青空のハコ

千羽稲穂

第一幕 水杉彰と椎名空の因縁

① 青と空

 白い壁に水面が反射しゆらゆらと幽霊のようにせせらいでいる。か細い波の音が風にのって伝う。鼻をくすぐるのは、一寸の狂いもない鼻腔を突きさす潮風。しかし、それは肌を荒れるさせるようなものではない。ひりひりするような日光もここにはない。頭上を照らすのは昼から夜へと一日が調整される照明があるだけ。あくまで人工的に味付けされたものしかここにはない。いたるところをシステムが不自然のないように管理している。

 均衡のとれた四角い地下空間──ハコに僕は降り立った。

 背後には汽車が我が物顔で陣取っていた。汽車は、しかし五両しかない。地下空間のハコからハコへ、線路は敷かれているがそれぞれのハコが相互に交流することは少ないため、汽車自体の車両は多くない。何もないハコほどそれは顕著であり、今回僕が配置されたこのハコはとりわけ田舎であるので、汽車が止まることすら珍しい。汽車の形相は一時代前の蒸気機関車を思わせる風貌である。煙は立たず練炭はお飾りのように先頭車両に放置されている。無人の汽車は次のハコへと向かうため、足枷を持ち上げて決められた道を歩みだした。じりじりと動き出す彼が去っていくのを見届けず、僕は駅舎を振り返る。今にも吹き飛びそうなトタンの屋根を、棒きれのような貧相な柱が支えている。その下に青錆びた寂しいベンチが申し訳程度に備えられていた。そこに僕の同僚が座っており楽し気に鼻歌を奏でている。旧時代の埃がかぶった曲が記憶を行き過ぎる。すらりとした長い脚を組まずに突き出し、背もたれに肩甲骨をもたれさせた不格好な座り方をして俯いている。指はズボンのポケットに収められている。髪が長く顔が隠れてい、男か女かもわからない。

「お前がこのハコの『カミサマ』か」

 僕はそいつと真っ向から対面した。

 そいつは鼻歌を一気に加速させ、豪勢な音を奏で始めた。と思ったら、ぴたっと止めた。そして、ゆらりと頭を前後させて、一気に跳び、立ち上がる。僕よりも頭一つ分長身で、さらりと髪が流れて青白い鼻が姿を見せた。

 にやり、と笑い、ポケットから手を抜き出した。

 そこにはカミサマの印である機械義肢の指があった。

「ああ、そうだよ。ようこそ海のあるハコへ」

 人差し指の義肢が人口照明を受けて際立つ。全指が義肢の手が差し出される。

「私は、このハコのカミサマ。白だ」

「青」

 僕は同僚の手を握らず、片手に足元に置いていた革鞄を持ち、もう片方の手でシステムから下りた何枚かの指令書を握りしめる。手袋をしているから滑りやすい。指令書をきつく握るため機械義肢に力を入れる。今回のハコは長期滞在になるだろうことは指令書の枚数からもわかっていた。

 カミサマシステムは、それぞれのハコにカミサマを置く。システムの血脈として。手足として。記憶のない空っぽな人間を。システムの穴である人間を完璧に管理するために。

 地上に人間が住めなくなって幾千年。人間は地下へと住処を移した。地下空間は全て四角く、白い。すなわち、『ハコ』。このハコは海があるから、その白い壁に透き通った水面が映し出されている。

 ゆらゆらと動く透明な水面を視界いっぱいに収める。何かを思い出しそうになる。記憶がない空っぽのカミサマのくせにときどき既視感を抱く。

 誰かが水の中で遊んでいた。手足をばたつかせて冷たい水に悲鳴を上げる。違う、これは誰かが溺れているのだ。水飛沫があがる。足が水底に捕らえられる。溺れている誰かを助けようと手を差し出した。途端に透き通っていた水は黒く染まった。どっぷん、と暗闇に誰かごと沈んでしまう。

「ここへはどんな指令書をもとに?」

 同僚の声で意識が戻った。

 危ないところだった。

「言えない」

「前にいたハコはどんなところ?」

「それも言えない」

 即席の質問が飛んでくる。お喋りなやつだ。でも、助かった。

 駅舎から出る。傍らに案内役の同僚を従えている。歩きながら何枚かの指令書に再び目を通そうとし、すぐにやめた。耳元で清々しい波音が弾けていた。鼻先でラムネのような澄み渡った香りがかすめる。見上げると眼前を澱みない涼やかな白波が押し寄せている。ハコの隅は見えない。水の中は何もないから水底が遠くからでも見通せる。

 一点、黒い影がぽつん、と混じっていた。深い方へどんどん影は歩みを進める。

「荷物、任せる」

 持っていた鞄を置き、握っていた指令書を同僚に押し付けた。僕は慌てて走り出す。同僚の怒声を尻目に、砂浜へ駆け降りる。ズボンをたくしあげて、灰色の機械義肢の両足が現れる。人工砂浜を踏みしめるとビーズのようにじゃりじゃりと音が高鳴る。足跡がつく。踏みしめて水の中へ。海の奥へ。水面が上昇する。水しぶきが飛び散って冷たい雫が肌につく。機械義肢にも水面が反射している。重い波間をかき分けて、影へ。影の後姿は細い。黒いドレスを着ていた。僕と同年代くらいの少女だった。

「おい、やめろ。行くな!」

 水面が太ももまで達するくらいの深さになってやっと追いついた。

 後ろから抱きしめる。

 桜の香りがまとわりつく。少女の姿がぶれる。脳内が揺さぶられ、記憶が蘇りそうになる。

 細すぎる体躯。骨が浮き出ている。滑らかな肌がドレスからのぞかせる。黒百合のコサージュを頭に飾り、黒いベールを下げて、胸に長方形の箱を大事そうに抱きしめている。

 すぐさま意識をしっかりと保ち、僕は沿岸に彼女を引き寄せる。少女は抵抗して、体をよじる。僕は少女の非力な力をものともせずに浅瀬まで引きずるように持ってきた。が、そこで片足の機械義肢が上手く作動せずもつれた。二人一緒になり落下した。浅瀬に身を沈める。

 少女を下に、僕は上から四つん這いになり彼女を覆っていた。彼女の長髪が浅瀬に揺らぐ。黒いベールがそよぐ。黒百合のコサージュが手首に当たっている。仰向けになり彼女は僕を見ていた。目と鼻の先に水晶玉のような艶めく丸い瞳がある。無表情だった顔をたははと解けて見せた。黒いベールからのぞかせる相貌に思わず息をのむ。

 なんでこんなときでも笑っていられるのだろうか。

 手に持っているのは、骨壺だ。深い海面へ歩みだしたのは。少女のこの黒いドレスは。そして、こんな状況で力なく笑うのは。

 どうして。

 僕は少女を知っていた。

 運命を呪った。

 指令書に載っていた少女と相違なかった。

 僕は口を開けて何かを言おうとした。しかし、少女は察して、指でちょいちょいと耳を指し示した。頭を振る。ちょいちょい。頭を振る。昨夜泣いた形跡がある目の腫れを痛ましそうに瞬き、ふっくらとした赤い唇がまた笑みを滲ませる。

 ゆっくりと言葉を口にする。

「耳が聞こえないのか」

 彼女は目を細めてすみやかに頷いた。

「そいつは」

 骨壺に目をやると、少女は頭を傾げて、口を大きく「お・か・あ・さ・ん」と動かす。息が吐き出され、少女のかすかな声が漏れる。ぐっとこらえていたのが崩壊し、少女は微笑みながら水晶玉の表面に彩を散らし、涙が頬を伝った。うつろう少女の瞳の色に全身が強引に惹きこまれる。意識が遠のきそうになる。

 目の前の彼女を抱きしめて、「好きだ」と告げたくなる。

 どうしても現実の彼女と混同してしまう。

 少女の影が安定せず、夢から覚めさせる。

 まだその台詞を告げる場面ではないのに。


 あまりにもこの劇は現実の役者の状況に近すぎた。


 少女の素性は、システムから送られた指令書に載っていた。青は、少女の父を殺すためにこのハコにやってきたのだ。少女の父は蒸発していた。父は少女のもとへ戻ってくるというかすかな希望を込めて、青はこのハコに派遣されてきた。そして偶然にも母親が亡くなった日に入水自殺しようとしていた少女と出会う。黒いベールに黒百合のコサージュ、黒ドレスの、まるでお姫さまみたいな少女と。

 青はこれから少女の父を殺すまで、少女とこのハコで共に過ごすことになる。少女を好いてしまうとは知らずに。


「僕の名前は『青』」

 最初の出会いを君に捧げる。

「そ・ら」

 空は何も入っていない骨壺を愛おしそうにぎゅっと抱きしめた。

 まるで僕たちが出会ったときみたいな、そんな一場面。

「死なないでくれ」

 僕も、青も、この一瞬で恋に落ちたのだから。


 スポットライトが僕たちを照らしていた。視線が舞台に集約されている。水面の心地よい音が物語に没入させる。脚本に合わせた白い壁に、水面が映し出されている。霧が薄くたかれている。舞台のセットは十全に整えられていた。物語は役者の感情に関係なく滞りなく進む。序章が終わり、暗転する。

 大丈夫か、と先ほど白を演じていた新島にいじまが手を差し出してくれた。無視して、僕の下に組み敷いている彼女を見下げる。うつろな目をしており、未だ空に入り込んでいた。

「君の演技はすごい」

 耳が聞こえない役者である彼女に言葉なんて届かないけど、これだけは伝えたかった。彼女と空を混同して、それでも恋い焦がれる。喜怒哀楽、どの演技も心を揺り動かされる。

 差し伸べられた手をつかみ起き上がり、新島に「さっきはありがとう、アドリブ助かった」と一言。その後彼女がゆったりと起き上がり、黒いベールを整えて舞台裏に。

椎名しいなは天才女優だ」

 一時期の低迷が嘘のようだった。

 僕が称賛すると新島にいじまは「この舞台の脚本も書いてるからわかるけど、水杉みずすぎ、お前もじゅうぶん化け物だよ」と笑いこぼしていた。


 彼女に告白するために。

 僕は演技を続ける。



──『青空のハコ』



 開幕の警笛が鳴る。

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