第17話 小さな違和感
「あー! 丹原先輩がONDフーズ担当でよかったー! めっちゃ神―! 助かったー!」
ワンフロア下の資料室に向かう道すがら、庭野は半泣きになって両手を合わせた。
スタスタと足早に歩きながら、丹原は軽く肩を竦めた。
「大袈裟だぞ。別に俺じゃなくたって、あのメールを見れば昔同じような対応をしたことを思い出せただろ」
「いやいや。いつの、どこの取引先の案件だったかなんて、ぱっとすぐ思い出せないでしょ! それに資料がどこに格納してあるかだって、先輩じゃなかったらどれだけ大捜索する羽目になったか……。うわーん。神さま仏さま、丹原さまー!」
「うるさい、会社で大声出すな!」
一周回ってハイになってるらしい後輩を叱りつつ、丹原はちらりと隣を見上げた。
(庭野の奴、ちゃんと寝てるのか……?)
普段のキラキラオーラが半減して見えるのは、どうやら目の下にくっきりと浮かぶクマが原因らしい。それに、営業らしく身だしなみは整えているけれども、やはり近くで見ると疲れがにじみ出ている。
ちょうど資料室に着いたところで、丹原はぐいと庭野を詰め寄った。
「で? お前、実際大丈夫なのか? 傍からは、今にもぶっ倒れそうに見えるけど」
「え? そんな風に見えます?」
本気で首を傾げる庭野に、丹原はますます表情を渋くした。
どうやら庭野本人には、自覚がないらしい。正直そういうときが一番厄介というか、体調を崩しやすいのだ。それで倒れた同僚や後輩を、これまで何人も見ている。
だから丹原は溜息を吐きつつ、目当ての資料が納められている奥の棚へと足を進めた。
「昨日も遅くまで残ってたらしいじゃないか。せめて飯は食えてるのか?」
「え? あ、いや、あはは。なんか、あんまお腹空かなくて」
「やっぱり。限界直前の奴は、みんな似たようなことを言うんだ」
じろりと睨めば、庭野は狼狽えて目を逸らした。
(……ったく)
しかめ面のまま、丹原はちらりと腕時計を見る。時刻は午後3時。社員食堂はとっくにメニューの提供を終えてしまったあとだけれども、外に出てしまえば関係ないだろう。
部屋の奥から3番目の棚に入り、即座に目当てのファイルを数冊引き出す。とっさに受け取ろうとした庭野の手をひょいとかわして、丹原はくいと顎で出口を示した。
「部長には俺から渡しておくから、お前はコンビニでも行ってこい。そんなフラフラの姿で目の前をうろつかれたら、こっちが冷や冷やする」
「え? いや、大丈夫ですってば!」
「大丈夫に見えないから言ってるんだ。いいか。これは先輩命令だからな」
「あ、待って、先輩!」
くるりと背中を向けた丹原に、庭野が慌てて手を伸ばす。
……その時、庭野の長い足がもつれた。
「うわっ!?」
「ん? は、おい!」
バサバサと、音を立てて資料が落ちる。
とっさに目を瞑ってしまった丹原は、おそるおそる目を開ける。途端、見たこともないほど慌てた庭野の王子様フェイスが目の前にあった。
「せ、先輩、大丈夫!?」
「…………」
なんだ、この状況は。
軽く混乱しつつも、丹原は努めて冷静に状況を確認する。
倒れてくる庭野を支えようとしたのは覚えている。けれども失敗して、自分も後ろに倒れ込みそうになった。
どうやらそこを、寸でのところで踏みとどまった庭野に逆に救われたらしい。
(後ろ、庇ってくれたんだな)
丹原の背後には資料棚がある。背や頭を打ち付けずに済んだのは、とっさに庭野が回した腕が支えてくれたからだ。
問題はそうやって回された腕やら、踏みとどまるために庭野が反対の腕を本棚に突き立てたことで、まるで抱え込まれるような形で庭野の腕の中に閉じ込められたことで。
「先輩……?」
見上げれば、少し色素の薄い茶色の瞳が不安そうに揺れている。澄んだ眼差しに引き込まれてしまいそうになってから--一拍遅れて、丹原はイラッと顔を顰めた。
「庭野。いつまで人を見下ろしている気だ?」
「え? あ、ごめんなさい!」
言われてはじめて、庭野は自分たちの体制に気づいたらしい。ぱっと顔を赤くした庭野は、慌てて手を離した。
おかげですぐに解放されたが、庭野は気にしたようにチラチラこちらを見ている。丹原も丹原で調子が狂い、無言で落ちた書類を拾う。
そのまま奇妙な沈黙が流れる。
やがて資料一式を抱え直した時、庭野がぽそりと呟いた。
「ねえ、先輩。いまのって、まるで壁ド……」
「言うな、それ以上」
俺も思ったけど、という一言は飲み込む。今更のように、胸がバクバクと鳴った。
(って、おかしいだろ! なにが悲しくて、野郎に壁ドンされなくちゃいけないんだ!)
庭野から隠すように火照った頬を撫でる。
これはアレだ。ジェットコースターで急降下したときとか、ホラー映画で幽霊が飛び出してきたとか、そういうときにハラハラドキドキするのと同じだ。突然のことに驚いて、びっくりしてしまったとか、そういうやつ。
(……ていうか、庭野のやつ。前からデカいとは思ってたけど、近くだとあんなに身長差あるのかよ……)
チラッと盗み見るように睨む。丹原だって小さい方ではないし、体制を崩していたというのとあるだろう。けれども、さっきは本当に、すっぽり包まれるように抱え込まれてしまった。
これが少女漫画の一場面なら、目の前に迫るヒーローの広い胸に、ヒロインがきゅんと胸を高鳴らせるところだ。けれどもここは現実だし、丹原は可憐なヒロインでもなければ、なんなら30近くの男だ。
だからトキめいたりしない。ドキドキなんか、するわけない。
(だから、いい加減静まれって、俺の心臓――――!)
丹原が頭の中でやけっぱちに叫んだその時、「ぷ、くく」と庭野が吹き出した。
「あー、おかしい! 俺、先輩と話してたら元気出てきました!」
「なんだそりゃ」
じろりと睨むが、庭野は目尻に涙さえ浮かべて笑い転げている。ひとしきり笑ったところで、庭野は息を吐きながら涙を拭った。
「たしかに俺、仕事もですけど小説絡みでもちょっと修羅場ってて、結構ダメージ溜まってたんですけど。先輩のおかげで、なんか頑張れる気がしてきました」
「小説絡み? お前更新休んでるだろ?」
「そうなんですけど。まだ公には言えないんですけどね、ちょっと嬉しい話が出てきたりしてて……」
――言いかけたところで、庭野ははたと気づいた。
更新、といっただろうか。庭野にとって更新とはWeb小説のことであり、たしかにここ数日はリアル多忙につきという理由で更新をお休みしている。
けどそれを、どうして丹原が知っているのだろう。
一方の丹原は、己の失言に気づかなかった。資料の中身に欠落がないことを確かめると、びしりと後輩を指さした。
「とにかく! よろけるくらいなんだから、ほんとになんか腹に入れてこい。じゃあな。俺は先に戻ってるから」
「あ、せんぱ……」
止める間もなく、丹原はスタスタと歩き去っていってしまう。
一人残された庭野はきょとんと棒立ちしつつ、やがて腕を組んで首を傾げて――。
「………あれ??」
ただ、そう言うしかなかったのであった。
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