番外二話 彼が爆炎を纏うまで

 これはが『爆炎の妖魔』へと至るまでの物語──。


 ****


「この乞食こじきが! 失せな!」


 老人の腕力とは思えないほどの威力で、水が入ったバケツを投げつけられる。右肩に当たった衝撃はすさまじく、痛みで少年は地面に思わず突っ伏した。


「はっ! こんなんにも一丁前な名前なんて与えやがって! あの偽善者神父が!」


 恨み言を吐きながら、老人は舌打ちをし玄関の扉を勢いよく閉めた。一連のやりとりを見ていた町民たちはなにも見ていないと主張するかのように視線をずらし、少年の横を通り過ぎて行く。


 しばらく痛みに悶えていた少年は、目に涙を浮かべながらおもむろに立ち上がった。


「……」


 少年の目に光はなく、浅黒い肌と白いタンクトップは汚れジーンズは破れ、むき出しの両足はところどころ傷ついていた。

 俯きながら少年はゆっくりと路地裏へと歩いていく。その小さな背中からは哀愁が漂っていた。


 ****


「あら? エッズじゃないの。また盗みに失敗したのかい?」


 露出度の高い黒のワンピースに身を包んだ女が少年に声をかけると、少年は今にも泣き出しそうな声でか細く答える。


「盗もうとしたんじゃない……。譲ってくれないか交渉しようとしたんだ……。今日はジャンクもいいのが入ったから……」


 鼻をすすりながら下唇を強く噛む少年の頭に、女が優しく触れる。その手は冷えているが少年には温かく感じられた。


「ジュリーナ。なぁなんであの神父様はオレなんかにも名前をくれたのかな……。いや、名前しかくれなかったんだろう……」


 ジュリーナは手にしていた煙草をくぐらせると、ゆっくりと煙を吐く。どこか甘ったるい匂いに思わずエッズは顔を歪ませた。


「そりゃあ、神に仕えるものとしてのなんでしょうよ。精一杯のね? ま、大胆だったとは思うわよ? なんていう、バカげたことをやってのけたんだからさ。あの神父は」


「……名前だけもらっても、意味がない」


 神父の顔を思い出し、苦々しい顔になるエッズに、ジュリーナも同意するかのように再び煙を吐いた。


「まぁ、最初は嬉しかっただろう? 私もアンタも……名前がもらえただけで、まるで身分が変わったかのような気分になったじゃないか。一時の夢でも見させてもらったと思うしかないさね」


 彼女の言葉に、エッズは空を見上げる。澄み渡った青空がまぶしい。自分を照らす太陽の熱が熱く肌を焼く感覚がする。


「エッズ、私達は私達の暮らしをするしかないのさ。この国じゃ身分なんて早々ひっくり返らないわよ」


 諦めを含んだ声色に、エッズは思わず身震いする。心の底からこの国への恨みでおかしくなりそうだった。

 エッズは息を深く吐くと、静かに呟く。


「……オレは……嫌だ」


 それだけ言い残して、エッズはジュリーナに背を向けジャンクの山の方へと走り去った。


「エッズ! 夕飯までには帰って来な! ……腐りかけでも食事は摂らないと人間、死ぬんだからね!」


 ジュリーナの声が耳に入るが、それすらも煩わしく感じ聞こえなかったことにした。


 ****


 件の神父が現れたのは、梅雨の時期だった。

 綺麗な服に身を包んだ若い神父は、心ばかしの食べ物を持ってスラム街へと従者と護衛を連れて現れ高らかに宣言した。


「ここにいるもの全てに名前を与える」と──。


 そので、少年はエッズ・シンクレアという名前を与えれたのだ。それまでただのストリートチルドレンでしかなかった少年に、エッズという固有の名がついた。


 これで名もなき子供の一人と言わせない。そう思ったエッズだったが、神父が去ってすぐに現実の厳しさ思い知らされた。


「……名前があっても、腹がいっぱいになるわけでも金が入るわけでも裕福になれるわけでもなかった……。名前なんて無意味だったんだ……もらわなきゃよかった……名前なんて……!」


 ジャンクの山の頂上に座りながら、六日前に手に入れた残り二枚のパンの耳をゆっくりと少しづつ口に含み、よく噛んだ。少しでも空腹を紛らわせるためだ。


 悔しさとひもじさが胸の中に渦巻く。それは憎しみとなり、自分の身を今にも焼きそうだった。


 エッズに親はいない。物心ついた時には既にこの町の路地裏で物乞いをしていた。


「オレは……非力だ。強くなりたい……。強ければ……オレは……」


 自分の細い両腕を見つめ、舌打ちをする。栄養不足で発育不良の身体は心もとなく、風が吹けば飛んでいきそうだ。


「強く……なりたい」


 もう一度呟くと、エッズは太陽を憎みながら昼食を終えた。


 ****


 ジャンクの山を漁り、よさそうなものだけ選んでジュリーナの元へと戻る頃には、すっかり日が暮れていた。不思議だが、エッズはこの日暮れから夜明けまでが一番好きで……そしてだと感じるのだ。


「ジュリーナ、戻った……ジュリーナ?」


 薄汚いチタンの扉を開けるが、中には誰もいない。だが中は異様だった。


「……めちゃくちゃだ……! ジュリーナ!」


 狭い室内は荒れ果て、争った形跡があった。

 この光景には見覚えがある。

 人攫いだ。


 唯一のよりどころであるジュリーナの姿を探し、エッズは町の中を走りだした。動揺で息が詰まり、呼吸が上手くできない。


「はぁ……はぁ……!」


 エッズはなぜか、夜になると人の気配にとても敏感になる。感覚的に、大体どこに誰がいるかがわかるのだ。

 不思議な能力にいつもは辟易するが、今この瞬間はありがたかった。


「ジュリーナ!!」


 たどり着いた先は、町の中央にある教会だった。


「なんっで……教会から気配が……?」


 嫌な予感がする。見てはいけない、触れてはいけないものに触れてしまう感覚がする。

 だが、エッズは華奢な身体を生かして、気配を殺してジュリーナを探す。しばらく探索して……エッズが辿り着いたのは……地下だった。


「いや! やめて!! 助けて!! 誰か、誰か!」


 ジュリーナの声だ。今まで聞いたことのない、悲鳴まじりの声にエッズの身がすくむ。だが、ここで立ち止まってはいられない。意を決して、隙間から覗くとそこにはあの


「これも神の施しですよ、ジュリーナ・アンレイン! あぁやはり貴女にその名前はピッタリだ! ほうら、水浴びをさせてやっただけで、こんなにも美しくなった! あぁこれでこそ、私の玩具にふさわしい! さあ可愛がってあげますよ! 死ぬその刹那まで!」


 虫唾が走る笑い声が地下に響く。拘束されたジュリーナの痛々しさに、エッズの中の何かが音を立てて壊れた。いや、内側から溢れて来た。


 ──それは、炎。浅黒い肌を焼く、真っ赤な炎が吹きあがる。その炎に気づいた神父と護衛達が叫び声をあげたのが耳に入ったのが、エッズの最後の記憶だった。


 ****


 次に目が覚めた時には、周囲は焼け野原だった。教会は見る影もなく焼け落ち、周囲の家々もところどころ火の手が上がり、そこら中から焼けた肉の臭いがする。


「あ……?」


 エッズが小さく声を漏らせば、誰かの悲鳴が耳に入った。見れば、拘束が外れたジュリーナが化け物を見る目で、口元に手をやり泣いていた。


 気づいて声をかけようとして、エッズはやめた。


(オレが……やったんだ。オレが……このオレが!)


 不思議と罪悪感が微塵もない。それどころか清々しさすら感じられた。同時に理解した。


「オレは……人間じゃない。そうだ……生まれた時から……オレは! 怪物だァ!」


 青かった瞳は赤く染まり、全身から炎が吹きあがる。


「オレはァ! 強いんだァ!!」


 笑い声を上げながらエッズだった怪物は、ゆっくりと町跡から立ち去る。最後にジュリーナの声が聞こえた気がしたが、もう彼には届くことはなかった。

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