#1『あなたは何もわかってない』

 5年目となる会社の新入社員歓迎会で柄にもなくお酒を飲みすぎた。


 身体よりも先に頭で「あぁ、吐くな」と理解するや否やトイレに駆け込み、吐瀉物を吐き出す。


 学生の頃であれば、一度吐いてしまえばリセットされた具合も一向に良くならない。


 歳はとりたくないなと不意に思う。


 それでも幾分かマシになったためトイレを後にしたが、酩酊は未だ覚めなかった。


 会席に戻ると先輩上司から「外の空気吸ってこい」と諭された。


 おぼつかない思考で「はい」と答える。


 千鳥足で店外へ向かうその姿は新入社員にはひどく情けなく見えただろう。


 外へ出るとみっともない迷惑行為と分かっていながらも店前で座り込んでしまう。


 道行く人の好奇な視線を浴びながらうなだれる。


 体感で5分ほど経った時、首筋にひんやりした感触が伝わってきた。


 びっくりして感触を目で追うとそれはペットボトルのミネラルウォーターだった。


「ありがとうございます」と言ってそれを受け取ると、無礼にも介抱しに来た相手の顔を見る前に水を口に含み嚥下する。


「本当はあんまりお酒強くないくせに飲み過ぎよ」


 その声に今まで覚めなかった酔いが急に引いていくのを感じた。


 それと同時に嫌悪感が湧いてくる。


「久しぶりサダハル」


「…何しにきたんだよ」


 仮にも介抱しにきた相手に言う台詞ではなかった。


「そんなに露骨に嫌がらないでよ。傷つくわ」


 弱々しく、けれどどこか余裕そうに相手は答える。


「嫌がられるようなことをしたのはどこのどいつだよ」


「私あなたに嫌われたいなんて思ったこと一度もないわよ」


 悪びれた様子もなかった。


「だったらなおさらタチが悪いよ。別れた時に言わなかったか?金輪際関わらないでくれって」


 そう、介抱しにきた相手はよりにもよって二度と関わりたくないと思っていた元カノのタチバナ ユハルだった。


 そもそもこんな非常識になるまで飲んだ間接的な原因はこいつのせいだった。


 最初は新入社員も交えて気分良く飲んでいた。


 お酒の席というのもあり、少しずつ打ち解けてきたところで先輩上司がふと話題を変えたのがきっかけだった。


「見てみろよあそこの経営企画部のシマ。あそこに1人めっちゃ綺麗な娘いるでしょ。タチバナさんて言うんだけど本当仕事できるし美人なんだよなぁ〜。おっ、今サラダ取り分けてる」


 自分たちのシマは男しかいなかったのもあり、下世話な会話に花が咲く。


「いやぁますます綺麗になって、やっぱ最近彼氏できたっぽいんだよなぁ。あとこれは内緒にして欲しいだけど、近々精進するらしいよ」


 酔いが回ってきたのかどんどんと口が軽くなる。


 それを聞いて愛想笑いをするが胸の内に溜まるは不快感。


 タチバナ ユハルという女はそれほど話も聞きたくない相手だった。


 回想改め、ユハルを見ると今は美人という言葉には相応しい顔立ちをしてるかもしれないが、どちらかというとそれは化粧や立ち振る舞いから来るものだと元カレだからこそ知っている。


 確かに別れた時より綺麗になったような気もするが、決してそれは未練を覚えるようなものではなかった


「これでも私結構反省したのよ。あなたとヨリを戻したくて」


 耳を疑うような台詞が聞こえる。


 思わず冗談だろ?と言いたくなる。


「俺はヨリを戻したくない」


 ここははっきり意思を示すべきだと、これも元カレだった経験が警鐘を鳴らす。


「てか今彼氏いるんだろ?良いのかよ元カレの介抱なんてしてよ」


 嫌味ったらしく元カレの部分を強調する。


「…それ、誰から聞いたの?」


 瞬間、ユハルの纏っていた余裕が嘘のように消え去る。


 鳥肌が立つ。


「噂だよ。お前くらい器量が良くて美人なやつならいくらでも聞くよ」


「嬉しいこと言ってくれるじゃない」


 これでもかと嫌味ったらしく言ったのに、こちらの皮肉の意図は通じなかったようだ。


 一瞬凍った空気も元通り。


「…兎に角、元カレの介抱してるなんてバレたら大変だろう」


 口八丁に厄介払いを試みる。


「あなた、なんにも分かってないのね」


「は?」


 見上げてみるとユハルは心底呆れたような顔をしていた。


「兎に角、そんな状態でほっとけるわけないじゃない。家まで送っていってあげる」


「いやいい。お前の厚意なんて受け取らない」


「意地張らないで。それにもうタクシー呼んであるもの」


「…手際がいいな」


「えぇ。私器量良いらしいから」


 前言撤回。皮肉は通じてたみたいだ。


 ほどなくしてタクシーが目の前の路肩に着く。


「ほら乗って」


 ユハルは言う。


「待てよ…、まだ先輩に挨拶してないし、そもそも帰るなんて一言も…」


「それも大丈夫。私からちゃんと伝えてあるわ」


「んだよ、それ…」


「ほら乗った乗った」


 ユハルは座り込んだ俺を引き上げて、タクシーの後部座席へと押し込む。


「これで恩を売ったつもりになるなよ。それに昔のこともチャラにはならないからな」


 ここまでされてもなおユハルには気を許してはならない


 アルコールが回った脳に警鐘がガンガンと頭痛と共に鳴り響く。


「…そんなに私のこと嫌いなの?」


 ユハルは蚊の鳴くような声で呟いた。


 一瞬心が揺らぐが、気を引き締め直す。


「ああ嫌いだね。もう一度言うけど二度と俺に関わるなよ」


「…そう。分かった」


 こちらの要求をあっさりと受け入れられたと思い、拍子抜けする。


 さすがに強く言い過ぎたかなと反省し始める。


「ほら、詰めて。私が座れないじゃない」


「は、はぁ!?」


 反省したのも束の間、この女は無理矢理後部座席に体を捻じ込んでいく。


「お、おい!人の…」


『人の話を聞いてたか』と声を荒げようとした瞬間、バックミラー越しにタクシーの運転手と目が合う。


 彼に今俺たちがどう写ってるのか分からないが、ひどく冷めた視線だった。


「言ったでしょう。送ってくって」


 ユハルは耳元で静かに囁く。


 ふざけんな出てけよ、そう言いたかったが運転手のあの冷めた目が忘れられない。


『さっさと行き先を言え』


 そう言われてるような気がしたのだ。


「ほら、家の場所言って」


 ユハルも催促してくるのも腹が立つ。


 けれどこれ以上みっともない酔っ払いになるわけにもいかず


「××駅までお願いします」


 住所ではなく最寄駅を言ったのは、せめてユハルには住処を知られないためだ。


 駅に着いたら「送ってありがとう。気をつけて帰れ」が出来て一石二鳥。


 酔った頭にしては機転が効いてるなと自画自賛する。


「はい」


 運転手は冷めた声で返事をした。


 気まずい空気と具合の悪さで目を閉じる。


 このまま狸寝入りするのも良いだろう。


「あなたの隣、久しぶり」


 静かな車内でユハルが呟く。


 しっとりとした言霊が逃げ場のない車内を漂う。


「お前、今の彼氏にもおんなじことしてんの?」


 無視しようとしたが、雰囲気に飲まれてしまい疑問を口にした。


「同じって?」


 しかし質問の意味をまるで理解していないようだった。


 その様子にふつふつと怒りを覚え、忘れてた思いが恐怖が少しずつ蘇ってくる。


「俺の時みたいに、束縛したり暴力をふるったりしてんのかってことだよ!」


 過去のトラウマを勢いに任せて言ってしまった。


「…あ、ぁあ〜。そのこと。するわけないじゃない」


 確かにこの瞬間、ユハルの顔が歪んだ。


「…っ。ああそうかよ。まぁどっちだろうと俺には関係なかったな。仮にお前が変わってなかったら彼氏が気の毒だなけで俺には関係ない」


「言ったじゃない。反省してるって」


「…どうだか」


 もう話すことなんてない。今度こそ寝てしまおうと本気で目を瞑る。


 そもそもこいつの本性を最初からわかってれば付き合いなんてしなかったのに。


 いや出逢ったことすら間違いなら、俺の過ちは5年前の入社式に遡る。


 同じ会社の同期として入ったユハルは、同期の女子の中ではそこそこ可愛い部類だった。


 とはいえまだ不慣れなメイクや控えめ髪色髪型、似合わないリクルートスーツを見に纏っていて、今とは別人と言っても差し支えなかった。


 大学2年の時に彼女と別れたきり女子と縁がなかった俺はつい、入社式後の新入社員歓迎会で酒の勢い任せて距離を縮めにいった。


 とはいえ不慣れな距離の詰め方でどこかぎこちないものになってしまっていた。


 そんな俺をユハルは面白おかしく笑っていた。


 自分のイメージとは異なる形になったがユハルと距離を縮めることには結果的に成功した。


 そこからユハルと一緒に長い研修を過ごす日々が続いた。


 昼飯はいつも一緒に食べていたし、帰りも途中まで同じだったから他愛もない話をしたりもした。


 ただそこから自分の気持ちに少し変化があった。


 ユハルとの関係に居心地の良さを感じ始めていたのだ。


 それを失いたくないからそれ以上進めない。


 社会人にもなって中学生みたいな恋愛観に縛られる。


 ただ刻一刻と研修の日々が過ぎ去っていった。


 研修期間も永遠には続かない。


 ユハルは経営企画部、俺はシステム管理部という部に配属することとなり、お互い別々の道を歩むことが決定した。


 すでにユハルとは連絡先を交換してたし会えなくなるわけではないが、毎日顔合わすことはなくなるのだと悟った。


 各々の配属が決まった最終日、それまで一度もなかった夕食の誘いをユハルからしてきた。


 俺は二つ返事で了承した。


 店は学生の頃なら訪れなかったような重厚な雰囲気なレストランだった。


 ユハルはいつもと変わらない様子で俺との食事や会話を進めて行った。


 2人きりの食事は何度もあった。ただいつもと違うのは、酒があったということ。


 慣れない雰囲気に負けてしまい、味も分からないワインをひたすら流し込んだ。


 それはもう酔っ払った、右も左も分からないほどに。


 雰囲気も相まって、理性を失った口はユハルへの想いを勝手に吐露した。


 そこから先はあまり覚えてない。


 次に覚えてる出来事は見知らぬベットで裸に寝ている俺とユハル、そして二日酔いだった。


 理解できない状況に混乱していると俺に続いてユハルが目を覚ました。


「おはよう、サダハル」


 ぎこちない俺への呼び名。


 そこで俺は全てを理解したのだ。


 酔った勢いなんて、架空の御伽噺か何かだと思っていたのにまさか自分がそんなクズに成り下がるとは思わなかった。


「す、すまん!タチバナ!」


 取り返しのつかないことをしたと思いすぐに謝る。


「ど、どうしたの?」


「謝って許されることじゃないんだけど、ほんとおれっ、どうかしてたっ」


「もしかして…覚えてない?」


 ユハルは悲しそうな表情を浮かべる。


「…最低だよな」


 これ以上ユハルの顔を見ることができず俯く。


「タチバナ、その…ごめんなさい。俺に出来ることならなんでもするからさ、許して

欲しい」


「嫌」


 心のどこかでユハルなら許してくると甘ったれた考えが否定される。


「無かったことになんて、しない。責任とってもらうからね、サダハル」


 今更ユハルの気持ちが分からないと言うほど鈍い男じゃない。


 けれどこんな始まり方はしたくなかった。


「分かった。ちゃんと大切にする」


 こうして罪悪感と共にユハルと新たな関係に踏み出した


 ユハルと付き合い始めて一月が経った。


 付き合う前は対等のような関係だったが、始まり方が最低だったためどこか俺が下でユハルが上のような関係が続いていた。


 1ヶ月記念ということでユハルと夕食を共にする約束をしていたが、そういう日に限ってトラブルが発生し残業を余儀なくされた。


 仕事中鳴り止まないコール音。


 周りからも奇異な目で見られはじめたので慌てて電源を切った。


 結局、残業から解放されたのは予約の時間をとうに過ぎた頃だった。


 電源を付け直すとすかさずコール音が鳴る。


 生唾を飲み、意を決して電話に出る。


「もしもし」


「…やっと出た」


「ごめんユハル!本当にごめん!急な仕事が入って」


「嘘。新人に仕事押し付けるわけないでしょ?」


「え!?いや嘘じゃなくて本当なんだ!トラブル起きてその手伝いで」


「言い訳なら後で聞くから。今どこにいるの?」


「…××支社でたところ」


「そこで待ってて。迎えに行くから」


ツーツー


「はぁ…」


 なぜ記念日でこんな憂鬱な気分にならなければならないんだと八つ当たりしたい衝動に駆られる。


 電話が切られてから30分後、いつも以上に着飾ったユハルが現れた。


 その姿にますます気分が重くなる。


「ユハル…ごめん」


「ううん。仕事だったんだよね。私こそ責めてごめんなさい」


 てっきり怒っていると思っていたからこの赦しの言葉は青天の霹靂だった。


「遅くなっちゃったしファミレスでいい?」


「俺はいいけどユハルもいいの?」


「ええ。サダハルと一緒ならどこでもいいわ」


 遅い時間ということもあり、すこし疎なファミレス。


 一応、数あるファミレスの中でもなるべくフォーマルな店を選んだつもりだった。


 ユハルはパスタ、俺はステーキを頼んだ。


 ユハルは本当に怒ってないのか、普段通りの会話が進んでいく。


 それがかえって不気味だった。


「ところでサダハル」


「ん?」


「私たち付き合って1ヶ月じゃない?」


「そうだな」


「だけど今日約束の時間にサダハルが来なくて、電話も通じなくて。凄いイライラしたの」


 食指が止まる。


「だから電話に出たときサダハルを責めるようなこと言っちゃったけど、言ってから後悔したの」


「後…悔?」


「うん。確かにイライラしてたけど私サダハルに対してイライラしてたわけじゃないんだって後から気づいたの」


 ユハルはクルクルとフォークでパスタを絡めていく。


「それってどういう…」


 ユハルの心中が読めずにいた。


 ユハルは勿体ぶらずすぐに答えた。


「なんで彼女である私がサダハルと会える時間がこんなにも短くて、サダハルと同じ職場のどうでもいい奴らのほうがサダハルと一緒にいる時間が長いのかなって」


「それは…」


 仕方のないことでないか?と当然に考えてしまう。


「サダハル。私、何でもかんでもサダハルの1番じゃないと許せないみたい。サダハルと1番長く一緒にいたいし、サダハルに1番愛されたいし、サダハルを1番愛したい」


 このセリフも後から思えば、ユハルの異常性に気づくきっかけになり得たはずなのに。


 この時の俺は少し可愛い嫉妬だなと思ってしまった。


「だから、ね?私たち同棲しない?」


 思いもよらない提案だった。


「俺たちまだ1ヶ月だよ?ちょっと早くない?」


「早くなんてない」


 その時初めてユハルから感情が漏れたような声がした。


「それにこれはお願いじゃないから」


 これ以上反論できなかった。


 記念日をすっぽかした償いとして受け入れた同棲。


 お互いに契約が残っている賃貸を解約し新しい2LDKを借りた。


 部屋のレイアウトを嬉しそうに考えるユハルとは裏腹に、俺はいきなり始まった他人との生活に不安しか感じなかった。


 今思えばそこが最大の転換点だった。


 同棲生活が始まるとユハルの愛情がどんどんと強く深く、そして暗くなっていった。


 一緒に夜中ベッドで寝てる時、不意に尿意を感じてトイレに行き用を足し、そのまま扉を開けると暗い廊下に無言でユハルが立っていた。


「ひっ」


 言葉にならない悲鳴をあげる。起こさないように静かに出てきたというのに。


「も、もしかしてユハルもトイレ?」


 そう思い尋ねる。


「ううん。あなたの温もりを感じなくなって目が覚めたの。サダハルがこのままいなくなっちゃったらどうしようって思ったら過呼吸になって、吐き気も出てきて。だからとりあえずトイレに駆け込もうとしたらサダハルがいるが分かったから安心したの。そしたらなんともなくなったわ」


 はっきり言って不気味だった。


 基本的に家にいる時はずっとくっついてきて、1人でいられる時間がトイレしか存在しないし、トイレから出るたびに目の前でユハルが待ち構えている。


 そんな生活に少しずつストレスが蓄積していった。


 そんな鬱憤が溜まってか、つい同期の目の前で「彼女と距離を置きたい」とぼやいてしまった。


 それを聞いた同期は明らかに間違った気の使い方で、俺を無理やりガールズバーなるところに連れてかれた。


 同期曰く「たまには彼女以外の女の子にも触れてみろ」と。


 そこで俺は愚痴を言うだけの悪客と成り下がった。


 家ではいつも付き纏われて落ち着かないこと、それと最近ユハルは垢抜けてきた上に仕事も評価されているみたいで、仕事に対して向上心のない自分と比べてしまい負い目を感じていること。


 酒を飲んでは愚痴を吐き出すまさに悪客。


 ただただ一方的に話を聞いてくれた女の子たちには感謝しつつ、酔いもほどほどのところで切り上げた。


 シラフでは言えない「距離を置こう」の一言を胸にいざ帰宅すると、そこには無言で腕組みしながら玄関に立つユハルの姿があった。


「どこいってたの?」


 その一言で出鼻を挫かれた。


「ガ、ガールズバーだよ」


 やましい気持ちがなかったとはいえ、素直に答えることはできず詰まってしまった。


「ガールズ…バー?」


 ユハルは虚をつかれたような顔になった後、瞳孔がみるみるのうちに広がり光を失った。


ドンッ!


 身の危険を感じるよりも早く、息が止まり後頭部と背中に衝撃が走った。


「がッ…!」


「ごめんねサダハル。なんて言ったか分からないの。…もう一度言って」


 酷く暗く低い声で複唱を強要されるが、それはかなわない。


 それは女性とは思えないほどの握力と膂力で、喉と右手首を握り絞められ、壁に押し付けられてるからだった。


 当時は状況すら理解できなかった。


「あッ…グゥ…ぅっ」


「いや言わなくてもいいや。聞きたくもない。あーうん、分かってるの。サダハルがなんていったかなんて」


「頭では分かってるつもり。でも本当の意味を理解しようとすると感情がどうしようもなくなるの」


 ユハルは冷静に、淡々と呟く。


 けれど喉を締め付ける手の力は増すばかり。


「誓って。二度と私以外の女と話さないって」


 無理な誓いにも程があった。


 生きていく中で異性と全く話さないなんて、現代社会においてはほぼ無理だ。仕事上だって話さなければならない時もある。


 けれど死をも予感する場面では、必死に首を縦に振るしかなかった。


 その日からユハルの徹底的な束縛が始まった。


 必ず1日の予定をユハルに伝え、予定外の場所に行けば逐一連絡が来る。


 それと半ば強制的に盗聴器もつけられ、少しでも女性と話そうものなら"お仕置き"が待っていた。


 心も体も休まらないどころか、日に日に摩耗していった。


 もう我慢の限界だった。


「別れよう」


 人生で最も勇気を持って言った一言。












ーーーーーーー慟哭が響いた













「起きなさい。着いたわよ」


 夢を見ていたようだ。


 昔の自分。


 昔の彼女。


 思い出すだけでも息苦しくなる彼女とやり直す気なんて一切起きない。


「支払いも済ませたから降りて」


「やめろよ。お前に借りを作りたくない。俺が払う」


「馬鹿なこと言わないの。もう払ったって言ってるでしょ?」


 左側のドアから一足先に降りたユハルがグルリとタクシーを回り込み、こちらの右側のドアを開ける。


「強情が過ぎるわよ。ほら捕まって」


 今一度バックミラーを覗けば、心底鬱陶しそうな運転手の表情が写っている。


 それを見たら自然と身体がユハルに引っ張られていた。


 そのままユハルは俺の腕を肩に回し、俺を支えるように腰に手を添える。


 ゆっくりとタクシーから離れるように歩き出す。


 背後でタクシーのドアがパタリと冷たく閉まった音がした。


「もういいよ、ここで。送ってくれてありがとうな」


 無理矢理別れを言う。


 けどユハルは離そうとしない。


「こんなフラついてる人放っておけるわけないでしょ。ほらいくわよ」


 別れた頃の彼女と乖離感を感じる。


 もうどうにでもなれと抵抗する気も失い、黙って歩き始める。


 夜道のアスファルトに不規則な足音を鳴らしていく。


「お前変わったな」


 これも酔ったせいだろう。思ったことが口から溢れてしまった。


「…どこら辺が?」


「大人っぽくなった」


「そ。そう言うあなたは子供っぽくなったんじゃない?」


「…うるせえ」


 色褪せた会話に花が咲く。


「サダハル。ごめんね」


「…なにが?」


「昔のこと」


「あっそ」


「まだ怒ってる?」


「"まだ"…じゃない。"ずっと"…だ」


「厳しいなぁ。本当に反省したのに」


「どうだか」


「…私たちやり直せない?」


「ない。あり得ない。0%。諦めて今カレ大事にしろ」


「私が本当に好きなのはサダハルだけだよ?」


「お前のソレは"好き"っていう感情じゃないんだよ」


「そんなことない」


「自覚ないんだな」


 理性が効かないまま思いを口走る。


 まるでガキだ。


 自分が嫌になる。


 嫌悪感が影を刺すと同時に何か違和感を感じる。


 なんだこの違和感は


「悲しいけど、サダハルの気持ちはよく分かった」


「分かってくれて助かるよ」


 そこから一切の会話がなくなる。


 ただただ2人の足音が夜の住宅街に溶け込んでいく。


 けれど喉につかえたような不快感を覚える違和感だけが、夜の街に溶けていかない。


 不覚にも現住所のマンションの前までついてしまった。


「もういい、もういい。ここがウチだから」


 強引にユハルを振り解こうとするが、女性とは思えない力で振り解くことができない。


「ダメよ。ちゃんとウチまで送っていくわ。まだフラフラしてるじゃない。ね?」


 忘れていた恐怖が蘇る。


 決してこちらを苦しめてくる力はかけてこないが、振り解こうとすれば、絶対と許さないと言わんばかり力が入る。


「分かった」


 あくまでこいつは家に送るを一貫している。


 家の中まではついてこないだろう。


 もし強引に入ってくるようであれば最悪警察の世話になろう。


 恐る恐る鍵を取り出し、オートロックに差し込む。


 共用玄関の扉が開く。


 違和感に加え、不安が心にのしかかる。


 毎日乗っているエレベーターでさえ、躊躇ってしまう。


 けれどユハルの何かに抗えず『3階』のボタンを押す。


 3階についてすぐ右手、『301号室』が自宅。


 苦痛な時間もここまでだ。


 鍵を取り出し、さっさとユハルから逃げようとする。


 …けどユハルは離さない。


「おい、いい加減にしろよ」


 内心怯えながら、こちらの憤りを伝える。


「…サダハルは何にも分かってないよ」


 ユハルが纏う空気が変わる。


「はぁっ?なにいってんッ!??」


 全身から力が急に抜ける。


 衝撃と痛みが全身を駆け巡る。


 何が起きたかわからずユハルを見上げて初めて、腰から転げ落ち尻餅をついたことに気がついた。


 ユハルは俺を冷たく見下ろす。


 そして俺の部屋…の前を通り過ぎ、ポッケから何かを取り出す。




ガチャリ




「?!」


 驚こうにも声が出なかった。


 体の異変もそうだが、なぜこいつはいま『302号室』の扉を開けた?


そんなまさかっーーー


 愚かにも違和感の正体に今気がついた。




『なぜ案内もしてないのに迷うことなく俺を家まで連れてこれたのか』




「気がついた?でももう遅いよ。最初から言ってたじゃない。あなた何もわかってないのね、って」


 いつの間にこいつは俺の隣の部屋に越してきたんだ?!


 先ほどから感じていた恐怖が何倍にも膨れ上がる。


 悲鳴を上げようにも、身体が言うことを聞かない。


「ねぇサダハル。…お水美味しかった?」


ゾッとした。


こいつまさか初めから…


「ふふっ。アハハッ。分かってないなぁ。なぁーんにもっわかってない!」


 ユハルは歪な笑みを浮かべている。


 そのままそっと耳元まで顔を寄せてくる。


「ただの優しさでお水をあげたと思った?」


 騙された…騙された騙された騙された!


 どうしようもない怒りと己の愚かさに悔やむ。


 ユハルは俺の両脇を抱え、『302号室』へ引きずり込む。


「私に彼氏がいる?分かってないなぁ。あなた以外好きになるわけがないのに彼氏を作ると思った?」


「というより、あなたが勝手に別れたつもりになってるだけで私は別れたなんて思ってないし、そもそも同意なしに別れられると思ってるなんて本当分かってないね。まぁ同意するわけもないけどそこも分かってないよね」


ズル…ズル…


 身体が完全に部屋内に引きずり込まれる。


「あなたは何も分かってないけど、一番分かってないのは『私がどれだけあなたを、愛しているか』ってコト」


ズル…ズル…


 玄関を越えて廊下を引きずられる。


 そしてその廊下には一面に大量の写真。


 見たくもない。


 見るまでもない。


 それは全部俺の盗撮写真なのだから。


「この部屋にいれば少しはさみしさも紛れるけど、もう我慢の限界。壁に耳を澄ませてあなたの生活音聞きながら自分を慰める生活はもう終わり」


ズル…ズル…


 狂気の廊下を抜け部屋に入れば、そこは地獄の空間。


 壁はおろか天井にまで貼り付けられた盗撮写真の数々。


 そして不自然なまでに壁際に寄せた机やベッド、かつて同棲してた部屋に置いていったものが所狭しと飾られている。


「ねぇ、覚えてる?最後にシたの3年6ヶ月12日前、日に直すと1289日前。本当に長かったわ。でも1289日ぶりにできるのね。嗚呼、嬉しくてどうにかなっちゃいそう」


ズル…ズル…


 同棲してた頃に買った少し大きめなベッドの上に上げられる。


ガチャリ


 そして手首に手錠を嵌められていく。


「今日は金曜日。土曜も日曜もある。時間はたっぷりあるわ」


 時を経て、あどけなさは完全になくなった彼女は捕食者のような目つきでこちらを睨む。
















「だから…、何にも分かってないあなたに私がどれだけあなたを愛してるか、嫌と言うほど教えてあげる」


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