第11話 追憶

 夜遅くになって、私は自分の天蓋に戻ると、すぐに嘔吐した。

「アマーリエ様、お座りください」

 アッシュがすぐに気づいて、私を寝台に座らせる。落ち着いたところを見て、甕から水を汲んで口を濯がせてくれた。そして、泥と吐瀉物で汚れた毛皮を外に出す。

「ごめん、せっかく敷いてくれた毛皮を汚したわ・・・」

「何でもありません。お心を痛めておいでなのですね。早くお休みになった方が良いですが、先に身体を清めて衣服を着替えませんと、お身体も病気になってしまいますよ」

 アッシュのいつも以上に丁寧で優しい言葉遣いから、よほど私がやつれて見えるのだと知れる。実際のところ、湯浴みも着替えも億劫でならない。

「アッシュ・・・私は、自分が恐ろしい。これから、一体どれほど人を殺し続けるものかと考えると、いっそ死んでしまいたい気持ちになる・・・」

 アッシュは、あまりの衝撃に返す言葉もない様だ。

「剣姫と恐れられるグランマエストロも、戦場から離れれば一人の乙女ですね」

 断りも無く、エルフの紋章官は私の天蓋に入って来た。

「湯浴みと着替えは、私が受け持ちます。アッシュは、外の警備を」

 灰色の髪の従者が外に出ようとすれ違う時、彼女が耳打ちするのを聞いた。

「他言無用ですよ」

 私が弱音を吐く相手を求めていると、彼女は察知してやってきたのだ。まるで人の心を読み取る魔女のようだ。泥と苔の匂いが染み付いた私の服を脱がしながら、彼女は言った。

「何も、私は批判するつもりも、異論を述べるつもりもありませんよ。貴方が、降伏の意を示す王との調印を先延ばしにして、山の民たちと協働で生き埋めになった者たちの救出の陣頭指揮と執る事は、何よりも美しい行いです。山の民たちに、剣の神に祝福された新たな指導者の姿を美談と共に、浸透させる事ができるのです。貴方は好きなように振る舞い、覇業全体を補佐する私にとっても有益な事です」

「わざと言っているのかも知れないけれど、それに腹を立てるほどの気力はないわ。あるのは、行いの後悔と先行きの不安。それに黒い泥のこの臭い!鼻の奥まで染み付いて、いつまでも臭いが抜けないわ!」

「乾くと臭いが強くなりますからね。知っていますか?上流部よりも、下流部の方が臭いが強くなります。その分、水に土の栄養が多く含まれている証拠なのです」

「今の私に、何を言っても無駄だと、解っているのね。思考は読めても、心情は労らない。貴方らしいわ」

 ロロ=ノアは、湿らせた布で私の身体の泥を丁寧に拭い取る。その手つきは、繊細でいて、逆に気兼ねするところがなく、彼女が女性である事を改めて知った。

「貴方は、成すべき事が判っている。そのまま、進めば良いのです」

「私は、雨が降り始める前、自分がどうしていたのか、記憶がないわ。ただ、身体に染み付いた行動をしていたのよ。剣を振るい、敵を倒す。私が成すべき目標は、自分でも疑わない。進むべき道は、まだはっきりと見えている。だけれども、その道程には、ただひたすらに、屍が積み重なっていく。私は、何も、生み出さない。ただ、殺すだけ」

 ロロが私の頭をそっと撫で、胸に抱え込んだ。

「それは、道程の一部だけを見ているからです。貴方には、まだ更に先の道があるのです。人生の目標は、もっと先のものであるはずですよ?」

 私の瞼の内側から、涙が溢れ出てゆく。

「その先が、私には見えないのよ・・・将来の事なんて何も、判りやしないの。今の道が、そのまま未来だとすれば、私の人生は血と、脂・・・」

 嗚咽で続けられない。

「私は、蛮族の心の奥底にあるものを、おそらく誰よりも理解しています。彼らは、存続する事で、他者と自らを消し去り続ける存在です。人族の中にも、同じ性質の者たちが存在ますが、アマーリエ、貴方は違いますよ。例え、そういった者たちが貴方に争い、血と脂となったとしても、それによってより多くの者たちが救いを得るのです。貴方は、そういう星の元に生まれたのですから・・・」

 彼女の言葉が心の奥で響くオルゴールかのように聞こえ、私はまるで井戸の底に落ちるようにして眠りに引き込まれた。


 夢の中で、船が燃えていた。

 ここは、川岸にある小さな漁村の船着場だ。

 馬上槍試合の式典トーナメントの会場に着いた私は、父を失ったばかりで路頭に迷っていた。外の世界でたった一人、身の振り方に戸惑っていた私は、パヴァーヌの片田舎からやってきたハルトマンと、北の森のクルトの二人の騎士に出逢い、彼らの助力を得るに至った。二人の騎士は類まれな使い手で、今にもへし折れそうだった私の心は、確かな支えを得た。そして、もう一人、エルフの女性、男装の麗人たるロロ=ノアが、私たちを導いてくれた。

 私には、危機が迫っていた。父の死を知った周辺諸侯らが怪しい動きを示していたからだ。一刻も早く、領地に戻って守りを堅めなければならない。ロロが私名義の借金で仕立てた馬を駆り、一路、アマーリエ地方を目指して南下した。

 クルトは私と同年代の若さで、金髪を短く刻み、清潔感があり、均整のとれた逞しい体格をしている。話し方はぶっきらぼうだが、真っ直ぐな性格で親近感を得られた。ハルトマンの方は、初老の域に達しており、教養に満ち、その人生で得た冒険譚も豊富だった。白髪混じりの黒髪で、背が高く、物腰も柔らかい。これは女性としての直感だが、若い頃はきっと女性にモテたに違いがない。二人は意気投合し、まるで昔からの友人のようにすら見えた。彼らと私の関係は主従ではなく、あくまで協力者だ。騎士が婦人に便宜を図るようなものと言ったらいい。それに対し、ロロ=ノアとは雇用関係だ。彼女は、私に雇われる形を望んだのだ。支払いは、出世払いの契約で。彼女の職種は、紋章官というらしい。それは騎士・貴族らの千を超える家紋を記憶し、その顔と名と、人となりを雇い主に提供する生き字引のようなものだ。優れた紋章官は、その記憶力と教養、軍事的才覚を買われ、軍事顧問となる場合もある。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。向かい来る敵軍団に掲げられた旗の紋章から、司令官の性質を知る事ができれば、その対応策も講じやすいという理由からだ。自らを売り込みに来た彼女だが、エルフという種族の性もあってか、捉えようのない空気を纏っていた。男装の上、男口調で彼女なりの皮肉じみたユーモアを交えて語る言葉は、的を射ているのにどこか実感がないというか、言ってしまえば、当事者意識が欠けた性格なのかも知れなかった。いつもそばで話を聞いており、時折加わるのだが、心で距離を保っている、そんな感じだ。更に従者二人を加えた八人が私たちの一行だ。

 やがて丘陵地帯を抜け、出発から半日を経て川縁の村に辿り着いた。小さな村がだ、漁だけでなく、川を移動する交易路として有用な集落で、トーナメント会場への物資搬入もここから行われていた。馬が乗る為の底が平な川船も、交易で利用されていた。私たちはここから、人馬共に船に乗って南下する予定だった。しかし、桟橋に停泊していた船は、一艘残らず白煙を上げて燃え上がり、そのほとんどが、すでに沈みかけていた。

 さらに悪い事に、領地に急変を知らせる書簡を預けた配達人も、ここで立ち往生していた。彼には陸路を急いでもらうよう依頼し、私たちは他に船が無いかを当たる。

「望みは少ないと思っていたが、まさかこれほど徹底されていようとは。傭兵出身の領主というのは、戦になれば厄介極まりないですな」

 アマーリエ地方は、西方諸国の東南の外れに位置し、騎士大国パヴァーヌの他、傭兵貴族の地方領主たち、ランドバルト男爵とクリューニ男爵の土地と接していた。傭兵稼業で出世を果たし、男爵位をパヴァーヌからもぎ取った二人の貴族は、父の死を知るやいなや、トーナメント会場から姿を消したのだ。自領に戻る道は、彼らと私も途中までは同じだ。乗れる船を村から強奪した上に、余った船は小船に至るまで、火をつけて私たちの足止めを謀ったとしか考えられない。どちらの男爵の仕業かまでは判らなかったが、容赦の無い徹底ぶりだった。

 漁や商いに使う船を燃やされた村の人たちは、膝を落として嘆いていた。巻き添えを食った人々には、申し訳がないが、今の私たちには正直なところ、気遣う猶予は無い。

「私たちが、領地に戻る前に、すでに姿を消していましたから、これは姫を狙った行為とは考え難いですね。思うに、両男爵共が先に自領に戻り、早く土地を手に入れようと、互いに牽制し、競い合っているものと思います。それだけに、強行軍で進んでいるはず。仕方がありません。山道を走りましょう」

「父が守ってきた土地で、勝手にゲームを始めたってこと?許せないわ」

 私とロロ、ハルトマンとクルトと、その従者たちの総勢六騎は斜面を登り、山を抜ける道を進んだ。道といっても、岩がゴロゴロした荒れた山道のため、速度は出せない。馬の体力を見ながら、休息を減らして進む。騎士たちから購入した馬は、軍馬として調教されており、岩場の道でも力強く歩を進めてくれた。しかし強行軍も三日目の頃には、もう限界が近い事が知れた。乗馬に慣れている私でも、背骨が軋み、内股と尻がひどく痛い。なだらかな勾配でも、なるべく馬を降りて負担を減らしてやり、鞍に跨るのは平坦な道に限った。進む速度は、日に日に落ちるばかりだった。

 人界の土地とは言えども、西方諸国の端に位置し、ましてや人通りの少ない山道である。四日目の夜に、私たちは大型の蛮族、オーガーの襲来に遭った。

 白目の無いどす黒い瞳を闘志に燃やしながら、巨大な棍棒を振り回して襲いかかる三メートルもの怪物だ。初めてみた私は、驚愕して声も出なかった。その猛攻ぶりは凄まじく、唸りをあげる棍棒は、周囲の木々をも薙ぎ倒す勢いだった。

 私は、頼もしい助っ人に恵まれた事を、剣の神に感謝する事になる。

 二人の騎士は、オーガーの打撃の強さと緩慢さを悟り、従者から槍を受け取ると、盾を捨て身を躱す方法でやり過ごした。重い棍棒が戻ってくる前に素早く懐に踏み入れるや、剥き出しの身体に槍を突き立てる。しかし、筋肉の強靭さに阻まれ、内臓まで達する深傷にはならない。オーガーが伸ばした、その巨大な手で鷲掴みにされる前に、後退して次の機会を窺う。戦慣れした、冷静で危なげない戦法だった。そんな戦いがしばらく続くと、一向に戦果が上がらず、逆に身体中に手傷を負う一方の怪物は、苛立ちの叫びをあげ、身体を翻して逃げ出した。クルトが追撃しようとするが、ロロが止めに入った。

「あれだけ手傷を負えば、すぐにとって返すことは無いはず。楽な獲物と見たから襲ってきたのです。あの者に学習能力があれば、これからは少なくとも鎧を着た者たちは襲わないでしょう。それに、ここで追い込めば、どんな力を発揮して反撃して来るかも知れません。逃がしておくのが得策です」

 だが、クルトは不満を露わにした。

「今まで、この道で人には出会ってないが、道がある以上はいずれ人が通るだろう。また誰かが襲われる可能性がある」

「道すがら遭遇した、すべての問題を解決しながら旅をするおつもりですか?叙情詩の主人公のように、目的もなく時間がある旅ならまだしも、我々には・・・」

「あー、解った。もう追わないし、どうせもう、追い付かない。先を急ごう」

 二人のやりとりに不安を覚えた私の肩を、ハルトマンが優しく叩いて気遣ってくれた。

「それはそうと、先に送った配達人があやつに襲われていないかが、いささか心配ですな」

 ハルトマンの懸念に、エルフが陽気に答えた。

「八人の一行を襲ったんです。よっぽど腹が減っていたのでしょう」

 しかし、この襲撃により、夜の警戒を強めねばならなくなってしまった。騎士クルトと従者ル=シエル、騎士ハルトマンとこの時はまだ、彼の従者であったアッシュ、私とロロの順番で見張りを務めることになった。

 当直の番が来た。クルトに揺さぶられて目が覚める。遠慮の無い起こし方に、不思議と不快感はなかった。ロロはその気配だけで起きたようだが、実際のところ彼女が熟睡していたかどうかは私には判らない。半目だけ開けて寝ているような、そんな芸当すら彼女ならできるのではなかろうか?

 明け方。季節は春になったばかり。頬に寒さが染みる。

 クルトから毛布を受け取ると、ロロと二人で見張り番に着いた。夜明け前の空にはまだ星が煌き、焚き火の音だけが、静かな闇の中に溶けていく。ロロは焚き火が苦手、という不思議な理由で、焚き火の番は私がする事になった。炎を見ると、しばし闇が見えなくなるので、そのせいかな、と思う。勝手な印象だが、私よりも彼女の方が夜目が効くようだと、ぼんやりとした頭で思い、私は仕事を受け持つ。

「覚えておいでで?オーガーは、無傷でした」

 二人を起こさないよう、小声でロロが話しかけてきた。私は炎を反射する、美しいオレンジ色の瞳を見返す。

「手傷を負わせたのは確かなはずですが?」

「それは別れ際の話です。私が言いたいのは、出会い際の話です」

 起こされたばかりの私は、まだ頭が回っていなかった。彼女の言いたい事を察するまで少し時間を要した。どうやら、先行しているはずの男爵の一行とも戦闘にならなかった、と言いたいらしい。

「もしかすると、男爵らは二組とも、船で南下している可能性があるのですね」

「その場合、差は大きく開きます」

「・・・どれくらいでしょう」

「降るだけならば、丸一日で到着しているでしょう」

「そんなに早く!?」

「川は男爵たちの領土まで最短ルートで流れています。山と違い、平坦で休む必要も無く、勝手に進むのです。風に恵まれれば、速度は平地をゆく馬にも劣りません」

 遅くとも、男爵らは一日前にトーナメント会場を出発している。とすれば、私が自領に到着するまで、一週間近くの遅れをとる事になる。

 不安は茫漠としたものでしかない。父の死はつい数日前の事、それまで私は剣術と家庭教師の学習に没頭しており、外の世界の事を真剣に考えていなかった。いわば、箱入りなのだ。そんな私が、他勢力との戦争になるかも知れない状況など、実の所、頭では漠然と理解しているが、実感というか、肌感覚的な部分でまだ理解が及んでいないのだ。

 考えても、仕方がないわ。私は一息入れて、話題を変えた。

「少し、無駄話をしましょう。私はまだ知らない事だらけ。例えば、貴方の故郷はどこ?」

「そう言えば、雇用主に詳細なプロフィールをまだ、お伝えしていませんでしたか。そうですね、ここより遥か遠く、とても深く広大な、昼なお暗い森の奥です」

「意外ね。エルフの森と聞くと、楽園のようなイメージだけど」

彼女は珍しく、ふふっと楽しげに笑う。

「楽園ですか、まさにその通りですよ。暗い、というのは人間の目線での話です。私たちの感覚は、他種族には理解できないようなので、何とも伝えようが無いのです。数多の精霊に溢れ、森全体と調和した意思と無意識が交差した超然でいて、不安定な世界、といった表現になるでしょうか。言って仕舞えば、騒がしい森でした」

 彼女の言い様が、心に引っかかる。まるで居心地の悪いような言い方だ。そして過去形なのも、気になった。

「その森での生活は、どんな様子なの?」

「調和のとれた世界です。畑は作らず、自然を食し、狩りで小動物も捕らえます。罠は作らず、主に弓矢を使います。ふむ・・・。いざ言葉にすると、まるで蛮族と変わらない生活ですね」

 美しく知的な種族が、そんな不便な生活をしているかと思うと驚きだった。

「原始の暮らしを守っている、という感じかしら?貴方は、以前、自分のことを古エルフと名乗ったわね。それは、従来の集団と新興集団があるということ?」

 焚き火の灯りを受けて闇の中に浮かぶロロ=ノアの姿は、どこか儚げで夢現のようでもあり、本当はここにおらず、どこか別世界にいるのではないか、という錯覚さえ覚えた。故郷から遠く、一人で人族の世界を生きる彼女は、いつもより少しだけ優しげな口調で語り続けた。

「意味としては、古いというそのままの意味です。本当に、古い種族なのですよ。西の諸国で見かける同族は、おっしゃる通り新興と言いますか、むしろ分岐した別の種族と言ってしまってもいい位です。・・・差別や偏見的な意味ではなく、存在として異なるほど差異があります。古エルフの生活は、原初よりの暮らしを守っています。効率を求めないのは、性でもありますが、頼る必要もない、というのが今思えば正しいのかも知れません。森の隅々まで意識が及ぶ世界で、狩りに苦労する事などありますか?」

「あはは。流石に、私には意味が判りかねるわ。ただ一つ、確かに言えることは、かくれんぼでは、楽しめそうもないわね」

「あぁ・・・実はやりようがあって、私はこれが得意だったのですが・・・まぁ、この辺で勘弁してください。苦い想い出、というものが誰しもにあります故」

 彼女の口調は、いつの間にか、いつものはっきりとした滑舌に戻っていた。それにしても、静かな夜の森で聞く彼女の優しい声色は、とても心に滲みる魅力ある声だと思った。

「そう。とても興味があるから、残念だけど、お察しして止めとくわ。いつかまた、その“感覚“の話を聞かせてね。とても興味深いわ」

「私にも業務上、秘匿事項があります故、その業務に差し支えない範囲でしたら」

 優雅な仕草で頭を下げ、片目を瞑る。

 どうやら、彼女の鋭い感性はそこいらへんに由来しているらしい。彼女の秘密を一つ得たとこで、今晩は満足しておこう。昔話を聞かせてくれた彼女へのお礼に、焚き火で温めた“香草湯“を振る舞った。なんて事は無い、そこらに自生している香草を摘んで湯に入れただけだの粗茶だが、この数日で、彼女は香草好きである事が判明していた。想像通り、彼女は喜んで茶を啜った。この不思議な女性の秘密を、私は一つひとつ解き明かしてゆこうと、密かに心に誓った。


 明け方の冷気が筋肉を硬らせ、疲労の回復を遅らせる。木々の合間に朝焼けの光が刺す頃、体を温め、柔軟を取り戻すために軽く素振りの稽古をしてから、皆を起こした。

 そして、それから二日後の朝。自領の境の村に着いた時には、私は言葉も出ないほどに疲弊していた。川船ならば丸一日の距離が、すでに七日が過ぎていた。


 繰り返しになるが、アマーリエとは、クラーレンシュロス伯爵家が治めるこの地方の名だ。ルイーサが私の名前となるが、私はこのアマーリエという響きが好物のスモモを連想させてくれて、とても気に入っている。別段、意味はない。語源だとかではなく、私が勝手に抱いている印象だった。故に誰に理解を求めるつもりもない。ただ、好きなのだ。だから、私を呼ぶ時には、できるだけアマーリエの名で呼んで欲しいと思う。三十三人のクラーレンシュロス伯爵家に仕える騎士たちに対しても、私は十六の生誕祭の席でそう宣言した。今思えば、いい歳をして何とも子どもっぽい事を言ったものだ。大人には、実年齢よりも若く見られる外見の私の、そのあどけないお願いに対し、参集していた騎士たちは「郷土を愛する心の表れ」と称し、笑顔で賛同してくれたものだ。だが、実際はなかなか難しかった。慣れの問題というよりも、父と同じ名を呼ぶ事の複雑さ、礼節やらの問題が強かったのだろう。そんな中でも数人の騎士たちは、私の希望を叶えてくれた。北端の地を守る灰髪の騎士ミュラーも、その一人だった。彼は職人の生まれで、武道よりも歴史が大好きな文人といった印象だったが、正義感が強く、十歳の時に村外れで、当時問題となっていた人攫いの蛮族どもと偶然出会した際、近くにあった錆びたスコップで戦った。頭目の両目を潰し、終いには喉を刺したという、らしからぬ奮闘ぶりだったが、父は彼に天賦の才を見いだしたらしい。すぐに騎士の称号を授けると、稽古をつけ始めた。私と彼はしばらくの間、稽古仲間となった。五つ上の庶民出の騎士は、武道ばかりで成長した少女の憧れにはならなかったが、何でも話せる兄弟のような間柄であり、彼からは沢山の“退屈な“歴史の話を聞かされ、代わりに私は彼に足らない剣技のひと工夫を教授してやった。


「よくぞ無事で!アマーリエ!知らせを受け取り、気がきでなかったよ。お父上の事も・・・お労しい。それにしても、ひどく汚れていますね。はは。昔を思い出しました。まずは我が家までどうぞ、先導します」

 オーガーの襲来からも無事に逃れた配達人の手紙が、ミュラーの元に届いていた。彼は甲冑を纏った姿で、武装した従者を連れて、村の境界まで出迎えて到着を待ってくれていた。

「配達人には、金を渡し別の騎士のもとへ行くよう送り出したよ。僕の方でも、近隣の同志に使いを放ったけど、まだ返答はないんだ。クリューニ男爵が攻めるとすれば、まずはラバーニュ卿の砦を手始めとするはずと思い、そこへは一番に使いを出した。すでに報告が戻って来ている」

 彼の屋敷までの道中、トーナメントで出会い助力を誓ってくれた新たな騎士たちと、参謀を担う紋章官を紹介するやいなや、彼は次々と近況を話り始めた。道中の苦労話を訊ねたり、まずは、お体を清め、英気を養い云々・・・とはいかないのが、この男の秀逸な部分だ。幼少期を一緒に同門として過ごした事もあり、彼は私に対しては、礼節よりも先に、実をとる。私と彼とは馬が合うのだ。

 彼の話では、我が伯爵領傘下の騎士、ラバーニュ卿が守る境の砦は、すでにクリューニ男爵軍に包囲されており、使いは近づく事ができなかったという。しかし、包囲の兵の数は少なく、砦を落とすには、兵糧攻めしかない様子。

 さらに、ミュラーの見るところ、両男爵の軍備にも完徹でない要因がいくつかあるとの事だ。それは、長年の間、互いの領土を脅かし合っていた両男爵だが、近年は膠着状態が続いたために軍費縮小を図っていたこと。トーナメントに男爵らの他に、父を含めた周辺諸侯らも参加する事を知って、軍備に油断があったことだと言う。だが、むしろそれよりも油断をしていたのは、伯爵領騎士たちの方だとも、彼は修正した。

 私は、歴史ばかりで兵法に本腰を入れないミュラーが、まさかそこまで男爵らの動向を注視していた事を想像だにしていなかった自分に気づいた。国境を守る、という事はそういう事なのだろう。その働きによって、私は今まで平穏に暮らせたのだ。家徳を継ぐ事などつい数日前まで、実感を抱いていなかった私は、何とのん気なものだったのか。

「領内の砦の兵と、追加で動員できる兵の数は?」

ロロが割って入る。

「北の砦に傭兵五十ほど。南の砦に同じく六十です。有事と知れば、騎士たちが日頃から訓練を施した民兵たちを、ハロルド卿が守る城砦都市に参集させる手筈になっています。その総数はおよそ千。そして、我ら三十三名の騎士がおります」

「少ないですね。両男爵とも、それなりの兵を持っていたはずでは?」

 即答する紋章官の冷徹な声に、ミュラーは臆せずに返答する。

「亡きハインツ様は、両男爵はおろか、パヴァーヌとも不戦協定を結んでおられました故、常備兵の数は抑えておいででした」

 不戦協定だけが、抑止力では無かった。父は武門の雄として、周辺諸国に名を馳せていたのだ。さらに言うならば、恐れられていたと言ってもいい。四十年前の蛮族たちの大侵攻の際、十代の若さで初陣した父は、祖父から受け継いだ魔剣を掲げ、獅子奮迅の働きを見せたという。半ば伝説と化した存在そのものが、抑止力足り得た。それを失い、跡目を継ぐ私の心の有り様もさもありなん、配下の騎士たちの心も推して知るべし。

「両男爵とも、かつては二千に近い傭兵を雇っていましたが、近年は数を減らし、半数程度であったようです」

「減らした、という理由をもっと深く考えるべきです。長年、膠着が続き戦果を得られず、年俸の払いに窮したからでしょう。稼ぎが悪い状況が続き、略奪に飢えた傭兵たちが二千以上、という事になります」

 ロロの想定に、ミュラーは慌てて異論を呈す。

「まさか、全兵力を我らが地に向けられるはずは有りません。せいぜい、その半分、といったところでは?」

「それは、どうでしょう・・・」

 ロロはそれだけ言って、口を閉ざした。


 ミュラーの屋敷は小さな砦を兼ねた、機能重視の質素なものだった。所々に彼の趣味を反映して、化石や古文書が飾られてあったが、決して華美な調度品はなく、倹しくも清潔で整った彼の人柄を知れる住まいだった。最も、化石や古文書の価値が判らないだけ、かも知れない。実はとんでもない大金を注ぎ込んでいる可能性は、否定できなかった。

 彼の従者と使用人たちが、浴びせ湯と清潔な着替え、暖かい食べ物とを用意してくれた。彼にして、よく気の利く側仕えたちだ。強行軍を続けた私たちには、何より喜ばしいものだった。ゆっくり疲れを取りたいところだが、努めて手早く、それらの恩恵を噛みしめると、食しながら今後の方針を議論した。

 まずは、民兵を募り、騎士ハロルドが守る砦に向かう。伯爵家の居城に次いで、重要な防衛拠点となるハロルド市は、典型的な城砦都市だ。周囲六キロに渡り、低いところでも五メートルの城壁に守られている歴史の古い街で、祖父がこの地を領有する前から存在し、幾度もの戦乱にも耐えた難攻不落の砦である。ランドバルト軍、クリューニ軍とも、どちらの軍勢に対応するにも都合の良い位置にある。何より、周辺の騎士領で鍛えられた千の補助兵を編成、運用する仕組みが彼の地ではすでに仕上がっている事が重要だった。

 補助兵とは、父の発案で始めれた民兵組織で、人頭税を免除する代わりに定期的な訓練と合同演習、有事の際に限っては無期限の兵役が課される領民たちのことだ。武装も居住地域の騎士たちが、全て用意している。そこで軍を編成し、クリューニ軍に包囲されている北の砦と、恐らくランドバルト軍の襲来を受けるであろう南の砦に対し、救援軍を派遣する事になろう。

 身支度を整え、糧食と水を補充し、綿入れの防具を着込み、矢を携えて出発する。必要に応じて売却し軍資金とする家宝や天蓋などの重量がある物は、荷馬車に載せて使用人たちが後から届ける事にする。荷馬車の護衛の為にミュラーの領民から志願を募った。私たちは、馬のみで先を急ぐ。

 道中、敵影を見ることもなく、三刻ほどでハロルド卿の砦に到着できた。私と見るや、血縁に当たる城主は慌てて門を開き、出迎えてくれた。

「よくぞ、戻られた!一時はどうなる事かと心底、心配しましたぞ!」

 ハロルドは膨よかな体型のためか、どこか愛嬌を感じさせる年配の騎士だ。最後に見た時よりも、すっかり頭頂部が寂しくなっていた。彼は頬を赤らめて涙ぐみ、私を抱擁で迎えてくれた。

 戻ってこれたよ、ハロルドおじさん。どうなることか、自分でもとっても心配だったよ。声に出すと泣いてしまいそうで、私は心の中で語りかけた。

 だが、ここで聞く状況は私たちの気持ちを暗くさせるものだった。南の砦はランドバルト軍に破られ、小隊に分かれた傭兵たちが、領土を蹂躙し始めているらしい。クリューニ軍と対峙する北の砦はまだ健在だが、敵は包囲に半数を裂き、残る半数を侵攻させ村々を占領しているという。物見櫓に上がると、地平線に沿って、もやのような煙があちらこちらから立ち昇っていた。

 さらに悪い知らせが、私を絶望させた。私が送った配達人の書状はミュラーから先へは届いておらず、彼が独自で送った侵略の警戒を告げる伝令だけが、騎士たちには届いていたらしい。憶測だけが錯綜する中、世継ぎとしての宣誓をまだ行ってもいない状況のアマーリエを、軍指揮官としては迎えられない、と言い出す者が出ているという。こんなんでは、補助兵の集結もままならない。この城砦に送られてきた補助兵は、二百人程度でしかないというのだ。

 伯父ハロルドは、使いを四方に放ち、敵の急襲を逃げ延びた騎士たちに、独自の判断で行動せぬよう諭し、アマーリエの帰還に備えてクラーレンシュロス城の守りを固めるよう促したという。果たして、どれほどの騎士たちが伯父の使いに賛同してくれよう。

「物見の話では、両男爵とも、守りの固い街は相手にせず、軍事的空白地を奥地まで浸透して来る様子。ここの守りは、民兵たちもよう訓練されております故、きっとよく持ち堪えましょう。さすれば、北の砦同様、無理に攻め落とそうとはせぬはず。アマーリエ嬢様は、お城にお戻りください。頼りになる者どもが、お帰りを待ち望んでいるはずでございます」

「あなたは、どうするのです?一緒に城に向かいましょう。どうか、お早く」

子どもを諭すように、ハロルドは私の肩を優しく叩きながら言った。

「剣の腕は凄まじくても、まだまだ軍略にはお疎いご様子ですな。それでは、父上殿も落胆なされます。半日もすれば、クリューニの先鋒部隊が到来するでしょう。ならば、夕刻までには、ここを立たなければなりませんぞ?砦に人が居れば、敵は無視ができません。誰も居らねば、遠征軍はここを拠点に一息つけるというもの。相手が嫌がる事をしてやるのが軍略というものですぞ」

 と言うと年甲斐もなく、いたずらっ子のようにニッと笑ってみせた。だが、長い付き合いの私には、そんな伯父の気持ちが透けて見えてしまうのだ。

 ロロが意見を挟んだ。

「略奪を控えているということは、領民にとっては朗報です。ですが、姫にとっては凶報なのです。なぜなら、永続的な領有を前提に行動している、という証だからです。各個撃破される危険を冒してまで、兵を分散化している事から、両男爵は、互いに先に占領した地の領有を認める協定でも道中に、あるいはグリッティ卿の死を知った直後に結んだのかも知れません。両者が争う状況は、まだ見受けられないのですよね?」

 グリッティ卿とは、父を失った直後の私が、庇護を求めた有力貴族だ。

伯父は憤然と答える。

「何と不埒な奴らめ!傭兵上がりの僭称者共が。むぅ。まだ、両軍がかち合うほどに浸透してはおらぬが、これで色々と合点がいきましたぞ。きっと紋章官殿の申す通り。じゃが、飢えた野犬同士の同盟は長続きなどしませぬ。きっと隣の芝が青く見え始め、共食いを始めますぞ。さぁ、早く城へ帰還なされませ。私めもこれから街の住民から志願兵を募らねばなりませぬ。千人ほど集め、武装を施し、編成し、防戦の手解きもせねば。やれやれ、忙しいのです。反抗の時までこのハロルド、何年でもこの城砦都市を守り通して見せますぞ!」

「ハロルド・・・」

 ハルトマンがやんわりと、私の肩に手をかけた。

「御身の領土の騎士たちは、新たな主の姿を未だ拝めず、この混乱に一層の不安を抱き、一丸で当たる結束を欠いている状況です。まずは、御身をして主君の宣誓を行い、下知せねば回る歯車も回りません。せっかくの勇壮な騎士たちが、遊兵のまま終わってしまいますぞ」

 私は、私にしかできない事を優先すべき、という話だ。ハルトマンの誘導はその人生経験を反映し、角も立たず、逆らえ難しものだった。

 後続の民兵と物資は、このままハロルドに預ける事にした。私たちは再び馬上の人となり、矢狭間から手を振る伯父に再会を誓った。

 ハロルド市と二角を成すクラーレンシュロス城へは、馬を飛ばして一刻半で着く距離だったが、馬の疲労が目立っていた。強行軍が続いた馬に一息入れさせようと、途中の村で半刻ほど休息をとる事にした。従者たちが水を飲ませ、飼葉を与える。領民が休憩場所として家を提供してくれた。その質素な居間に入るや、私は床に座り込んだ。ミュラーが椅子を進めたが、もう、立ち上がるのも億劫で断った。

 心底、疲れた。

 それにしても、男爵たちとの差は七日程度だったはずなのに、この侵攻の速度には驚くばかりだ。戦慣れした彼らを敵に回す事が、これほどまでに恐ろしい事とは・・・開け放たれたままの民家の扉から、虚に揺らめいて見える村に、オーガーの群れが現れ、逃げ惑う村人たちに襲いかかり始めた。勇敢に立ち向かう男たちは、奮闘の甲斐なく薙ぎ倒され、女、子ども、老人に至るまで容赦なく・・・扉の外に集まった女性たちの声で起こされ、自分が床に座ったまま眠っていた事に気づいた。

 戸口を出ると、不穏な噂を聞きつけた領民らが、城で匿って欲しいと嘆願しに集っていた。民たちは自らの境遇に敏感だった。そんな彼女らの安全を補償してやるのが、領主の務めなのに。今は希望に叶う答えを用意できない。

「落ち着いて聞いて。いい?城は戦場になるから、大人しく家で待機し、敵が来ても抵抗せずに従うよう。抵抗すれば、傭兵どもに略奪の機会を与えてしまいます。従順な振りを演じるのです。できますね?」

 そして、この事をできるだけ広くに伝えて欲しいと言い含ませた。

 ふと、赤子の鳴き声に気付いた。不安そうな顔で私を見つめる母娘がいた。生後まだ間もない、柔らかそうな赤いほっぺ。ハロルドを思い出し、束の間心が和んだ。名を聞くと、まだ無いのだと言う。私は自分の携行食を渡した。

「今はこんな物しかありませんが、どうか良い乳が出ますように。戦が落ちついた時に、まだ名前が決まっていなかったら、私が名付け親になっても良いかしら?」

 母親は喜んで、お待ちしておりますと返して来た。私は精一杯の笑みで、再会を約束した。騎士たちは、村人たちにいつもの生活に戻るように告げながら、颯爽と騎乗した。

「ご立派なご対応でしたぞ。君主の血は、確かに流れておいでだ」

 ハルトマンが馬を近づけ、片目を瞑る。流石に明るく応える気持ちにはなれなかった。彼は、私を励まそうとしてくれている。それは分かっていたが・・・風を受けた両目から涙が出そうになり、私は馬の脚を速めた。


 かつては、“光り輝く館“として諸侯に威風を知らしめた我が家は、決して大きくはないが堅牢な造りの城館だ。十の尖塔と百の部屋と千の灯籠を備え、夜には大理石の壁にその揺めきを反射させ、幻想的な姿を闇に浮かび上がらせる。この城館を建造した先々代から、家門の名が改められて今に至る。まだ半世紀しか経っていないというのに、夜半に到着し見たその姿は、風前の灯火に揺れる我が家を暗示しているかのようにも思えた。

 到着するや、知らせの鐘が鳴り跳ね橋が降りた。城門広場には、軍馬や物資、従者や周辺住民が集まり、今まで見たこともない混雑ぶりだった。甲冑を着たまま夜を過ごしていた騎士たちが、慌てて駆けつけ整列する。古参の顔ぶれが目立つ。しかし、その数は二十名に欠けるほどしかいなかった。

「すぐに宣誓の儀を行う。謁見の間に集合せよ!ボードワンはいるか?儀仗をもて」

 矢継ぎ早の指示は、道中にロロと打ち合わせていた通りに行った。私たちは、謁見の間の玉座に直行する。司祭格を持つ神官騎士ボードワンに進行役を務めてもらい、家宝の剣と共に家徳を継ぎ、国を安んじる勤めに身命を賭すという、君主継承の誓いを立てた。略式も良いところだったが、騎士たちに異論を唱える隙を与えない事が、何より優先すべき事だった。つい先日まで世間知らずで蒙昧無知だった貴族令嬢の早業に、一同は面食らった様子で、忠誠を誓うかしづきも、慌てて対応する有様だった。幸い、参集者たちからは、意義は出なかった。ここまでは、ロロの思惑通りだ。

形式上、最低限必要と思われた最高軍司令官を意味する儀仗をボードワンに返し、すぐに軍議を開いた。

 ここまで護衛してくれた新顔を皆に紹介し、参集した騎士たちの点呼を始める。城に参上した騎士は十九名。ハルトマンとクルト、ミュラーを合わせれば二十二名の騎士と、その従者たちが当面の戦力となる。八名の騎士たちとは音信不通だった。

 次は情報収集だ。四日前に両男爵の軍が呼応するように領土を侵犯。ランドバルトの軍が忍びを用いて、南の砦を開門させ、一夜のうちに陥落せしめる。以降、ハロルド城砦へは向かわず、部隊を分けて領土の南側への進路を取り、外壁を持ち抵抗する街は迂回しながら深く侵攻している様子との事。南の砦を攻めた際には、二千近い兵がいたという。

「損耗を避け、速攻で持って領有の既成事実をつくる腹づもりかと」

 騎士オランジェの見解だ。後ろ脇に控える紋章官を見やると、軽く頷き返した。騎士たちが、そのやりとりを見て、あからさまに怪訝な表情を見せる。ロロも私も、オランジェの認識には同意だったが、本質はもっとシンプルで屈辱的だ。男爵らは、競争しているのだ。どちらかが、より多くの土地を奪い取れるか、というお遊び感覚だ。

 北の様子は、ミュラーとハロルドから聞いたものと変わりは無かった。

「北も南も、どちらとも目立った略奪行為はない様子ね。でも、それも今のところの話でしょう。抵抗の意思を見せ、対応を後回しにされた町にも、やがて集結した攻め手に襲われます」

 一瞬、言葉の先を思うと気持ちが揺らいだ。間髪おかずにロロが言葉の先を埋める。

「その時は、きっと見せしめとして、手酷い仕打ちを受けるでしょう」

 騎士たちは低く呻いた。

「対応を考えるのは後です。まずは正確な情報を集めましょう。両陣営の兵を知る騎士殿はおられませんか?」

 ロロの催促に、ポツリポツリと声が上がる。

 クリューニの兵は千から二千。魔術師の部隊がいるらしい。半数は北の砦を包囲し、半数はハロルドを包囲する為、進軍中。だが、ここで事前に騎士たちが城から発していた物見の報告が入り、クリューニ軍千が、ハロルド城砦を通過、この城を目指しているらしいことが判明する。これに、騎士たちは騒然となった。

「ハロルド卿は、素通ししたというのか?」

「沈黙を装って、後背を突く算段では?」

「よもや、寝返るつもりでは!」

 ロロ=ノアは片手を挙げ、怒声が収まるのを静かに待った。それは、私の発言を促す合図だと悟る。

「私たちは、ハロルドの城市を経由して、ここに来ました。彼とは直接会い、今後の方針を協議しました。私の伯父に、他意などあろうはずもありません。それよりも、皆の補助兵は何処へ行ったのです?城市には、二百の兵しか集まっていません。今、ハロルドは民兵を募り、防衛の準備に奔走している頃でしょう。城門を開いて迎撃に出せるほどの戦力は、今、あの砦にはありません」

 これに騎士たちは、さまざまな言い分を述べた。補助兵の編成完了までは時間がかかりすぎるため、配下の者に任せて来た、という話が多かった。ロロがざっと、暗算したところによれば、ハロルドに二百、この城には五十は援軍の予定が見込めるらしい。他は、それぞれの自領の防衛に当たる指示が出されている。

「遺憾ながら、この状況では、補助兵のほとんどが遊兵です。敵が散らばっているうちに、早急に集結を図るべきです。遅れれば、各個撃破されるだけです」

 指揮官となる騎士たちがいないのだから、補助兵たちも右往左往している事だろう。かと言って、補助兵の編成を優先していたところで、騎士たちがそれぞれの自領で各個に足止めをくらい、敵に囲まれてしまう事も自明だ。そもそもにして、彼らの初動の遅れは、総司令となる領主の欠如が原因なのだから、彼らだけが責を負うのはお門違いだという事は、私にでも理解ができた。

 私には、考える時間が欲しかった。しかし、その前に確認しておくことがある。

「我が家に仕える騎士たちよ。敢えて告げます。今後、己が家族や領民よりも私への忠誠を優先する事ができぬという者があれば、何も告げずにここを去りなさい・・・一刻の猶予を与えます」

 私が椅子を引くと、大きな音となって広間の石壁に反響した。騎士たちは微動だにせずに沈黙していた。私は背を向け、自室へと退席した。


 懐かしい匂いがした。

 暮らし慣れたこの部屋の匂いが、枕のレースが、椅子の配置が、化粧台の小物たちが、とても愛おしく思えた。白樺を削って作られた沢山の動物の置物や、高価な石絵の具を惜しげなく使った青い花の絵画など、どれも私のお気に入りばかりだった。中でも、寝台の天幕のレースは、私が十五の折に父から頂戴したとても貴重な品だ。これほど大きく立派なレースは、中原の大都市の市場でも珍しいと聞いた。寝台の脇に跪いて、上半身をふかふかの綿に埋める。私は、毎日、ここで寝ていたのだ。今では、懐かしいとさえ思える。

 ひどく、疲れた。

 この部屋を出発した二週間前の自分と、今の自分とでは、別人のようだった。

 何処か、別世界の誰かと入れ替わってしまったのだろうか。家宝の剣を売ろうとしたり、見ず知らずの諸侯に泣きすがったり。初めて見たエルフの女性や、素性も知らない年上の騎士たちを従えて、巨人と戦ってみたり。

 この部屋から見える景色は、いつもと変わらない平穏な世界なのに。私だけ、どうかしてしまったのだろう。目を開けば、父が私を起こしに来てくれるだろうか?

侍女たちが、騒ぐ声が聞こえた。

「ご当主様、お嬢様は今安らかにお眠りでございます。どうか、そのままにしておいてくださいまし」

 ふふ。父は、そんな静止を一度でも聞いた試しはないわ。

「トーナメントに出かけるぞ、ルイーサ、今回はお前も来るのだ」

「騎士たちのお祭りですね!?私も行ってもいいの?ほんとですか?」

 私の胸は、まさに躍り出さんばかりに高鳴った。

「もちろんだ。さぁ、支度をしなさい。昼には出立する。替えのドレスも忘れずにな」


「眠っているほど、時間はありませんよ?」

 譲歩を許さない意思に満ちた、しかし演劇の主演俳優かのような美声。

 私は、大きく息を吸い込んだ。渇き切った喉がひゅーと音を立て、咳き込んだ。

「サンチャたち、甲冑を着せて」

 扉の外で私の様子を伺っていた侍女たちは、はっと慌てて支度を始めた。幼い頃より武芸を叩き込まれていた私の着替えのレパーリーには、全身甲冑も含まれていた。

 侍女は、私の前に立つと戸惑いを露わにした。

「この簡易ドレスのままでいいわ。上から綿入れを着せて・・・どうしたの?」

「いえ」

 幼い頃から私の世話を焼いてくれた侍女のサンチャは、何も言わずに私の頬を自分のハンカチで拭ってくれた。私は、ずっと涙を流していたのだった。

 だめだ。止まらない・・・。

「気にしないで続けて。ロロ、着替えながら話しても?」

「もとより、そのつもりです」

 彼女の口調は、全くいつも通り。いつか、この麗人の取り乱す姿を拝んでやりたい。

「せっかく宣誓をゴリ押ししたのに、忠誠を試すような事をして、失敗したかしら?」

「彼らにも、覚悟を決める時間は必要でしょう。外出中のご当主の訃報を風の噂で知るや否や、傭兵どもが疾風の如く侵攻してきたのです。ですが、騎士と民とは根本が違うはず。確かな指標さえ示せば、命も惜しまず粉骨砕身、戦い抜くことでしょう。むしろ、時間が欲しかったのは、あなたでは?」

 綿入れの止め紐を三人がかりできつく縛られ、流石に体が左右に揺らぐ。

「心に決めたものは、あります。でも、落ち着いて確認したかった。もう、失敗したくありません。そのために、あなたとも静かな場所で話したかった」

「どうぞ、何なりと」

 もう、見慣れたが、こういう時の彼女の仕草は、とても優雅で、そして嫌味なほどに芝居がかっている。

「ここでいつまで、籠城できるかしら?」

「敵が集結するまでの・・・およそ、二週間程度までならば」

 侍女たちの手が一瞬、止まった。彼女たちとて、心底恐ろしいのだ。

「補助兵を集めて回ったとしたら?」

「三百人程度で守れば、兵糧次第ですが、四千の兵に囲まれても、半年は堪えましょう」

「ハロルドに戻れば?」

「騎馬のみ、ならば敵の包囲を突破できましょう。ハロルドには、都市機能がありますから、二年は持つかと」

「援軍の見込みは無いわ」

「代わりに、男爵らには、パヴァーヌ王の後ろ盾があります。難攻不落と知れば、王に援軍を求め、自らは新しい領土の地固めに専念し始めるかも知れません」

「ハロルドを諦めて?」

「王ならば、傭兵から成る自軍の損耗はあまり気に留めませんでしょうが、男爵たちはその実、傭兵隊長です。兵力こそが彼らの力の全て。減るのは自分以外の兵でなくてはなりません。彼らとて、男爵位を王からもぎ取るくらいです。後から軍事的圧力で何とでも成る、と目論んでも不思議ではありません」

「教皇や皇帝軍に介入を乞うては?」

「教皇は魔剣の神々の神殿を統括する精神面での指導者ではありますが、蛮族が絡まない封建領主同士の争いには、不介入が原則です。神殿騎士たちへの影響力も強く、味方にできれば百人力ですが、現状では希望薄です。同じく、神殿の権力に頼らず、俗世の王侯たちが蛮族たちの侵攻に対し、自らの旗印としたものが皇帝軍ですが、これも蛮族あっての団結に限られます。皇帝も本来の役目が無い間は、領主の一人に過ぎません。下手に介入を許せば、パヴァーヌよりもタチが悪い事があるやも」

「私が、いなくなれば?」

「!お嬢様、いけません」

 侍女たちの心配は、心から愛おしく思える。

「サンチャたちは、この後すぐに服を捨てて、実家に戻るのです。決して、城に残らないように。誰一人として、です。これは、命令です。」

 心に届くように、しっかりと目を覗き込んで、そう言い聞かせた。

 物心が付いた時から、ずっと私の世話を続けてくれた彼女は、しばし私の目を見つめ返すと、しっかりとうなづいた。

 それを待って、ロロが話を続ける。

「まさに、相手が最も危惧している行動です」

「じゃ、これもハロルドに言わせれば、軍略のうちという訳ね」

 将来を決める大事な選択だ。これより私は、エルフの女性に全てを託す事になる。私はひと呼吸を置いてから、一語一句、噛み締めるように、ロロに問うた。

「あなたは、二年あれば、この私を、故郷奪還が叶うに値する、実力ある君主に育てる事ができますか?」

 再び、侍女たちの手が止まる。私の顔をはたと見て、次に美しいエルフの方へと目線を移した。

「お代は、高くつきますよ?」

「望むままを与えます」

 自らを古エルフの紋章官と語る女性は、ほほ笑みを浮かべつつ、恭しくも華麗にお辞儀をして見せた。

 私はこの、彼女の冷めたナイフのような底知れぬ野心に、自らの命と、騎士たち、領民たちの将来を賭けるのだ。このような境遇の私に、優美な振る舞いで返答できる精神の持ち主に。

「最後に聞くわ。このままハロルドに向かう道と、再起を図る道。どっちの方が、多くの死がありますか?」

「後者です」


 自室の扉の外に、ハルトマンとクルトが待っていた。新参者は、居場所が無いようだ。彼らを連れ、全身甲冑に魔剣を携えた姿で、騎士たちの待つ謁見の間に戻ると、議論紛糾していた騎士たちは、しんと静まり、私の所作に注視した。

「補助兵たちを解散させ、民たちに抵抗を試みないよう伝えなさい。今ある食料と財産を求められるまま、渡しなさい。急ぎ新たに開墾し、冬の備蓄を作り、飢えに忍び命を長らえるのです。残る騎士たちは、私と共に東南の辺境に向かいます。そして二年の後に、軍を率いハロルドの城市をはじめ、アマーリエ全土を奪還します!」

 私の宣言は、広間の隅々まで反響した。


 目を覚ますと、アッシュが心配そうな顔で私を見つめていた。

「大丈夫よ、看病されるほど衰弱してるわけじゃないから」

 私が笑顔を見せても、彼は心痛な面持ちを変えなかった。

「しかし、もう毎日、このような状況です。今し方も、うなされていました」

「昔の夢を見ていたの。何でもないわ」

 あれは、“昔の夢“ではない。“一年前の記憶“だ。

「・・・お香を焚いたの?」

 天幕の中には、ほんのりと甘い香草の香りが漂っていた。私が使うものでは、ない。

「紋章官殿が焚いておられました。丁度、今し方、燃え尽きてしまいましたが」

「ロロは?」

「姫を起こさないように、と私に告げて出てゆかれました」

「そう・・・まだ、寝るから、貴方も寝なさい。そこで寝て良いから・・・」

 言い終わる前に、眠気がまたやってきた。まどろみの中で、騎士たちのどよめきが耳元に蘇る。彼らも、すぐには了承しなかった。その時の私は、もはやこれまで、と観念したものだ。だがしかし、彼らは結局のところ誰一人欠ける事なく、ここ辺境までついて来てくれた。彼らと長く顔を付き合わせた今ならば判るが、男たちは兎角、問題点を晒し出す。あれやこれやと、次々とまるで揚げ足を取るかのように。だが、それはあくまで彼らにしてみれば、貢献なのだ。問題点を洗いざらい曝け出し、未来に来襲するであろう支障をひとつでも多く対処しておきたいのだ。言い換えれば、石橋を見ても叩いて点検したいのが男であり、石橋と見れば安全だと、たかを括るのが女なのである。友人を信用してしまうのが男であり、愛する者しか信用しないのが女でもある。実のところ騎士たちは、私と私の決意については、発言と同時にすでに了承済みだったのだ。今になって、改めて考えると彼らの清々しさに敬服するばかりだ。

 再び、覚醒してきた。明日の事を考えよう。

 泥を掻き分けての救出作業も、明日で四日目になる。もはや、昨日の段階で生存者は見つからなくなっていた。山の民の王と、領有に関しての話を再開する時だ。

 桃色の毛の無名剣士とも、決着を着けねばならない。彼女が戦う理由、彼女が名前を知らない理由も、私には察しが付いていた。それだけに、彼女とは戦わなくてはならなかった。

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