第10話 喉から手が出るほど欲しいのに
「手洗いに行ってくる!」
そう言って突然立ち上がった丹原に庭野は目を丸くしたが、彼に止められる前にドスドスとトイレに向かう。
がちゃりと戸を閉めた丹原は、はぁ~~っと盛大に溜息をついてしゃがみこんだ。
(あれだけ頻繁に覗かれてるんじゃ、下手なこと呟けないな……)
見覚えしかないアイコンをにこにこと見せつけてくる庭野に、再び丹原の顔がじわじわと赤くなる。これまでだって個人を特定されるようなことは書き込まないようしていたが、これまで以上に細心の注意が必要だ。
例えば今夜、「焼肉旨かった」なんて呟こうものなら、即アウト。そういう何気ない小さなミスが、いずれ『垢バレ』という不幸な事態を引き起こすのである。
(……まあ、けど。庭野が創作を続けてくれそうでよかった)
扉を背もたれにするようにして座り込んだまま、丹原は安堵の溜息を吐いた。
――あくまで自分はいち読者だ。庭野の創作活動にアレコレ口出しする権利はないし、これからもその境界線は守っていくつもりである。
だからオタク、ないしファンの矜持としては、さっきみたいな踏み込んだ質問をするのは完全にルール違反だ。
(だけど、それはそれとして、ポニーさんが苦しみながら小説を書いているかもしれないってのは、ほっとけなかったんだよな……)
一人になって、冷静になってようやく気付く。自分は、ポニーさんの作品を読み続けたいだけじゃない。「書くのが楽しい!」と。満面の笑顔でそう打ち明けた庭野のことを、これからも応援していきたいのだ。
〝それに俺には、いつも作品を応援してくれる『あっきーさん』がいるし〟
無邪気に笑った庭野の言葉を、頭の中で反芻させる。
……垢バレだけはなんとしても避けたいが、これからもSNSを通じて、庭野にエールを送り続けよう。ファンとして親しい先輩として、そう胸に誓う。
いくらか気を落ち着かせてから、丹原は姉と後輩の待つ個室へと戻った。
「悪い、遅くなって……ん??」
一言詫びを入れてから、しれっと席に戻ろうとする。けれどもその途中で、丹原はびしりと固まった。
「きゃあああああああッ! ポニーさんのサイン~~~!」
「あ、おかえり、先輩!」
ごろごろ床を転がる姉に、照れくさそうにこちらを見上げる庭野。
大方予想のつく展開に、丹原はひくりと唇を引きつらせた。
「一応、確認するけど……何があった?」
「聞いてー! 聞いてよ、千秋! 見て! ポニーさんにサイン貰った!!」
庭野が答えるより先に、夏美がずいと何かを丹原に突き出す。
それは、言うまでもなく庭野の記念すべき書籍化作品『転生聖女の恋わずらい』。その表紙裏に、ちょっぴり拙い字でサインがしてある。
大分デフォルメされていたり、馬のイラストが描かれたりしているが、おそらくそれはポニーと読むようだ。
「サイン欲しいってお願いしたら、庭野くんが書いてくれたの! きゃー! ポニーさんの生サイン、嬉しいー!」
「練習中だから下手くそなんですけど、喜んでもらえてよかったです」
嬉しそうにくねくねする姉と、恥ずかしそうにしつつも満更でもなさそうな庭野。そんな幸せ空間の中にあって、丹原だけがフルフルと拳を握りしめていた。
姉貴め。なぜ今なのだ。
なぜ、丹原が席を立ったこのタイミングでサインを強請ったのだ!?
(ポニーさんのサイン、俺も欲しいんですけど!?)
ポニーさんのサイン。それは、丹原が庭野に欲しいと何度か言いかけては、これまでもらうのを我慢してきた代物だ。
しつこいようだが、丹原は『転生聖女の恋わずらい』――略称:転こいの熱心な読者であり、作者であるポニーさんのファンだ。その記念すべき書籍化とあって、是が非にでもポニーさんのサインが欲しい。
けれどもポニーさんの正体である庭野には、自分が彼のファンであることを言っていない。意地と矜持からこの先も事実を明かすつもりがない丹原は、下手に庭野にサインを強請れないのだ。
だが、同じくファンである姉が頼んだとあれば話は違ってくる。そこに同席していたならば、姉を嗜めつつ、自然な流れでサインを頼めたはずなのだ。
あくまでついでとして。あくまで、話の流れとして。
だというのに。
(なんで、このタイミングで貰っちまったんだよ!!)
幸せそうに「てんこい」に頬ずりする夏美に、丹原はぎりぎりと歯を食いしばる。
突如として不穏な空気を纏い始めた丹原に、敏感に察知した庭野も「せ、先輩?」と戸惑っている。
ついに悔しさが限界突破したとき、丹原はばっと後輩を振り返った。
「おい、庭野!!」
「は、はい!」
「飲むぞ!!!!」
「はい????」
クエスチョンマークを人懐っこい顔いっぱいに乗せた庭野。けれども、そんな後輩を放っておいて、丹原は廊下を通りかかった店員に勢いよく声を掛けた。
「すみません!! 生二つ! ジョッキで!」
「え、先輩、今から!?」
「あとこれ。やみつきキムチください」
「おつまみまで!?」
悲鳴をあげる後輩をよそに、丹原はまだ残っていたジョッキをぐいと一気飲みしたのだった。
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