洞窟
丹風 雅
洞窟
子供の頃は裏山の森で姉の椎香とよく遊んでいた。田んぼしかない田舎だから、他に遊ぶ場所もなかった。山にはとても大きな木があって、その下に秘密基地をつくった。三本指の爪でえぐったような跡があったから、ツメの木って呼んでいた。最初はダンボールの基地で、雨でふにゃふにゃになった。ブルーシートを貰って被せたら、今度は水が溜まって潰れた。それで屋根の作り方を図書室で調べて、なんて二人でやっている内に、妹ができた。瑞希って名前で、泣き顔がなんとなく椎香に似ていた。
友達の兄弟喧嘩の話を聞いても、なんだか信じられなかった。ちょっとふざけて小突きあうぐらいはあっても、本気で怒ったこともないし喧嘩もしなかった。だけど一度だけ、どっちがより妹に好かれるかって話で大喧嘩をした。それで譲ったら椎香に宝物を盗られるような気がして、絶対に譲らなかった。
家を飛び出して見た裏山の森は、夕焼けの空が枝と葉っぱで隠されて、燃えているみたいだった。こうやって一人で秘密基地にいれば、椎香は心配して探しに来る。そして瑞希のことを譲ってくれるって、そう思ってた。
陽で赤いツメの木の幹が、だんだん炭みたいに黒くなっていくのが面白くって、ぐるぐると周って見ていたら、近くで岩を積み上げてつくった基地を見つけた。僕たちのものじゃない。入り口は立ったままでも入れるぐらい大きくて、苔とか木の根っこが生えるぐらい古かった。中に入ろうとしたら、何かが背中からぶつかってきた。細い腕がまわって、強く抱きしめられた。頭の上で椎香の泣きじゃくる声と涙が降ってきて、なんだか負けた気分がした。
それからツメの木の基地には近づかなくなった。行こうとすると椎香が露骨に嫌がったり話を逸らしたりするから、僕もだんだん話を出さなくなって、忘れていった。
瑞希は中学校に入って、椎香は大学生で、僕は浪人だった。本当は同じ大学に行くつもりだった。家から通えるのはそこしかなかったし、一人暮らしができるような自信もなかった。二度目はないと思って、ずっと籠もって勉強ばかりしていた。どうせ外に出ても何もないし、勉強の間は余計なことを考えずに済んだから、それでいいと思った。
その日はリビングで、僕と椎香で並んでテレビを見ていた。大学生活のリアルみたいな内容で、なんだか気まずくなってリモコンに手を伸ばしたら、隣の椎香と目があった。
「優人は無理してウチに来なくてもいいんだよ。そんなに根詰めて勉強ばっかで、見てて心配になるよ」
優しい拒絶だった。違えた道がはっきりと見えた気がして、それを認めたくなくて、色々と言った。何を言ったか覚えていないけど、たぶんひどい言葉だ。何も言い返さずに困った顔をする椎香を見ているのも、そんな顔をさせた自分の弱さも、もっと頭が良ければなんて無力感も、全部が嫌になって家を飛び出した。
でもすぐに腕を掴まれた。僕は肩で息をしているのに、椎香はなんてことはない風だった。掴まれた腕が痛くて、それが安心した。だから最後にもう一度だけ誘ってみた。
「ツメの木、見に行こうよ」
夕焼けの空と黒く焦げたような雲の影が、あのときと同じだった。秘密基地への道は身体が覚えている。もうダンボールもブルーシートも残っていないけど、木の爪痕みたいな傷が間違いなくここだって言っていた。あそこのウロにはまって出られなくなったっけ、とか。ここの出っ張った根っこでつまづいて付いた傷跡、今も残ってるよ、とか。昔話をしているうちに、本当に子供に戻った気分で、色々と思い出してきた。
あの石の基地はまだあるかなと思って幹をぐるぐる、半周もしない内に見つけた。今見てみると洞窟の入り口にも見える。ちょっと中を覗いてみようとして、右腕をぐいぐいと引っ張られた。
「ねえねえ、ホタルだよ!」
そんな訳がない。この辺では一度も見たことがないし、だいたい季節じゃない。だけど椎香が指差した方には、確かにホタルみたいな淡い光が宙を舞っていた。とても弱々しくて、すぐに消えてしまった。タンポポの綿毛が光ったらこんな感じだろうかと思った。光は風にのって流れてくるみたいに、洞窟の中からまばらに出ていた。それが虫なのか胞子なのかはわからないけど、奥に行けばもっと綺麗なものが見られると直感して、椎香を引っ張って入った。
外見からは想像もつかないぐらい広くて、どんどん下へ続いている。岩の床や壁や天井に、コケが淡く光っていた。小さなホタルが沢山くっついているみたいだ。宙の光は奥の奥、光るコケが道案内でもしているみたいだった。進めば進むほど、壁は遠く、天井は高く、空間は広くなっていく。足元の光が一本道になっていて、迷ったり踏み外したりする心配はなかった。奥から出てくる光はどんどん数を増して、明るくなっていく。椎香がそれを手で扇いで動かしたり、掴んでやろうと子供みたいに跳ね回る姿が、ツメの木の基地で遊んでいた頃の椎香と一緒だった。
一番強い光が、歩いてきた入り口の方から来た。振り返ったら、懐中電灯を持った誰かが、僕らを照らしている。眩しすぎて直視できない。
「お兄ちゃん!」
瑞希の声だった。駆ける足音が近くなって、僕にぶつかった。胸にしがみつくようにして、思いっきり泣いている。その頭を撫でてやっている内に、だんだん目が慣れてきた。さっきまで視界中にあった淡い光はなくなって、懐中電灯だけが闇の洞窟を照らしている。地面にも壁にも、どこにも光るコケは生えていない。
僕が進んでいた道の奥は、崖だった。
電燈の光も、瑞希の泣き声も、まったく奥まで届かないような黒が足元に広がっていた。色も音も感情も何一つないような、ただ広がる闇が死そのもので、冷や汗で背中が湿っていく。あと数歩だった。
椎香はどこにもいなくなった。
瑞希に手を引かれて洞窟を出ると、すっかり夜の暗さだった。それから家まで帰った道も、どこまでが夢でどこまでが現実なのか、わからなくなった。魂が抜けたみたいとか、妖怪に生気を吸い取られたとか、そんな風に言われた。父さんも母さんも瑞希も、誰も椎香の話をしなかった。
あまりにひどくていけないと、今はカウンセリングを受けている。時間が経ってわかってきたけど、誰も椎香のことを忘れているわけではなかった。彼女の私物も、戸籍も、記憶も、何もかも最初からこの世界には存在しなかった。だからそれを覚えている僕は異常で、そんな夢から覚めて普通になっていくのだと。椎香のほかは何も変わっていない世界で、僕は一人ぼっちだった。
もう一度あの洞窟へ行けば、彼女に会えるだろうか。
洞窟 丹風 雅 @tomosige
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