② 椎名空と水杉彰

 椎名空は、僕の憧れだった。

 直近に出演した映画では、彼女は耳が聞こえないことがハンディだと思わせないほど、滑らかに健常者同様に声を出し続けた。言葉一つ一つの発生に見るものすべてが引き込まれ、さらに彼女の自然な演技の動作に一気に作品へ没頭させて出演者を圧倒した。映画まるまる一本、しゃべり続ける女の子を演じきったとき、スタンディングオベーションが起きた。有名な賞を受賞し、レッドカーペットをドレス姿で歩む彼女は記憶に久しい。

 耳が聞こえない人は普通、声の調子が偏る。しかし彼女はそう思わせなかった。

 舞台挨拶のインタビューにおいても彼女は彼女の口で話し続けた。

「本当に耳が聞こえないんですか」

 あるインタビュアーが紙で言葉を示さず、彼女に口頭で質問をしたことがあった。フラッシュがたかれ、彼女はインタビュアーの口元が見えず、なくなくこう答えた。

「すみません、もう一度お願いします。私はあなたの口で言葉を受け取ります。のあなたの言葉も見れば受け取れるのですが」

 彼女の席からおおよそ聞こえない範囲のインタビュアーの口元をフラッシュがたかれながら、周りの騒音がありながら拾い上げた。

 彼女は耳が聞こえないが、自身の他の能力を存分に発揮させそう思わせない。肌の感覚で息を感じ取り、呼吸を合わせるし、視覚機能でようやく健常者と同様に声を受け取る。

 もう一度インタビュアーが、今度はもっと小さく口を動かし、「本当に耳が聞こえないんですか」と尋ねた。

「ええ」彼女は謙遜も誇示も見せず頷き「本当に聞こえません。だから、不憫に思うことはたくさんあります。私の視界に入らない人から呼びかけられると反応できませんし、今のようにフラッシュで口元が見えないと誰が何を言っているのかもわかりません。

 一度母や父と同行せずに病院に行ったことがあって、私の番になり名前を呼ばれたことがあるんです。でも気づかなくて知らないうちに、キャンセルになってしまったことが。笑い話なんですが、ずっとその待合室にいて一日つぶれちゃったんですよね」

 一気にまくしたてるように、彼女は普通の女の子を演じきる。言葉が軽やかで美しく耳に浸透する。舞台挨拶の場でも透き通った彼女の言葉を一字一句僕は覚えている。

「だから何が起きるか決まっている脚本は、演劇は私にとって神様みたいなものなんです」

 彼女はたははと笑い、心底女優を楽しんでいるように思えた。


 あの夜までは。


 まもなく終電がくるホームに少女が飛び降りた。テロップと同時に電車のアナウンスが鳴り響く。くるるるるとけたたましく鳴る警笛。黄色い線よりおさがりくださいと伝える構内音声は僕と少女しかいないホームに虚しくとどろいた。彼女はただ向こう岸に目を向けていた。冷たい光の目玉が見えるのを待ち望む。

 静謐な肌がぼんやりと夜更けに浮かんでいた。うっすらとした瞼がふわりと開く。喪服姿に黒百合のコサージュ。ベールで顔が見えない。綺麗な立ち姿にしばし呆然として、白く曇った息吹を吐いた。

「おい、なにしてんだ」

 僕は正気に戻って現実に立ち戻る。

 ホームに佇む少女は、僕の声に気づかない。何回か彼女に何かを呼びかけた。駅員もいない。終電がくる。焦った僕はホームから飛び降りて、少女を抱えた。かすかにベールが揺らぐ。

 椎名空だった。

 水晶玉のような大きな瞳に僕が映っていた。夜の星のようなきらめきが水晶玉の瞳に散っていた。水滴が表面に膜をはる。徐々に増していく表面の潤み。破裂。一気に決壊し、とめどなく涙の熱い雫が頬を伝わせる。宝石のようにきらきらと大粒の涙が生きようときらめいて。

 そしてきわめつけに、たははと笑った。

「死なないでくれ」

 一生に一度のお願いを僕はどこにいるとも知らない神様に祈った。この世は、脚本じゃない。現実は脚本なんてない。けれど、空が言ったように脚本があったのなら。

「あんた、名前は」

 知っていたけれど。

「そ・ら」

「僕はあきら」

 きっとあったのなら、僕は世界一の幸せ者だ。

「空、」ずっと好きだった。憧れてやまなかった。映像の中の、僕の遠いとおい、愛おしい人。そんな人が目の前で死のうとしていたなんて。


 演劇ハコにもどろう。

 幕間が終わりを告げて、カーテンが開かれる。


 つやめいた水が僕の義手を照らしている。水底にそよぐ黒い髪が義手に絡んだので払いよけようとしたが、彼女の髪から香る匂いがそうはさせない。無味無臭の中で彼女の甘い花の匂いが僕の鼻をくすぐる。きっとこの花の色は桃色だ。記憶の奥底で警鐘が鳴っているのに無視をし、色合いを確かめた。黒一色の彼女の姿をよそに僕の脳内は桃色に仕立て上げられる。ふっと口から息を吐いて桃色を吐き出した。

「ごめん、僕はカミサマだからこのハコの住人を助けなくてはならないんだ。だから、きみが死のうとするなら僕は止めるし、死なないように管理する」

 僕は手を差し出した。

 彼女はトランス状態に陥っている。空として成り立ち、目の前の青を見つめる。柔らかな瞳を持ち上げていた。白い肌が劇場でぼんやりと照っていた。照明は彼女と僕を中心に浮かせる。

 照明の位置、劇場の人の見え方、空は全てを熟知して生えさせている。いつどんな時も、彼女はその視点を忘れない。だから彼女はいつも美しく、声すらも演出して見せる。気をぬいたら僕自身を吸い取られて、青に豹変する。それは彼女の特性であり、天才女優といわれる由縁だ。

 ここで空は青の手をとる。

 ──はずだった。

 彼女は、空っぽの自身を演じ続けている。空白が板の上で広がってしまう。空の反応のなさ、僕の演技の戸惑い。止まっている空気。幕開け開始早々、彼女はやってくれる。

 反応がない。

 十秒が経過する。

 それなのに、彼女の姿は黒いベールに白い肌と、口元が涙で崩れているため美しく映えているため、劇中の空白はおろか飽きを観客に感じさせない。

 三十秒が経過する。

 僕は試されていることにようやく気付いた。

 空は、空っぽなのだ。母は亡くなり、父は行方知れず、青に助けられたからと言って「死なないで」懇願されたからといって、死なない理由にはならない。

 このまま水に沈み溺れ死ぬのもいとわないだろう。照明すらもあやつり、彼女は水死を演出しようとしている。

 僕はここから彼女を空っぽのままであろうが立ち上がらせなければならない。

 四十秒が経過し、僕はあの夜と混同する。

 僕の演技はパッチワークだ。過去に見たこと、行動したことを演技に取り入れる。たとえ、世界観と違っていたとしても。それが僕の演技方法。

 五十秒、一分と経とうとしたところで──

 この脚本はどこまでも現実に近いからこそ、僕は空のこの反応の対応ができることを、彼女は知っていたのかもしれない。

 ──僕は彼女の腰に手を回し持ち上げた。

 待っていましたとばかりに、劇中の照明が僕へと降り注ぐ。彼女へ向けられた視線は僕へと、取り上げられた。主人公は彼女ではない。この世界ハコは僕のためにあるものだ。強引に主導権を奪い取る。

 が、再び彼女から漏れる香りに鼻腔がくすぐられてあの夜が思い出させられる。

 憧れの彼女を持ち運び、静かな夜の道を歩いた。

 僕はいつ、彼女に想いを伝えられるだろうかと夜の静まりの中で宙ぶらりんな思いが浮かんでいた。まるで鎖をひいているかのように重苦しく、真冬の凍てついた空気で肌は冷めていたのに脳内はいつだって好意でいっぱいだった。彼女のふんわりとした桜の香りが、心の奥底に秘めた想いを沸き立たせる。これは憧れか、好意か。どちらかわからなくて、どちらもあると思って彼女に伝える言葉を生み出せなかった。

 僕の記憶が演劇とまざりあう。あの日の光景が上乗せされて、演技が研ぎ澄まされる。僕のパッチワークの一つが寄木されてこのシーンを鮮やかに照らし出す。この一幕にあの夜の全てが詰め込まれる。青ではなく、僕として演じてしまう。それは演技ではない。このハコに青がいなくなってしまう。

「歩ける?」

 止まらず、あの夜の彼女へと投げかける。 

 彼女はうなづいているかわからないくらいの小さな首肯をした。黒い夜に浮かんだ彼女の白い嘆息が映えていた。嘆息は雲となり、漂って僕の頬をなぞり火照らせる。噴きこぼれそうになる「好き」の一言を押しとどめた。なんで死のうとしたんだ、と好意を疑問で覆い隠す。

 彼女の足元を上げると靴がない。

「靴」と僕が思わず声を上げると、「ううん」と不機嫌な音が空の口から吐きだされる。

「捨てたのか」

 ベールの下から覗かされる口がまた笑うものだから、先ほどよりもいっそう胸が苦しくなり、そこまでして彼女から何かを奪う世界に対し、腹立たしくなる。

 自身の足元を見て、

「僕の靴をあげる」

 彼女をホームの凍える地面に足をつけた。そして彼女の足にかしずくように頭を下げて、僕の靴を履かせようとした。

 すると、彼女は言うんだ。

「結構よ」

 厳しく尖った声が僕の頭上から降り落ちる。


 ──あ・り・が・と・う。


 が、今は椎名空らしくない柔らかい声が僕に向けられる。意識が演劇へ引きずり込まれる。空は椎名空ではない。声で世界観を一瞬にして形成していった。僕の意識もろとも、青空のハコへ。

 ここは幾千年先のハコ。地下空間の海のさざ波が僕の耳元で巻き戻る。ホームの冷たい地面は、赤タイルへと変貌していく。赤いタイルの先を見ると、住宅街へと繋がっている。住宅街は白い箱が積み木のように並んでいる。背景は夜から白一色に染まっていく。体は行為の温もりを忘れて、僕は青へと、カミサマへと意識を戻す。体は重くなり、僕の四肢は機械義手に成り下がる。

 一つずつ現実のあの日の夜と分かたれる。

 つん、と澄ました顔であの夜の彼女は僕を払いのけて骨壺だけ大事そうに抱えて、先を歩いた。かっぽ、かっぽ、と空は僕と歩幅を合わせる。僕の方を一切見なかった椎名空。

 対して僕に気を使い、足を止めながら自身の家へと歩みを進める空。

 彼女は僕の演技方法をどこまで熟知しているのだろうか。

 どこまで彼女は人の演技を操れるのだろう。

 僕だってパッチワーク上の演技はそこまで悪くはないはずなのに。

「家まで送るよ」

 自然と僕はあの日の夜ではなく青として言葉を紡げた。

 天才と秀才との違いを肌で感じる。

 僕は彼女にかなわない。

 舞台の上では彼女の方が数段上だ。


 でも、今の演技は彼女のいう神様に反抗する行為に他ならない。

「何が起きるか決まっている演劇は私にとって神様みたいなものなんです」

 脚本を演者が操るのは、彼女だって嫌いだったはずだ。


 思い当たるとしたら、僕への復讐、だろうか。

 そのために彼女は神様へ反抗するつもりなんだろうか。


 物語は続く。ハコの中で僕たちは二人で歩き出す。空は自殺をあきらめて家路につき、カミサマである僕は彼女を送り出す。物が何もない家で彼女と筆談して、青は彼女の家へ居候を決め込む。青はシステムからの指令で父を殺すために自身に嘘をついていた。ここから数か月、青は空とともに海のあるハコで生活をする。青は自身の恋慕を無自覚なまま、父親殺害の指令と葛藤する。青は空の父親のことをよく見知っていたから。

 同僚、だったから。

 父親もカミサマだったのだ。


 現実でも彼女の父親は神様だった。脚本家をしつつ、役者もしていたのだ。あの、椎名空だ。何度も有名な賞に名が上がり、名実ともに確固たる地位を築いていた。この界隈で彼女の名前を知らない俳優はいなかったぐらいなので、椎名空の父も有名な俳優ではあった。

 だが、ある時彼女の父親は芸能界から失踪した。

 椎名空の前からも。

 彼女と初めて出会った夜、僕はバカなくらい浮足立っていた。椎名空に出会えた上に、助けることができた。決定的瞬間をとらえ、その上彼女に対しての愛おしさと彼女を排斥しようとする世界への腹立たしさに苛まれていた。

 彼女は「結構よ」という言葉同様に、素足で歩き続けた。硬いアスファルトに痛みをものともせず、小石を踏んづける。誰もいない寝静まった住宅街に僕たちの小さな足音が吸収されていく。星が見えないのに快晴で空は澄み切っていた。どこまでも広がった夜の藍色に冬の呼吸を吐き続けた。

 喪服姿に黒ベールと寒そうな格好をして、骨壺を抱いている彼女を見て、コートを差し出そうかと、自身の肩に手を置いた。

「母が亡くなって」彼女は吐き出したかったのか、僕の方を見ずにひとりごとを言い続け、僕の手は滑り落ちる。「父は失踪してしまった」その上、皮肉気に私はこう見えて耳が聞こえないんですと告げて、「だからたまに言葉を練習するために独り言を言ってしまいます」

「いいえ、気にしてませんよ。もっと教えてください」

 僕は彼女に見えるように彼女の前へ踊りだし、手振り身振りで彼女にコートを貸すことなんか忘れて言葉を届ける。そんなことしなければいいのに、彼女が僕と話そうとしているのが嬉しすぎたのだ。彼女は僕の言葉や感情を受け取ったのかわからないけれど、自身の身の上を語るのをやめなかった。感謝もせずに、裸足で道を歩き続ける。歩くたびにゆっさゆっさと百合のコサージュが揺れた。

「父は、有名な脚本家であり俳優でした。ですがある時期から荒れてしまった。脚本は書けず、俳優業は演劇やドラマといったものすら触れられないほどに嫌悪してしまった」

「ある時を境に」

「あるドラマにでたときから」

 奇妙に僕と彼女の言葉が重なり、背筋に生ぬるい蛇が這っていく。

「水杉彰という俳優と共演したときから、父は荒れ始めた」

 僕は彼女の父親、椎名守しいなまもるが僕の目の前で膝から崩れ落ちた光景がリフレインする。僕はその前に立ち、椎名守を見下げる。有名な大河ドラマだった。僕は青年時代の若君の役で、椎名守は僕の父だった。会話の掛け合いシーン。僕は彼を打ちのめした。

 すっと彼女は顔を上げて僕を直視する。

「あ・き・ら」と彼女は口にする。

 椎名守の芸能界人生を殺したのは、

 この僕だ。

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