけてよ』と目で訴えてくる。

「ダーメ。沙代ってば、クーラーつけたせいで風邪ひいたこと忘れたの?」

「大丈夫だって、ほら……美月が隣で寝てくれれば暖かいし」

「はいはい、そう言って寝たら私を蹴飛ばすんでしょう?」

 一週間前の暑い夜。彼女は私を布団に呼び込んでおきながら、二時間後に『暑い』と言って蹴飛ばして布団から出したのだ。その日以来、私は彼女の隣では寝ていない。

「だってさ、あれは……」

 適当な言い訳が出来ずに視線を泳がせる。

 沙代のいつもの癖だった。

 自分が不利な状況の時に出してしまう彼女の知らない癖。その後に並べられる言葉は、大体意味が無い。だって、その場限りに嘘なのがもう、わかっているから。

「はいはい、もう言い訳はいいから」

「いや、言い訳じゃないよ」

「もういいからさ。それよりも、こっちに来なよ。風が涼しいよ?」

「自然の風よりも人工の風の方が好きなんです~」

「いいからこっち来て」

 ワガママにそう言うと、沙代は『はいはい、しょうがないね』なんて言いながらニヤニヤしてこちらに来た。

 網戸を開け、サンダルを履いてベランダへと出ると、マンションの壁に張り付いていた蝉が『ジッ』と微かに鳴いて勢いよく飛び出していった。

 少しの湿気を肌で感じながら、外へと出ると、爪の先のような細い月が出ていた。

 街の光に食べられずに微かに残っている星と一緒に輝くその月を見ながら、ぼんやりとしていると、沙代もベランダに来ていた。

「沙代、こっちに来たの?」

「うん、煙草、吸いたいし」

「……サンダルは?」

「履いてない」

「もうっ……」

 沙代はベランダに素足で出る癖がある。そのせいでベランダの床の汚れを足の裏いっぱいに付けて部屋に上がりこむので、部屋の中が砂でじゃりじゃりになる。

 サンダルが一個しかないのがその原因だと彼女は言い訳がましく言ってくるけれど、玄関に戻ればサンダルはもう一個あるのだから、それを履いてこればいい。

 でも、彼女からすればそれは『めんどくさい』のだ。

「足、後で洗わないと部屋に上げないよ」

「はいはい、わかってますよ」

 煙草に火を点け、愛おしそうに吸い込み、フッ……と闇に向かって煙を吐いた。

 微かに香る煙草の匂い。

 彼女と同棲して二年、最早この匂いには慣れてしまった。

 他の場所で煙草の匂いを嗅いでしまうと、餌付いてしまうぐらいに嫌なのに。

「タオル、持って来るね」

 沙代の足の裏を拭く為のタオルを風呂場まで取りに行く。

 煙草を吸い終えるまで待っていると、そのまま上がってきそうな沙代に先手をうつ為だ。

「待って」

 サンダルを揃えて脱ごうとした私を呼び止めた沙代は、不意に私の唇に自分の唇を重ねた。

「後で、お風呂、一緒に入ろうよ」

 重ねていた口を離して、彼女は悪びれることなくそう言うと、また煙草を口につけた。

 口の中には、彼女の吸っている煙草の匂いが残っていて、徐々に体中広がっていく。

 クラクラとしているのは、煙草のせいかもしれない……多分、きっと、そう。

「……はいはい」

 適当に返事をしながら、風呂場へと向かう。

 タオルを濡らして、戻ってくる。

 今からやることは、それだけだ。

 でも、戻る前にニヤニヤしてるこの顔を戻さないと……からかわれるかもしれない。


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