男と女の間にある曖昧な言葉たち

七尾航平

第1話

 その女と出会ったのは冬のことだった。

 井上恭太は数学の講師として勤めている大学の研究室の同僚たちとの飲み会に参加した後、一人、色町へと足を延ばした。

 色町と言うのは管理売春が横行されている地区を差す。戦後から70年以上も経った日本に未だそのような町が残されていることは恭太も最初は意外であった。悪友たちから、そんな町があることを耳にし、ふと興味が湧きインターネットで検索すると意外なほど簡単に、その町は検索に引っかかった。彼の住む大阪府内には、そのような町が点在しており、彼が通うことになる町は彼の自宅から自転車で行ける場所に存在していた。その町は歓楽街と呼ぶには余りにも暗かった。町の中は古びた和風の家屋が立ち並び、各々の家屋の玄関は解放されている。そしてその玄関の奥には、紫色の光に照らされた女が座っている。玄関口では老婆、あるいは中年の女が椅子に腰を掛けており、店の前を通る男たちに声を掛けている。

 ―過剰に漂白されたこの国に未だにこんな町が残されているとは。

 恭太はこの町に最初に訪れた時、そのように考えていた。確かに色町は言葉としては消滅したのかもしれない。かつて警察は色町のことを青線、赤線と呼称していたが、そのような言葉ももう耳にはしない。今、色町は何と呼ばれているのだろう。風俗街が最もよく使われる言葉だろうか。そもそもこの国では管理売春は違法なので、ネットの隠語では裏風俗などと呼ばれている。恭太のようにこの町のことを色町と呼称するのは気取った懐古趣味に他ならない。

 この町を利用している男たち、そして女たちは自分たちがしている行為に関して売春とは呼ばず、曖昧な言葉を使う。

 なので、この町には言葉としての売春婦は存在しない。存在するのは風俗嬢であろうか。それにしても売春という言葉は何故消滅したのだろう。その行為が法に抵触するからか、それとも今はあまりに露骨な言葉になってしまったからか。いずれにせよ、売春という行為は残っているにも関わらず、売春という言葉は法の網目を搔い潜るようにその呼称を変えてきた。

 援助交際、ワリキリ、本番行為、パパ活。

 このように言葉とは時代によって変化していく。なので言葉というものは曖昧なものなのかもしれない。特に男と女の間柄を示す言葉に関しては。

 恭太はその日も色町を歩き、自分の相手となる女を物色していた。紫色をした照明の下で女たちは相変わらず作り笑いをしている。そのあからさまな誘惑の中で、一人、明らかに笑顔の質がほかの女とは異なる女がある店の奥に座っていた。何故、恭太がそのように感じたのか、自分自身でも良く分からなかった。しかし恭太はその笑顔に吸い寄せられるように店の前まで進んで行った。

「いい子ですよ。」

 その女の隣にいる中年の女が恭太に落ち着いた口調で語りかけた。この町では落ち着いた口調の呼子を見掛けることは少ない。客を呼び込んだらその分だけ呼子の収入になるらしく、この町の呼子は大抵、強引に男に話しかける。恭太が足を止めた店はこの町にある他の店と何かが違っていた。

「せやな。」

 そう言い恭太は店の奥の女の顔を見る。相変わらずその女は屈託の無い笑顔を浮かべ恭太を見ている。女は美人と言うより愛嬌のある顔をしている。丸い顔に大きな目、そして、この町の女のほとんどは化けの皮と言っても差し支えの無いほどの濃い化粧を自分の顔に施しているのだが、この女は過剰に化粧をしていないように見える。

「じゃあ上がっていくか。」

「ありがとうございます。」

 店の奥の女はそう言い立ち上がる。女を照らしていた照明の光が、その女の顔からずれた。過度な光量に晒されていない女の顔は恭太が最初に抱いた印象から変わることなく寧ろ、より女の愛嬌が引き立った。

 ―どうやら化けの皮は被っていなかったらしい。

 恭太はそう考え、今のところは自分の選択が正しかったと安堵してる。

「じゃあ、行きましょう。」

 そう言い女は恭太を家屋の二階にある個室に連れて行った。

 恭太が招かれた個室は薄暗い部屋だった。見上げて見るとその部屋の照明器具はソケットが二つあるのに、電球は一つしかついていない。部屋の扉から向かって左の奥の方にはちゃぶ台と座布団がある。そして部屋に入って右側の奥には布団が敷かれていた。恭太は座布団の上に腰を下ろし、女の方を見た。女は正座をしている。

「ありがとうございます。」

 女は先程から笑顔のままである。

「このお店のシステムは知っていますか?」

 ―うん。知ってる。

 恭太はその言葉を声に出そうと思ったが少し戸惑った。頻繁にこの町に来ていることをこの女に知られたくなかったのだ。今更自分が純情で無いことなど、この店に入った時点で目の前の女も分かっているはずなのに、恭太は自分が性欲の強い男であることを他人に知られるのを嫌がった。

「まあ、一応は。」

 恭太はせめてもの恥じらいか、自分が頻繁にはこの町に訪れていないことをその一言に込め、女に返事をした。すると女はちゃぶ台の上に置かれた料金表を取り恭太に見せた。料金表には客の滞在時間に対しての金額が記載されている。当然、料金は滞在時間に比例して高額になる。

「そうですか。何分居てくれますか?」

 女は恭太の気持ちに気付いてか、淡々としかし、どこか恭太の気持ちを気遣うような口調で、この取引の話を続ける。

「30分で。」

 そう言い恭太は財布の中から料金表に書かれた金額の金を女に渡した。

「ありがとうございます!すぐに戻って来ますね。」

 女は溌剌とした声で答える。そして恭太から金を受け取ると、バタバタと足音を鳴らしながら、急ぐようにこの部屋から出ていった。とは言え、慌しい感じはしない。どこか目の前の客を待たせたくない雰囲気を醸している。

 ―この女、悪くない。

 恭太はそう感じていた。この町の女の中には話している言語が日本語なのか分からない女が少なからずいる。間違いなく日本語なのだが、滑舌が悪すぎる上にやたら語尾を伸ばし過ぎる、そのような会話しか出来ない女を恭太は好きになれなかった。

 女が部屋を出て行ってから一分程度経つ。

 ―相変わらずこの待ち時間が長いな。

 恭太はそう思いながら、部屋の奥に敷かれている布団を眺めていた。その布団はピンクの色をしたシーツに包まれている。廊下と部屋を仕切っている襖からノックの音が聞こえる。

「お待たせしました。」

 そう言い女は部屋に入り、恭太の前で正座をした。

「今日はありがとうございます!じゃあ、シャワーに行きましょうか。」

 この町ではその行為の前に男も女もシャワーを浴びるルールになっている。女が恭太にタオルを渡す。そのタオルの色もピンクの色だった。

「うん。」

 恭太はそう返事をし、女からタオルを受け取った。もう少し会話が出来れば良いのだが、初めて会う女の前では緊張するものだ。しかし、この町に通い続けているうちに恭太は初めて会う女の前で裸になることに躊躇することは無くなっていた。気が付けば目の前の女も服を脱いでいる。女はこの町の女にしては珍しい体形をしていた。この町の女の体形は大体二つに分類出来る。痩せているか、太っているか。痩せていたとしてもそれは生まれ付きでどこか不健康な雰囲気があり、不自然な個所に贅肉が付いていたりする。自堕落な生活を過ごしていることが、どの女もその体型が物語っていた。しかし、この女はそのどちらでも無かった。肩幅が広く、腰が締まっている。手足は細くは無かったが、脂肪は付いているようには見えない。そして肌は 健康的な小麦色をしていた。

「ん?どうしました?」

 恭太の視線に気付き女は笑顔を浮かべながら恭太に話しかけた。

「あ、いや。スタイルが良いなと思って。」

 恭太がそう言ったとき女は「ハハハ。」と声を上げ笑った。

「嘘。私はそんなに足も長くないし。痩せてもいないのに。」

「そうでも無いで。かなり鍛えてそう」

 恭太は女から目を逸らした。急に照れくさくなったのだ。

「実家がね、農家なの。重たいものを運んでいるから、筋肉が付いちゃって。腕なんか硬いの。ほら、触ってみて。」

 そう言い女は二の腕を恭太に近付けた。女の腕を付かんでみる。確かに硬い。すると、女は二の腕を掴む恭太の手を撫で「行こう」と恭太の耳元で囁き、恭太を部屋の外にあるシャワー室へ誘い出した。

 30分程度過ぎ、恭太と女は服を着だした。女は服を着ながら恭太の方を見て、時折笑顔を見せてくる。

 ―また、ここに来ることになるだろう。

 女の笑顔を見ながら恭太はそう考えていた。「仕事」が終わったにも関わらず、この女は相変わらず愛想が良い。この町に住む大抵の女は男から金を受け取った時点で「仕事」は終わったと考える。客にとってすれば「仕事」は終わってはいないのだが「仕事」が終わったことを露骨に態度で示してくる女がいる。そのような行動を取る女のほとんどはこの町に長く留まることなく早々と姿を消してしまう。この町に留まろうとする女は自分と共にこの町に留まる男を巧みに作りだす。客観的に見ると、今目の前にいる女は、仕事熱心で無い女よりもたちの悪いものなのかもしれない。男をこの町に沈めるからだ。

「名前は何て言うん?」

 恭太は何と無く意味の無い質問をした。女からは本当の名前を聞くことは出来ないだろう。とうせ返ってくる名前は源氏名だ。笑顔を浮かべながら女は答えた。

「ユリ」

「ユリちゃんか」

 とりとめのない会話だ。この会話が終わるのと同時に女と恭太は服を着終えた。恭太にとってもこの取引は終わっているので、最早裸で無い目の前の女に興味は無かった。そんな冷たい感情を恭太が抱いていたとき、女はさらに会話を続けた。

「本当はね、ユリって名前じゃない方が良かったの。名刺にはね、ユリって書いているんですけど。」

 自分の源氏名に不満を抱く女に出会ったのは初めてだ。

「ほな、どんな名前が良かったん?」

 恭太は会話を続けるための質問をしたがどのような名前が良かったのか特に興味は無かった。

「リリイ」

 そう女は答える。

「リリイ?」

 恭太は女の返事を聞き、少々戸惑っていた。海外の名前が出てくるとは思わなかったからだ。今、若い女の間でどんなスターが流行っているのか、その情報に恭太は全く疎い。恭太は知らないが、恐らく、その名前を持つスターがいるのだろう。恭太は女に尋ねた。

「今、そんな名前の人がいるん?」

「ううん。歌の題名。弟がいてね、弟と弟が好きなバンドの歌を昔よく一緒に聞いてたの。私リリイって歌が好きで、それを源氏名にしたいってお店のお母さんに言ったら、外国の名前はダメって言われちゃった。リリイって英語ではユリの花って意味でしょう。だから、ユリって名前にしたの。」

 お店のお母さんとは外で客引きをしていた中年の女のことだろう。

 恭太はその曲を良く知っている。彼が中学生だったころ頻繁に聞いていたロックバンドだ。そのロックバンドのギタリストは数年前に死んでしまい、バンドは既に解散している。

「良く知ってる。そのバンド。そうなんや。ほな、今度から君のことをリリイって呼ぼうかな。」

 恭太がそう言い終えた頃、突然チャイムの音が鳴った。部屋を出ていかなければならない合図の音だ。リリイは恭太の手を取り上目使いで恭太の目を見つめた。

「うん。今度からそう呼んで。今日はありがとう。楽しかった。また来てくださいね。」

 そして、リリイは恭太の唇に軽く口づけをし、出口へと彼を誘導した。

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