最期に、もう一杯だけ。

及川 輝新

最期に、もう一杯だけ。

 ここはどこだろう。




 辺り一面、桜の花びらが絨毯のように敷き詰められている。


 桜の木は見えない。どこからか吹いてくる風に乗って、桃色の花弁がひらひらと舞っている。


「……線路?」


 二本のレールはまっすぐに延びていた。ところがホームも架線も、俺の瞳には映っていなかった。


 線路に沿ってしばらく歩く。大地を横断する太い川を見つけたところで、ようやくここが現世でないことを悟った。この川を渡ったら、二度と元の場所には戻れない気がした。


 俺は驚かなかった。30年も生きていれば、初めての出来事に遭遇してもある程度は柔軟に飲み込める。未知の現象は、突き詰めれば既知と既知の組み合わせだ。俺は桜も、線路も、三途の川も知っている。ゆえに慌てる必要などなかった。



 唯一、意外というか想定外というか、川のすぐ手前には移動式の屋台が佇んでいた。藍色の暖簾の向こう側にはカウンターがあり、さらにその奥で人影が動いていた。



 こんなところに人がいるはずもない。ならば死神が酒と飯を提供しているとでもいうのか?


 一瞬だけ躊躇したものの、俺は意を決して暖簾をくぐった。


「あ、いらっしゃいませ! お一人様ですか?」


 これにはさすがに驚かずにはいられなかった。カウンターの内側にいたのは頑固そうな親父でもなければましてや死神でもなく、割烹着姿の少女だったのだ。


「外は風が強いでしょう。ささ、早く座ってください!」


 言われるがままに三人掛けの客席の中央に腰かけ、湯気が立ち昇ったおしぼりを受け取る。顔に当てると、適度な温かさがあった。


 念入りに顔を拭いてからゆっくり顔を上げる。目の前にいるのは、やはり年端もゆかぬ女の子だった。年齢は13か14といったところか。割烹着の下には暖簾と同じ色の着物をまとっており、三角巾からは黒髪が覗いている。


「お客様は初めてですよね?」

「は、はい」


 少女はさも駅前のガード下にある屋台と同じようなテンションで、フランクに話かけてくる。


「当店は『お迎え』の電車が来るまでの間、お酒とごはんでくつろいでいただく、待合室のようなものです」

「待合室……」


 あるいは最後の晩餐と捉えたほうが的確かもしれない。まるで死刑囚だ。いや、こんな可愛らしい子と人生の最後をともにできるなら、もっと素直に喜ぶべきか。大事なのは場に順応すること。要は気の持ちようだ。


「ご注文いただけるのはお酒が一杯にお料理が一品だけ。それがこのお店のルールです。と言ってもお料理は簡単なものしかできないんですけれど……」


 確かに、戸棚の上に置いてある一口のカセットコンロでは、手の込んだ料理を作るのは難しいだろう。それに時間がかかるものをオ―ダーして、いざありつく直前にとやらが来てしまったら、俺は現世に未練を残してしまうかもしれない。ならばすぐに出てくるものがいい。


 幸い、俺と少女の間には長方形の鍋があった。そこにはたっぷりの出汁が注がれており、芳醇な香りを漂わせながらくつくつと音を立てている。具材のカテゴリーごとに金属プレートで仕切られており、こっちは練りもの、あっちは串もの、そっちは巾着に卵と、具材たちが所狭しと黄金色の大浴場に身を寄せている。




 おでん。




 せっかく外は桜が綺麗なんだ。こいつをアテに、花見酒で人生を締めるのも悪くない。


「……ちなみに、おでんの具はどれかひとつしか選べないんですか?」

「いえ、おでんなら3種類までOKですっ」

「じゃあ大根と卵と……」


 定番の2つは欠かせないとして、あと1種類は何にしよう。


 牛すじ串。出汁を吸ってトロトロで、絶対うまいに決まっている。

 ちくわぶ。関西のおでんに入っていないと知った時はびっくりした。

 ゴボウ天。みっちりとしたすり身と、ほんのり苦味のあるゴボウがよく合うんだ。


「ん、これは……」



 じゃがいも。



 うちの実家で採用されたことはなかったが、何気に定番メニューらしく、居酒屋でもたまに見かける。最後くらい冒険してみようか。


 ……いや、今さら新しい味を知ったところで空しいだけか。


「……こんにゃくで」

「はいっ、大根と卵とこんにゃくですね。お飲み物はどうしますか?」

「お酒をひやでお願いします」

「はーい」


 少女は鼻歌を歌いながら、慣れた手つきでおでんを盛り付ける。上から出汁をたっぷりかけて、練りカラシをべったりと器の縁に付けた。


「お待たせしました。おでん三種盛りと、こちらお酒が一合です」


 王道と言えば聞こえはいいが、当たり障りない無難なチョイスだ。最後の最後まで、実に俺らしい。自嘲とともに、半分に割った大根を口に放り込む。


 うまい。出汁そのものにかぶりついている気分だ。口の中でほろほろと解ける繊維が気持ちいい。日本酒で追いかけると、まどろんだ温もりが喉を滑り落ちていく。


 卵はそのままかじる。ホクホクとした素朴な黄身がどこか安心する。


 こんにゃくはどうだ。カラシを付けて、がぶり。跳ね返る食感と口の奥でツンと走る辛みが癖になる。


 思っていた以上に腹が減っていたのか、あっという間に完食してしまった。




「いい食べっぷりでしたね」


 器を下げながら、花開くように少女が笑う。あるいはこの子がそばにいたから、おいしく味わえたのかもしれない。ここのところ仕事が忙しくて、座って食事をとるのもずいぶん久しぶりだった。


 お猪口の中身をあおると、脳がくらりとした。


「……俺なりに頑張っていたつもりだったんです」




 気付けば俺は、自分の身の上を語っていた。




 学生時代はそれなりに勉強して、良い大学に入って、そこそこ有名な会社に就職した。忙しさで同期が次々にドロップアウトしていっても俺は必死に食らいつき、5年前には念願の役職も手に入れた。経歴だけ見れば、悪くない人生だ。


 だが学生時代の友人たちはみな家庭を設け、子どもが産まれた頃にはすっかり疎遠になっていた。趣味も持たない俺はますます仕事に傾倒し、心身ともにボロボロになった。そして駅の階段でうっかり足を滑らせて、このザマだ。


「……年末には久々に実家に帰る予定だったんですけどね。どうやら家族に顔を合わせるのは葬式になりそうです」


 人生で一度も入院経験がないことを自慢していた父さんは、昨年にくも膜下出血であっさり逝ってしまった。年が明けてからは母さんも体調を崩すことが増えてきたようで、妹が通院に付き添っている旨のメッセージが送られていたが、俺は仕事に追われろくに返事もしていなかった。


 親孝行のつもりで大企業に入ったのに、生活も気持ちもすれ違うばかりだった。


「……母さんのチャーハン、食べたいな……」


 ふと、口から願望が零れる。子どもの頃の休日、毎週のように昼食で食卓に並んだ献立。こいつをかっ込んで、午後は友人と遊びに出かけたものだ。もう叶わないと知っているからこそ、言葉に出せたのかもしれない。


「よろしければ、お作りしましょうか? チャーハン」

「え、でも」


 酒が一杯に、料理は一品。自分で口にした店のルールを、自ら破ってしまうのか。


 俺の心情を読み取ったのか、少女は戸棚から茶碗を取り出した。


「ほら、一杯だけ」


 俺は苦笑いする。そんなとんちが通用するのか。


 少女は卵をボウルに割り入れ、菜箸でかちゃかちゃとかき混ぜる。油を入れて熱したフライパンに卵を投入し、すかさずご飯を追加する。菜箸を木べらに持ち替え、フライパンが火元から離れないようゆすりながら、ご飯を金色に染めていく。


 具材はベーコンとネギ、千切りの大葉。塩コショウと少量の醤油を垂らし、再びよく混ぜる。ものの五分もしないうちに、茶碗一杯分のチャーハンが完成した。


「さ、どうぞ♪」


 出来立てのチャーハンをレンゲですくい、ぱくりと一口。


「……うまい……」


 少女はニコリと笑った。


 レンゲを動かす手が止まらない。合間に日本酒を挟むと、チャーハンの味が一層引き立つ気がする。


 空になった茶碗と徳利をカウンターの上に置き、深く息を吐く。


「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした。ご満足いただけましたか?」


「……正直言うと、そうでもなくて」


 もちろん味は最高で、どの店で食ったチャーハンよりも絶品だった。


「ただ俺の好きなチャーハンは、俺の舌に馴染んでいるチャーハンは、もっとベチャベチャで、味が薄くて、具も不揃いのカマボコだけで……」


 どうしてあの味が頭から離れないんだろう。中学に上がる頃にはとっくに飽き飽きしていたのに。


 考えるまでもない。俺はこれから死ぬ。二度と母さんに会えない。二度と母さんの手料理を食べられない。その寂しさが、悔しさが、悲しさが。



 遠くから汽笛が聞こえてくる。どうやらお迎えが来たみたいだ。



「……まだ、死にたく、ない……」


 俺は頭を突っ伏して、子どものように泣きじゃくっていた。


「母さんのチャーハンが食べたい……」


 屋台の後ろに電車が停まった。


 食事は済んだ。これ以上ここにはいられないと、本能で理解している。


 ふわりと、頭頂部に温もりが灯る。


「顔を上げてください」


 優しい声が降り注いでくる。


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げると、少女はおしぼりで俺の目元と鼻を拭いてくれた。


「大丈夫。行き先を見てください」


 言われた通り、車両の上部のプレートに視線を移す。



此方こなた



 あの世に行くのなら、『彼方かなた』だろう。そういえば汽笛は、川の向こう側から近づくように聞こえてきた。


 こちら側。それってつまり。


「ここはつかの間の休息地。お酒とごはんでお腹を満たしたあなたは元の場所に帰って、また人生を頑張るんです」


 物語を紡ぐように、少女の小さな口が動く。


 恥ずかしさで俺は顔が熱くなるのを感じた。


 何が『30年も生きていれば、初めての出来事に遭遇してもある程度は柔軟に飲み込める』だ。何が『未知の現象は、突き詰めれば既知と既知の組み合わせ』だ。勝手に想像して、決めつけて、視野を、選択を、未来を、狭めていただけじゃないか。


 俺は少女に背中を押され、一両編成の電車に乗った。


「また来てくださいね……とは言えませんが、どうかお元気で」


 少女は小さく微笑んだ。


 扉が閉まる。電車が汽笛を鳴らし、此方に向かって走り出す。


 俺の意識はそこで途絶えた。




 ☆ ☆ ☆




 ここはどこだろう。


 真っ白な天井に、同色の壁、掛布団、ベッド。おまけに窓の外では雪が降っている。


 首を反対側に傾けると、椅子に座った妹とばっちり目が合った。


「……起きた! お母さん、お兄ちゃん起きたよ!」


 耳元で大声を出さないでくれ、妹よ。


 うまく口が開かない。声を出そうとしても、かすれた吐息が漏れるだけだった。


 視界いっぱいに、泣きじゃくった母さんの顔が現れる。そんなに号泣することもないだろう。さっきまでの俺じゃあるまいし。




 会話ができるようになった時の第一声はもちろん決まっている。




 帰ったら、久しぶりにチャーハン作ってくれよ。




 あと、じゃがいもの入ったおでんも食べてみたいな。

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最期に、もう一杯だけ。 及川 輝新 @oikawa01

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