取引19 執事フォールダウン



「ここで、一体何を? 講義は、どうなさったのですかな?」


 穏やかで丁寧でいて、だからこそ一筋の隙もない口調でジョエルが問う。その場のただならぬ雰囲気に、視界の隅っこでは、バイトの店員がバックヤードに引っ込んだのが見えた。


「ジョエル……ええと、これは、違います……!」


 先ほどとは打って変わり、ミアが真っ青になって弁明しようとする。が、本人にとっても予想外の出来事だったのだろう。上手く説明することができないようだった。そのことを見透かすように、


「何が違うのですかな? ……事実、ミア様は今、講義をおサボりになられているではありませんか」

「……ッ……それは」

「ミア様ともあろうお方が、このような子どもじみた真似をするなどと。このことが知れたら、きっと多くの方々が、失望なさることでございましょう」


 ミアが黙り込む。その表情は、困惑のようにも、不安なようにも、怒っているようにも見えた。


「ですが、わたくしめとて鬼ではございませぬ。今すぐ戻るのなら、今回に限っては目を瞑る所存でございます」

「…………」

「わたくしめのことも、……失望させないで頂きたいものですが。それとも繰り返しますか? かつてのように……」


 ミアが顔を上げる。そこには米太が今まで見てきた表情はどこにもなく、暗く自らに言い聞かせるような作り笑顔だけがあった。


「……申し訳ありません。……戻ります」


 米太を振り返ることもなく、足早にミアが去っていく。突然すぎる状況の変化について行けず、ただ茫然と立ち尽くすことしか米太にはできない。長身のジョエルが近寄ってきて、米太を見下ろす形になり、


「……花野井様、でしたかな? 講義でお忙しいところ誠に勝手ながら、ご同行をお願いできませぬかな?」




 老人ながら、一切の迷いも乱れもない歩調で進むジョエルの後に続く。深く刻まれたしわが作る笑顔は、きっと笑っていない。厚生棟を出て、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた、管理棟へと足を進める。しかし、ジョエルが入口の警備員に何かを言うと、何の抵抗もなく管理棟への入館を許された。しばらく進むと、自動販売機と椅子が設置された場所が見えてきて、


「ここでよいでしょう。この棟なら、誰かに話を聞かれる心配はござりませぬ」

「……」

「……先日はご足労頂き、誠にありがとうございました。できれば違う形で再会しとうございましたが……、これもまた、若さゆえ。それもよいでしょう。老いぼれには、それだけで羨ましいことにございます。……が」


 ジョエルが笑みを崩さないまま、ゆっくりと、はっきりと告げる。


「……担当直入に申し上げますと、これで最後にして頂きたい。いくら若いとはいえ、旦那様ももう大学生、大人にございます。わたくしめの言っている意味がおわかりですかな?」

「…………ああ」


 聞かなくても、わかる。ミアに会うなと言われているのだ。そもそも家と大学以外での生活を、監視しているような家系だ。今までもこうして何度も、ミアの交友関係を制限してきたのだろう。


「……何も聞かずに、去れと、そういうことだろ?」

「これはこれは。察しがよくて大変助かりますな。……しかし、誤解しないで頂きたい。何も説明せずに、全てのことを納得しろなどと、理不尽なことは申すつもりは毛頭ありませぬ。お望みなら、事情を説明することも可能にございます。……ただ」


 低くて重厚な声が、外国人離れした綺麗な日本語で続ける。


「もしも、何も聞かずに関わりを断って頂けるなら、……心ばかりのお礼を差し上げる用意があります」

「……!」


 思わず顔を上げると、ジョエルが一層快活に作り笑顔を見せる。


「何も知らずにお礼を受け取るか、説明を受けて納得していただくか、……どちらをお選びになられますか?」

「…………ッ」


 まるで、殴られたような気分だった。いや、現実に今目の前には、自分のことを金という暴力で殴ろうとしている相手がいる。心臓がバクバクと音を立てて鳴った。

 不思議なほどに、自分がショックを受けていることに気付く。『お前は金の亡者だから、簡単にあの娘を売る』と言われた気がして、実際に普段の自分なら揺らぎかねない気がして、無性に悲しくなった。今朝見た夢でのミアの言葉が何度も頭で蘇り、


「……いらない」

「いやはや?」

「……お金なんて要らない。……俺はただ、もっと知りたかっただけなんだ。ミアという一人の人間のことを……」

「……よろしいですか? 後悔なさりませぬか?」


 紡ぎ出すような米太の言葉を遮り、ジョエルの非情なまでに端的な質問が返される。米太はもう一度呼吸を整えてから、


「……ああ」


「…………」


 ジョエルの雰囲気が、少し変わった。作り笑顔が消え、真顔になる。その瞳は一切の温かみも温もりもなく、視線はこの上なく乾いているように見えた。


「……ここから話すことは、当然口外無用にござります。もしも不用意に漏らした場合、それなりの対応をさせていただきますので、悪しからず」

「わかっている。それより、もったいぶらずに、早く教えてくれ」

「……おやおや、お若いこと。そう焦ることも、ありますまい?」


 ジョエルの口調は笑っているが、顔は笑顔ではなかった。乾いた視線のまま真っすぐに米太を見据え、


「ミア様もといローラ様の姉妹は、ただの留学生ではござりませぬ。それだけでなく、確かにフランス語圏ではありますが、正確には、フランス人でもありませぬ」


「……は?」


 ミアという人間の前提が、ジョエルの言葉によって根底から覆される。米太の一切の心情を無視するかのごとく、再び作り笑いを浮かべた老執事が、無常に、無慈悲に真実を告げる。



「――お二人の正体は、フランスの隣国、エレセリ公国こうこく公女こうじょ様にございます」







『エレセリ公国』


 エンターキーを押すと、山のように文字が表示される。


『プランシポテ・ドゥ・エレセリ』

『フランス、地中海に接する西ヨーロッパの主権都市国家、ミニ国家』

『世界で三番目に国土面積が狭く、二番目に人口密度が高い』

『温暖な気候を利用した観光であり、カジノを有する富裕層の保養地として知られ、タックスヘイブンとしても有名。通貨はユーロ』

『軍隊を有しているが、フランスと軍事同盟を結んでいる』

『カピタリ家による立憲君主制であり、政府の長は国務大臣である』

『現在の君主はアレクサンデル公。公位継承権こういけいしょうけん第二位、フローラ・ビアンカ・クラウディア、一位は、……ミリアム・シャルロット・ルヴェ……』


 クリックする手が止まる。誰もいないパソコン室で、米太が打ちのめされる。


(……公女様って、……いや……)


『公国 意味 』


 カチッ。


『……公国の「公」は貴族を意味し、貴族が君主として治める国』


『公国のロイヤルファミリーを公家と呼び、君主の家族を公妃、公世子、公女などと……』


「ロイヤル……ファミリー……?」


 目の前が真っ暗になった。セレブとか、財閥とか、そういう次元じゃなかった。金銭感覚が違って当然だ。何せ、ミアは一国のお姫様だったのだから。『国民に合わせる顔がない』という言葉は過度な愛国心でも何でもなく、実際に国民に対する責任を持った人間の言葉だったのだ。


『……なに、ほうき星でも見たと思って、お見送りくださりませ。後を追わず、よい思い出のままに……』


 別れ際のジョエルの言葉が頭を反芻はんすうする。ほうき星よりもずっと確率が少ないだろ、と冷静に考えつく自分の思考回路が憎い。何かをどうにかできると一瞬でも思った米太の希望は、見る影もなく打ち砕かれた。ぼんやりと何も考えられないでいると、バイトの時間を知らせるアラームが鳴った。


「……バイト、行かなきゃ」




◇◇◇◇◇◇




 自宅アパートの扉の前で、米太は葛藤する。今朝ここを出た時には、もっと違った気持ちでいれたのに。それが今となっては大分心もとない。こんな心境で、蛍の話をちゃんと聞いてあげられるのだろうか。


「……ただい、…………?」


 覚悟を決めて帰宅すると、何か様子がおかしい。いつもあるはずの蛍の出迎えはなく、玄関が汚れている。まるで、誰かが土足で上がり込んだみたいだった。慌てて部屋の中を確認すると、


「………!」


 居間は泥棒が入ったかのように乱れていた。事実、そこにあるはずのテレビや電子レンジなどの家電が根こそぎ無くなっている。背中に悪寒が走り、一心不乱で蛍の部屋の襖をあけると、電気もつけない真っ暗な部屋の中で、蛍がうずくまっている。頭の中がショートしたような感覚に苛まれ、強引に肩をゆさぶり、


「――蛍ッ! 大丈夫か蛍、おい!?」

「……にい、さん?」


 顔を上げた瞬間、蛍の目が涙で赤く腫れているのが見えた。


「大……丈夫、ウチは、何も。……で、もっ」


 言いながら蛍からは、堰を切ったように涙が溢れ出し、


「……取られ、ちゃったっ、……んぶ、……うぐッ、ぜんぶ……うぅ」

「何があった!? 強盗かッ!?」


 尋常じゃない様子の蛍に、米太は大声になる。蛍は泣きながら首を横に振って、


「お父さ、んの、ヤミ……ぇぐ、借金、また……、そ……それで」


「………………」


 自分の中の何かが、切れる音がした。全身の力が抜けていく。


(……ああ。まただ。またこうやって、前振りもなく突き落とされる。何もかも、今までの努力も全部、無駄になるんだ……)


「にいさん、ウチ……、ウチ…う、ああぁあ……」


 目の前では、酷い顔をした蛍が泣いている。朝、あれだけ勇気を振り絞り、自分の進路について話してくれようとしていた最愛の妹、米太の唯一の家族が泣いている。……マイクもパソコンも、声優を目指すための希望も、全て失って。


「……ッ」


 耐えきれず、蛍を力いっぱい抱きしめた。それに呼応して蛍もしゃくりあげる。


(全部、親父の借金のせいだ。……お金さえあれば、もう、蛍を泣かせなくて澄む)



「……大丈夫だ、蛍、兄ちゃんがなんとかしてやる」

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