橘と蝶
絵空こそら
第1話
「橘の匂いがするねえ」
鏡の中の女が言う。
「ああ、先刻、橘の実を取ってきたからでしょう」
手に鬢付け油をつけながら答えると、彼女は大袈裟に驚いてみせた。
「おや、掛け持ちかい?髪結いっていうのは、そんなに儲からないもんなのかい」
「いいえ、金目当てって訳じゃねェんです。なんでも、橘の皮を乾燥させて茶を作るんだそうで、手伝ったらくれるっていうんで」
長く垂れた髪をまとめ、鬢をつくっていく。
「まァ美味しそう。きっといい匂いがするんだろうね」
そりゃあ、橘の匂いがするんでしょう、と答える前に、
「あ、今日はちゃんと高島田に結っておくれよ。うっかりいつものにしちゃ厭だよ」
「そんなに何遍も念を押されたら、さすがに間違えませんよ」
彼女はころころと笑う。話題はまた橘に戻る。橘の実は丸い燈籠みたいで可愛いやら、でも齧ってみると死ぬほど酸っぱいやら、焚いた香よりも橘の匂いのほうが好きやら、こちらが適当に相槌を打つだけで、彼女は一人でぺらぺら喋るから楽だ。いや、今日は特段、はしゃいでいる。
元結を留め、簪を挿してやると、彼女は顔を左右に振って、鏡に映った髷の出来を確かめる。くるりとこちらに向き直り、童のような目を細めた。
「どうだい、歌麿が描く姿絵とあたし、どっちがいい女だい?」
「もちろん、揚羽さんですよ」
彼女は満足そうに笑った。
「これまで世話になったね、太助」
「こちらこそ、ご贔屓にしていただいて、ありがとうございました」
手を突いて頭を下げる。
「おめでとうございます、揚羽さん」
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