第26話 沙織の帰還1

 翌朝…。


 権兵衛の帰郷は、通常なら東海道新幹線で名古屋まで行き、私鉄に乗り換えて小牧市へというコースだ。

 この日も、前々日までは、そのつもりで準備がされていた。


 だが今回は、淫気垂れ流しの沙織が同行する。あちこちで男に襲われまくっては、大変だ。だから急遽、車でということになった。

 運転手も、もちろん女性。ボディーガードもである。

 男は権兵衛一人だけ。彼は頑張って、孫娘が放出する邪悪な淫気に耐えることとなる…。


 東名高速道路を通り、小牧インターで出て、地元の愛知県小牧市へ。

 最初の目的地は、尾張賀茂神社だ。


 この神社は、平地にある奈来早神社とは違い、山の中腹にある。表参道は百段の石段になっていて、駐車場はその下。つまり、歩いて石段を上らなければならない。

 しかし、これでは不便だし、脚の弱い人は参拝出来ない。ということで、裏道の細い車道が存在していた。車で境内の社務所横まで出られるのだ。

 祈祷や相談事の予約をしておけば、通常であれば、この車道を使用できる。権兵衛も当然、いつもはこの車道を利用する。

 ところが、あいにくのことで、道の途中に崩れそうなところが見つかり、補修完了まで通行止め…。

 こんな事情で、この日は石段下の広い駐車場に車を停め、歩いて石段を上ることになった。

 八十歳の権兵衛にはキツイ道だが、車道が通行止めでは仕方ないし、こちらが本来の参道。

 車道は四十年くらい前に作られたものであり、それまでは権兵衛もこの道を歩いて参拝していたのだ。


 沙織は何度もこの神社に来ているが、権兵衛か神社の娘の恵美と一緒に来るため、表参道から上ったことは一度も無かった。

 かなりの勾配で、沙織にも、この石段はキツイ…。権兵衛が足を踏み外して落ちないように、一歩下がって祖父を支えながら進む。


 ふと、参道脇にずっと続いて植えられている木に、沙織の目が行った。

 沙織は植物に詳しくは無いが、見覚えのある樹木。しかし、あまり他の神社では見かけない種類の木だ。

 どこで見たのか…。

 そう、慎也の家の庭だ。たしか、奈来早神社の境内奥にも、一本、この大木があった気がする。


「どうした? ああ、ザクロの木だな。この神社にはザクロの木がたくさん植えられておる。六月くらいになると、オレンジ色の花が見事だぞ。」


 沙織の視線の行き先に気付いた権兵衛が教えてくれた。

 普段なら、沙織は木になど目も止めないが、少しでも慎也と関係あると、気になって仕方ない。これは、もう、完璧な重症なのである…。


 石段を上り、鳥居を潜って、右横の手水舎で手水を使う。

 拝殿前で参拝し、その右奥の、社務所へ…。

 沙織も同席し、この神社の最高職、大物忌おおものいみに面会となった。八十七歳の老婆で、沙織の親友である恵美の、祖母だ。


 いきなりのことであったにも関わらず、沙織はしばらくこの神社に泊まり込むことになった。

 名目上は地元秘書といっても、淫気垂れ流しの危険な娘を事務所に置いておけない。

 沙織に与えられた仕事は、この神社との連絡係。それならば、ここにいた方が手っ取り早い。


 神社の方としても「神子かんこの巫女」の世話をするのに否やは無い。

 それに、この神社は女ばかりなのも都合良い。

 宮司は恵美の父親だが、自宅は別にあり、彼は祭典のある時にしか神社に来ない。

 普段は恵美の祖母である「大物忌」と、その世話をする女性職員数名のみ。

 恵美の母、真奈美が師範をしている道場が境内にあるが、そちらの方も、門弟含め全て女性ばかりだったのだ。




 さて、次に向かうは、亜希子の研究所となる。


 昨日の会談後、父からの電話での指示で、沙織は亜希子に連絡を取った。

 亜希子に権兵衛の診察をしてもらうようにとのことだったので、診察の予約をしておいたのだ。

 沙織も、祖父の顔色があまり良くないのを気にしていたが、権兵衛の医者嫌いは有名。父からは、「お前の責任で、必ず診察を受けさせるように!」と厳命されていた。

 亜希子は権兵衛にとって実の娘であり、更に孫の自分も付いている。よもや、嫌がって逃げだすことは無かろうが、ここは、少し注意が必要だ。


 そして、この研究所で、慎也や舞衣とも会えることになっていた。これは、権兵衛からの指示だった。

 権兵衛も、この孫ががれる男と敬慕してやまない女性に、じかに会ってみたかったのだ。

 しかし、直接に奈来早神社へ出向き、それが報道されたりしてしまうと、沙織の母、優子の耳に入る恐れがある。「亜希子の研究所と神社は近い」ということと、「亜希子は沙織が慎也の元に戻るのに賛成している」ということを沙織から聞き、それならば研究所でということになった。

 自他ともに認める医者嫌いの権兵衛としては、「単に診察を受けに行く」というのが嫌であったのでもあるが…。


 権兵衛と沙織は、またヒイヒイ言って石段を下る。…急な石段は上りよりも下りの方が怖いのだ。が、自分で上ったのであるから、自分で下りるのは宿命だ。仕方が無い。


 駐車場の車に乗り込み、山道を下り、市街を経て、小牧インターから名神高速道路へ。まっ平な平野部をひた走り、木曽川を越えると岐阜県となる。


 等間隔の稲の切株がひたすら続く広い田圃群。

 そして、その向こうに横たわる養老山地と、雪を冠して白く輝く伊吹山…。


 沙織にとっては楽しく濃密な五年四ケ月を過ごした、思い出深い、懐かしい風景だ。

 慎也たちとの別れの日から、四ヶ月程しか経っていない。

 しかし、この四ヶ月は、沙織にとっては長かった。あふれる涙が、ほおを伝う…。


 隣に坐る孫の光る涙を、権兵衛は何も言わずにジッと見ていた。




 研究所の駐車場に、権兵衛と沙織の乗った車が入った。

 窓からそれを確認した杏奈・環奈の知らせで、亜希子と徹、慎也以下の面々、総出で玄関まで、お出迎えだ。

 外で出迎えなかったのは、万一、報道関係者がいると拙いということで。沙織が来ると聞いて、美雪と早紀も、大学は自主休講。この場に来ていた。


 車が停車すると同時に、沙織は秘書という立場を忘れ、権兵衛を放ったらかしにして、車から飛び降りた。

 駆ける様に、真っ先に玄関の扉を開けて入ってゆく沙織。すぐさま慎也の姿を視認する。


「慎也さん!逢いたかった~!」


 涙を流しながら飛びつき、沙織は自分から慎也と唇を合わせた。


 しっかりと、しがみ付き…。舌をからませ合う、濃厚なディープキス…。

 そのまま、沙織の方から慎也を押し倒してしまいそうな勢いだ。


 少し遅れて入ってきた権兵衛は、いつもはおしとやかな孫の豹変ひょうへんぶりに口を開けて呆然ぼうぜん

 付き添っていたボディーガード(女性)も口に手を当て、目を剥いて固まってしまった。

 亜希子と徹、美雪と早紀も同様だ。


 そして、その他の慎也の妻四人は、苦笑していた…。


「お姉様、ハシタナイですヨ!」

「お爺様が驚かれてます!」


 杏奈と環奈に指摘され、ハッとして離れ、恥ずかしそうにする沙織。その沙織に、舞衣が歩み寄った。


「沙織さん。おかえり」


「ただいま。舞衣さん」


 沙織は、笑顔を向ける舞衣の胸に顔をつけ、声を上げて泣き出した。

 舞衣は涙で濡れるのも構わず、そのまま沙織の肩に手を回し、優しく抱いたのだった。

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