第36話 拝啓、隣の作者さま
ガコンと鈍い音が響き、目当ての缶コーヒーが自販機の中に落ちる。
丹原は身を屈めて、缶コーヒーを機械から取り出した。
(しばらくは、これがコーヒータイムのお供だな)
テレビCMがバンバン流れる某有名缶コーヒーをしげしげと眺める。
これまで会社で休憩するときは休憩室にあるコーヒーマシンを愛用していたのだが、感染対策の観点から、当面の間は休憩室の利用が禁止になってしまったのだ。それに伴い、当然コーヒーマシンもお休み中。
だから仕方なく、自販機で缶コーヒーを買ってみたわけだが。
「まあ、これはこれで悪くない、か」
くぴっと、缶を傾けてコーヒーを味わう。
そうして丹原は、エレベーターホールの窓から外を眺めて一息ついた。
緊急事態宣言解除。その報せが日本中を駆け巡ったのは、約一週間ほど前だ。それを受けて、会社としても徐々に社員の出勤を促し始めている。丹原の所属する第一グループも、約2か月振りに集合ミーティングを実施することになり、丹原も会社に足を運ぶことになった。
(……って言っても、まだ万時解決とはいかないみたいだけどな)
コーヒーを飲むためにずらしたマスクで、再び口元を覆う。
緊急事態宣言が解除されることによって商業施設への休業要請が段階的に緩和される一方で、『新しい生活様式』という言葉が強く叫ばれている。現に、今ではすっかりつけるのが当たり前になってしまったマスクを、装着せずに済む日はまだ先になりそうだ。
だけど、悪い方に進んでいるわけじゃない。少しずつでも、いい方に向かって歩いているはず。
なんら根拠はない漠然とした予感だが、そうであって欲しいと丹原は強く思った。
その時、背後で誰かが駆けるような足音が響いた。
「せ、ん、ぱーーーーい!!」
「うわあ!」
背後からがばりと抱き着かれ、文字通り丹原は飛び上がった。振り返れば、庭野が人懐こい大型犬よろしく満面の笑みで丹原の肩に手を置いている。
ぎょっとして飛び退りながら、丹原は周囲を確認した。
大丈夫だ。辺りには自分たちの姿しかない。とはいえ、こんなところ誰かに見られたら一大事だ。目を吊り上げて、丹原はにへらと笑う庭野に詰め寄った。
「ばかか、お前は! 会社でむやみやたらとくっつくな!」
「ごめん、ごめん。ひさしぶりに先輩に会えたから、テンション上がっちゃって。ていうか、会社じゃなかったらくっついていいの?」
「そ、そういうことを言っているんじゃ……!」
「ふふ。やっぱ先輩、かわいいね」
ぐいと顔を覗きこまれ、反射的に熱が沸騰する。そんな丹原を、庭野は面白そうに眺めていた。
(……ったく)
せいぜいの照れ隠しに、丹原は思いっきり顔をしかめて腕を組んでみせる。――とはいえ、安心したのも事実だ。『転こい』2巻の発売数日前の、ひどく落ち込んだ様子の庭野が、最後にみた彼の姿であったから。
ふっと笑って、丹原は肩の力を抜いた。そういえばLIMEで感想を伝えはしたけど、まだちゃんと顔を合わせて、2巻の読了報告を出来てはいなかったんだった。そのことに思い当たった丹原は、庭野を見上げて口を開こうとした。
けれども、先手を打ったのは庭野だった。
「はい、これ。先輩に渡したくて、探してたんだ」
「なんかの資料か?」
クリアファイルに挟まれたそれを受け取る。何気なく視線を落とした丹原は、先ほどとは違う意味で心臓が跳ね上がり、食い入るように顔に近づけた。
「これは……!」
「じゃーん。転こいの、ファンレターをくれた読者様へのスペシャルSSです!」
スペシャルSS。胸躍る響きに目を輝かせる丹原に、庭野は照れ臭そうに首の後ろに手をやった。
「前に先輩、1巻の感想を手紙に書いてくれたでしょ? そのお礼です。だいぶ遅くなっちゃったけど、よかったらと思って」
「ありがとう!! ……や、いや。気を遣わせて悪いな。ありがたく頂戴するよ」
食い気味に答えてから、慌てて誤魔化す。そんな丹原を、庭野がひどく愉快げに眺めていることなど気づきもせずに。
(今日の昼休みの供はこれで決まりだな!)
トクトクと胸を高鳴らせながら、しっかとSSの印刷された用紙を胸に抱く。
いや、しかし。早く読みたい一方で、誰にも邪魔されず大切に読みたい気もする。だとすると、家に帰るまで我慢するべきだろうが、夜まで待ちきれないというファン心もあり……。
悶々と悩んでいると、庭野がにこりと微笑んだ。
「それとね。先輩に報告があって」
「報告?」
「まずね、転こいの1巻、2巻。重版決まったんだ」
「重版出来!?」
「あと、3巻発売も決まったよ!」
「3巻!? 書き下ろし新作だと!?!?」
矢継ぎ早に明かされる新情報に、丹原はここが会社であるのも忘れて庭野に詰め寄った。すると庭野は、両手でピースを作った。
「情報解禁は今夜なんだ。けど、先輩には誰よりも早く伝えたくて。だからこれ、みんなには内緒だよ?」
「すごいな! やったな、庭野!!」
純粋に嬉しくて、丹原ははしゃいでしまう。そんな丹原を見下ろして柔らかく目を細めてから――庭野はふいに、丹原の肩越しに窓に手を付いた。
「俺の力じゃない。これも全部応援してくれる読者さんの、先輩たちのおかげだよ」
「そ、そうか?」
「うん。本当に感謝してるんだ」
ジリジリと後ろに追い詰められる。ついに背中にガラスが当たった時、丹原はまずいと青ざめた。
こいつ、何をする気だ。ゆっくりと身を屈める庭野に、丹原は体を固くする。
まさかそんな。いや。でも周りに誰もいないし。けど会社で、それも互いの気持ちを確かめ合ったわけでもないのに、こんなこと――。
硬直する丹原の頬を吐息が掠め……そのまま触れることはせず、庭野はすばやく丹原に耳打ちした。
「いつも応援ありがとう、先輩。――…………ううん。『あっきー』さん?」
時が止まった。
一拍遅れて、丹原は弾かれたように顔を上げる。けれども、その時には既に、庭野はご機嫌に廊下を歩き去ろうとしていた。
「ちょ、ちょちょちょちょ、ちょっと待て! 庭野―――!!」
「ん? 先輩、どうかした?」
「どうかした、じゃない! おま、俺……!」
「はい、どーどー。少し落ち着こうか、先輩」
泡食って追いかけた丹原の肩を、振り返った庭野がぽんと叩く。
どうして俺が『あっきー』だと。その一言を告げられずに唇を戦慄かせる丹原に、まるですべてを見透かしたようににんまりと、どこまでも得意げ庭野は笑った。
「そうだなあ。俺も先輩には聞きたいことあるし。ていうか、色々ハッキリさせたいこともあるし」
てえ、わけで。ぱちりとウィンクをした庭野の後ろで、見えない尻尾が大きく振られた気がした。
「次の土曜、先輩の家に行っていい?」
トクリと、緊張に胸が震えた。
頷いたらもう戻れない。ここがターニングポイントだと、丹原は漠然と察した。
けれども不思議と覚悟は決まっていた。
先輩として。ファンとして。――友として、それ以上として。
にこっと無邪気に微笑む庭野を見て思う。
お前となら、この先を踏み込んでみるのも悪くない。
「……かまわ、ない」
消え入りそうな声でボソッと答えると、庭野の顔がぱああと喜びに輝いた。
「ほんと? ほんとに!?」
「なんだ! 断って欲しかったのか?」
「そんなわけないじゃん! けど、わー、嬉しい! 何着て行こうかな。あ、俺、ケーキ買ってくね!」
「はしゃぐな!」
じゃれつく庭野、もといポニーさんをあしらいながら、丹原は思う。
拝啓、隣の作者さま。
あなたの作品を。物語を。あなた自身を。
俺はずっと推しています、と。
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