花びら一枚

梨子ぴん

花びら一枚

 文音は桜の花が舞い散る中、一人の人間に目を向けていた。ああ、その顔はなんて可愛らしいのだろう。そして、なんと憎らしいことか。

「あっ、涼。」

 私のその視線に文音が気づき、顔をこちらに向けた。その目は、先ほどまでの熱量を伴っていなかった。

「せっかくの卒業式だから一緒に写真撮る? 桜も綺麗だよ。」

「いや、いい。写真はあまり好きじゃない。」

 私は大きく首を横に振る。写真というより、自分という存在が何かに残るということそのものがひどく怖いのだ。

「もったいないなあ。」

 文音はやや拗ねたように言った。彼女は茶色がかった髪を、指でくるくると弄り回してから、はっと何かを思い出したようだった。

「そうだ、涼に渡しておきたいものがあるんだった。」

 文音はごそごそとスカートの左ポケットを探る。握りしめられた手が開かれると、中から猫の箸置きが出てきた。猫は黒色で小さく、しっぽをくるんと巻いている。

「なんで今?」

「……なんとなく。涼は猫が好きって言ってたし。つい買っちゃった。」

 わたしは、そっと猫の箸置きを文音の手から取る。文音は、照れくさそうに笑っていた。私の中に温かく、醜いものが広がっていく。

「ありがとう。」

 私は猫の箸置きを見つめ、胸ポケットにそっとしまい込んだ。文音を見ると、顔を赤らめ、目を琥珀のように輝かせて、ある一点に向けていた。

「早坂がどうかしたの。」

「えっ、あっ。」

 彼女は慌てて目線をずらす。

「……最後に一枚くらい写真撮ってこようかな。」

 早坂は一人で気怠そうに立っていた。きっと、早くこの喧噪から逃れて、さっさと家に帰りたいのだろう。文音はもじもじと両手を絡めていたが、すぐに右ポケットからスマホを取り出し、私に告げた。

「涼には猫の箸置きを渡したけど、早坂君にも渡したいものがあるから。」

 瞬間、私は気が狂いそうだった。火がついているのかのごとく、ごうごうと心が燃え盛っている。

「うん。」

 私は、早坂へと駆けていく彼女を、笑顔でちゃんと見送れただろうか。醜い顔で、送り出していなかっただろうか。


 文音が息を切らして帰ってきた。頬は紅潮し、目は普段よりも見開かれて星のように煌めいている。

「あのね、涼。」

「上手くいったんでしょ。」

「そう、そうなの! 連絡先も交換できた!」

 桜吹雪の中で、花が綻ぶように笑う文音は、悔しいけれど今までで一番美しかった。文音は呼吸を整えながら口を開く。嫌だ、聞きたくない。

「さっき、涼に猫の箸置きを渡したでしょ? 実は、早坂君も猫が好きだって言っててね。」

 やめて、今はその口から言葉を紡がないで。

「だから、早坂君には猫の絵が描いてあって、魚の形をした箸置きを渡したの。見るからに猫だと照れちゃうかもしれないと思って。なんか、セットみたいになっちゃたけど、二人とも猫好きだしいいかなって。」

 私は思わず吐きそうになった。両手で口を押える。頭はぐちゃぐちゃで、汚くどす黒いもので塗りつぶされていく。

「涼?! どうしたの!」

 文音はひどく狼狽し、教師を呼んでこようとした。私はすぐさま文音の腕を掴み、大丈夫、と静かに答えた。

「本当に? 無理してない?」

「うん。ちょっと人混みがしんどくなっただけだから。」

「そっか……。」

 文音は不安そうに見つめている。私は貴方にそんな顔をさせたいわけじゃない。

「そろそろ帰ろう。人も少なくなってきた。」

 人が敷詰まっていた運動場は、空いた場所が少しずつ増えてきていた。代わりに落ちた花びらで、地面は桜色と茶色で彩られている。

「じゃあ、卒業しても仲良くしてね。絶対だから!」

「わかったよ。」

 私はひらひらと手を振る。心はぽっかりと穴が開いている。不思議な感じがする。

 校門を出ようとして、他愛のない話を文音としていた時だった。

「野上。」

 あの男が、文音を呼んだ。

「早坂君。」

「……一緒に帰ってもいいか。」

「うん! でも、」

「いいよ。バイバイ、文音。」

 いいわけがない。この苦しみを告げてしまえたのなら。お願いだから、私から文音を取らないで。いや、取るな。お前よりずっと、私の方が文音のそばにいたのにどうして。どうして、私より早坂の方がいいの、文音。教えて。何が違うの、性別? 女と女は結ばれないから? 私のこの想いは正しくないもの、淘汰されるべきものだから。気持ち悪いものだろうから。私は、貴方にずっと。

 私の感情は、口から吐き出されることなく、胸の内に留まったままだった。最後の最後まで、私は彼女と違って弱虫だった。

「じゃあ、またね。」

「悪い、名瀬。」

 文音と早坂は二人で校門を出て、私は一人きりになった。私は一滴の涙を流した。

「文音。」

 彼女の名を口にしても、彼女は振り返ることなく、彼女が想う愛しい男と歩いていく。先ほどまで花の中にいた彼女はもういない。綺麗だと思えた桜の花でさえ、憎いと思った。羨ましいと感じた。

 花びら一枚にさえ、私はこんなにも気持ちを揺らされている。それは、あまりにも馬鹿々々しかった。

「―――」

 私の想いは人々の話し声に掻き消されて、誰にも伝わることはなかった。

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花びら一枚 梨子ぴん @riko_pin

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