第5話 約束
「……じゃあ、私の事名前で呼んで。これからもずっと」
呆れられると思いきや、寺里さんからこぼれた言葉あまりにも弱く、切なかった。同時に友達から当たり前のように呼ばれる名前は彼女にとって特別なことで、微かな望みでもあるのだということに気付く。私が友達に近づかれるのと同じように。似ているようで違う。それが私たちの立っている境遇なのだろう。
「…奈緒」
「ありがとう。私友達に名前呼ばれるの夢だったんだ。でも、私みたいな人が紫乃花ちゃんみたいに何事も完璧にできる人に、こんなお願いしていいのかずっと思ってたの」
「ちがっ、そんなことない。私は」
私は完璧じゃない。周囲はいつも私を完璧だなんて言うが、実際は逆だ。そう見せているだけ。完璧な自分を演じなければ弱い自分になってしまいそうで、それが怖かった。完全な自己防衛。だが完璧を演じて見せていれば見下されることも無い。今まで面倒な友達関係からも逃げるだけで、理解しようとしていなかった。それに比べて寺里さんは難病を抱えながらも、友達と関わることを諦めなかった。陰で努力していた。誰よりもつらいはずなのに何事にも真っ直ぐで、友達思い。それがなんだか羨ましくなる。
「私みたいな人、じゃないでしょ。寺里さんは…自分を謙遜しすぎ。私が最初に持った奈緒の印象は世間知らずで、人のテスト勝手に見るような人だけど」
今は違う。
「紫乃花ちゃん、それ褒めてるの?貶してるの?」
「褒めてるつもり……世間知らずだけど健気。そこが奈緒のいいところだと思ってる」
自然と笑みがこぼれた。何かが吹っ切れたように心が軽い。視線を外して空を見ると、柔らかな澄んだ風が私の髪を揺らした。友達と会話するなんて去年の今頃は思ってもいなかった。狭かった私の世界。遮っていた周囲の言葉。奈緒と出会わなかったらこの孤独な生活は変わらなかった。
「私は奈緒を尊敬してる。手術頑張って…待っているから」
「……え?」
「約束したから。これからも名前で呼ぶって」
「紫乃花ちゃん、意外と不器用だね。でもありがとう、頑張る。だからその時はまた……」
一旦そこで言葉をきると奈緒はあたりを見回し、口を閉ざす。その後も言葉を発する様子はない。
「何?どうしたの?」
「紫乃花ちゃん私そろそろ戻らないといけないから、このスケッチブック見てくれない?」
「え、ちょっと待っ……」
渡されたスケッチブック受け取り、踵を返す奈緒の後ろ姿を見る。最後に奈緒が何を言おうとしていたのかはわからない。ただ、奈緒には時間がないのかもしれない。スケッチブックは所々黄ばんでいて、大切に使い古されてきたことを示唆している。奈緒の孤独や生活。そして思い。根拠はないが、その全てがここに込められているように感じて徐に開いた。三十ページ近くある紙に描かれていたのは病室から見える光景。鉛筆で描かれた線図や、そこに肉付けされている風景画はどれも巧みなのに色がなく、何処か寂しげだ。ページを捲り続けるものの、殺風景な部屋の図や病院の庭が続くだけ。ふと端を見ると付箋が貼ってあった。
『もっといろんな場所にいきたい』
『いつかこの絵を友達に見せたい』
『私と同じ病室にいる子が友達と会話していた。…羨ましい』
必ずと言っていいほどメモされている奈緒の思い。握りしめたこぶしに思わず力が入る。こんなに友達と関わることを望んでる人がいるのに私は面倒だと避けてしまっていた。
「っ……」
ページを見るたびに胸が詰まる。一つ一つの絵を目に焼き付けてくと、描かれた風景画が変わった。相変わらず色はないが、建物のつくりからして旧校舎だとわかる。付箋には外出許可が出たということがメモされていて、奈緒がいたと思われる図書館が描かれていた。そこから数ページ捲っていくと絵の具で鮮やかに彩られている、吸い込まれるような風景画が紙一面に広がっていた。
『今日新校舎の子に会った。その子は友達といるのが苦手みたい。でもテスト点数高かった』
余計なことは書かなくていい。内心でつぶやいたものの、奈緒らしくて私は思わず笑みがこぼれた。じわりと心が温まっていくのを感じる。同時にこのページから色が塗られていることに気づく。わずか四ページだけだが、絵の具で塗られている絵は奈緒の希望が込められているように感じた。喜びが紙にぎっしりと綴られている。
『彼女は私の憧憬。ずっと一緒にいたい。同じペースでいつまでも歩きたい…いつか名前を呼んでほしい』
『彼女のおかげで景色が色づいた』
『……ありがとう。紫乃花ちゃん』
最後のページには今日私が来るまでに図書室から描いていたと思われる新校舎の絵があった。西日が鮮明に書かれているのもそうだが、今まで付箋に“彼女”と記されていた部分が名前になっている。
「…なんで今になって…」
なんで今になって奈緒の気持ちを知るのだろうか。声が震える。内面に隠していた自分の弱さ。弱さを見せない為に自分を繕って、何枚ものガラスで隔てていたはずなのに、呆気なく壊されていく。人は優しくされると心が脆くなるのかもしれない。霞んでいく視界。それは徐々に揺れ、崩れていく。まるで私の心のように。暖かい涙がほほを伝っていくのがわかり、私は軽く指で拭った。今は泣くべきじゃない。
「……行こう」
前に進まなければ。
スケッチブックをしまい、図書室に向かう。もう既に奈緒の姿はない。旧校舎を後にすると燐斗と鉢合わせた。燐斗はまじまじと私の顔を見る。
「紫乃花…?何か目が赤くね?」
「なんでもない」
思わず顔を背ける。一番見られたくない相手にこの状態を見られるとは予想外だ。強がったものの、燐斗はすべてお見通しなのだろう。
「なんでもないって……もしかして寺里奈緒に会ったのか?」
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