憂い

密やかに、辺りに満ちた闇を掻き分けるように、又は縫うように進む。昼間の喧騒や活気に溢れた様子は身を潜め、静謐と安寧を主とした緩やかかつ穏やかな夜を俺は進んでいる。


足音を限りなく立てないように目的地までの最短ルートを駆けた。


少しすると、コンビニエンスストアの明かりや静寂を破る暴走族のコール音、それに暗い夜を利用し、禁忌を売り捌く悪意も顔を覗かせ始めた。


走りながら思った。人という存在は二面性によって形成されているのかもしれないと、それは正しく日向と日陰のようなもので、善悪を一緒くたにして始めて1人の人間を定義しうるのかもしれない、そう考えた。


英雄的行動をとる人間が必ずしも善人であるとは限らないように、猟奇的な悪人が全くの善意を有していないかと言われればそれも否だろう。仮に、どちらかに傾倒してしまった者あるいは生まれた時からどちらかしか知らない、持ち合わせていない人間は、最早「人」とは呼ばず、全く違う言葉で表現するべきなのではないだろうか。


そう、計算を行うだけの機械が感情を考慮して演算しないように、善をただ押し付けるだけの人間は悪の心を理解できない。それは即ち、悪意なき悪になる。言われた通り、又は善いと思ってした行動に、相手は苛立ちを覚える。そこら辺は、機械も人間も変わらないところなのだろう。


人気のない通りに入る。日中ですら人っ子一人いないような路地裏に、深夜帯で人が居るならそれは…


「外敵、そう考えていいんだろう?」


140程度か、子供の可能性があるがどうだろう、この距離では暗くて判別がつかない。


「……」


沈黙、そして雲から零れる月光が目の前の人間の顔を艶やかに照らした。


フードを被っているので髪が実際伸びているのかどうかは分からなかった。


然し、顔立ちは実に美しい。美人と呼ばれる類の人で、右目の下に泣きぼくろがあり、切れ長で小豆色の瞳はどこか透明感がある。小さめの鼻と同じく小さな口、それらが瓜実顔の中に適切に、あるべき場所に収まっている。まるで完成された絵を見ているような気分になるほど綺麗なのだが、顔立ちが幼く、背もさほど高くない。まだ中学生になったかどうか程度に見受けられる。


彼女の顔から感情を窺い知る事はできない。無表情で俺と対面し、隙を伺っている。


パンクコートジャケット、少し短めなスカート、ニーソックスとブーツ…どこを取っても黒一色、まるで暗い夜を落とし込んだと言わんばかりの統一性と黒さ。然し、鍛えられ、程よく引き締まった太ももは白く、なんの穢れも知らなそうでそれ故にどこか恐ろしさを感じた。そして、彼女の雅やかな雰囲気によってその穢れなき恐ろしさが妖艶にすら思える。身長が伸び、顔の幼さが無くなる頃にはさぞ気品を感じさせる優雅な容姿になるのだろう。


右手に持ったナイフはよく手入れされていて、普段から扱っているのか、不思議と違和感がなかった。


然し、何故彼女は今この俺と対面しているのか。新手の敵ならこんな風にする必要は無いし、必要があるのならそれは時間稼ぎ、なにか別の狙いがあるはずだ。


「率直に聞こう。何が狙いだ?」


やはり答えない。むしろ知らないまである、雇われただけの殺し屋なら何も知らないだろう。


だが、それにしては様子がおかしい。まるで値踏みするようなその様子に、獲物を狩る肉食動物が良くする舌舐めずりのようなものを俺は感じた。


「…私の名は巴御前。貴様に終焉をもたらす者なり」


その澄んだ声音と口調はどこか古風で東洋の香りを感じる。然し、違和感を覚えた。それはひとえに服装とのミスマッチからくるものなのだろう。


「…冗談だろう?ただの子供にそんな事ができると思ってるのか?」


「笑止!その傲慢さ、あの世にて償うがいい!」


子供、その言葉が癪に障ったのか顔を怒りに染め、こちらに向かってくる。


確かに速い、小柄な躯体の長所を上手く利用している。それなりに重い荷物を持ったこちらが機敏に動けないだろうという推測からか全力を出していないようなも思える。


余裕を持って相手の力量を測ろうとする。その行為は明らかに戦い慣れした者のそれだが、ここでまた違和感がある。なぜ、暗殺を行う用意をしているのに暗殺ではなく対面して戦闘を行うのか、あまりにも非合理的だ。


そして、精神的に幼い部分が見え隠れしている。甘さと言うべきか、非情になりきれない優しさ。躊躇いとそこからくる疑心感がどれだけ優れた能力も半端にする。


「子供にしてはやるじゃないか」


「貴様…!」


彼女は絶えず攻撃を行い、俺はそれを捌き続ける。真剣に振るわれる刃を片手間程度に回避する。


段々と焦りの色が見え始める。気付き始めたのだ、自分がどれだけ本気でやっても眼前の獲物には傷一つとしてつける事が出来ない事実に…


今、彼女の感情はどうなのだろう?悔しさだろうか、はたまた怖れだろうか?それを俺は解する事は出来ない。然しこれだけは明言できる、その様子はメサイアよりも人間らしい。


「もういいか?悪いが時間が無いんだ」


ナイフを握った手に蹴りを入れて獲物を弾き飛ばす。


彼女は子供ながらに賢明であった。自分の理解出来る範囲の外にあるものには触らない方がいいという当然の、本能的な部分を理解出来る賢しい子供だった。


馬鹿な人間ほどくだらない誇り、自尊心などを命との天秤にかけて、そして向かってくる。それは恐怖を理性で抑えつけたのでは無いし、まして本能を知性によって制御したのでもない。


その手の人間の持つ愚直なまでの拘りは得てして自分自身を不幸にする。場合によっては他人にまで被害を及ぼす。


人は無駄な知性を持つあまりにそのような下卑た思想、意志をあたかも真理であると錯覚する。


それらとは違う、本能的な部分を正しいものと認識できる彼女はやはり素晴らしい。


「さぁ、早く行くんだ。子供の出歩くべき時間ではないぞ」


あやすように投げかけた言葉がまた無情にも彼女を深く傷つける。然し、それを俺自身は気付かない。いや、気付こうとしていない…それとも気付かないフリをしているのか、それは分からないが物理的な感触ではなく、でも確かに何かを傷つけた感覚だけがそこにはあった。


警戒をしながら後退り、明らかに逃げ切れると判断した辺りからは恐ろしく俊敏な動きで視界から消えた。


─────最後に見せた背中には深い寂寥感を湛えていた。




そこからしばらく走り続け、暗闇の先にひとつの施設が見えてきた。


「ガリンウェル国立図書館…」


辺鄙な場所にあるものだ、そう内心でボヤいた。


都市郊外にまで来た。その木々が生い茂る自然の中にある図書館に俺はどことなく懐かしさを覚えた。知識と自然の共存が、まるで夢想の果てにある幻想郷を体現しているかのようで郷愁の念を感じさせる。そして、それをトリガーとして俺のモヤのかかったメモリーにノイズを走らせた。


その記憶の中に、顔も見えないとある男に抱いた印象を垣間見た。


彼を例えるなら自然と科学を融合し超越した先にある境地にて悲しげに世界を俯瞰する観測者、それは正しく彼の名の通りだ。


そのようなことを以前感じたらしい。消しきれなかったメモリーの残滓、引き出せても現状はこの程度だろう。


そして、メモリーの残滓に焼き付く男の名前を徐に口にした。


「世界…」


────呼んだ?


子供のような声、だけどそれは違う。子供のようだがどちらかと言えば中性的な声。不思議と落ち着くようで、それでいて理解のできない不気味さを孕んでいる。


俺はその声のした方へ向き直るが、そこには何もいなかった。存在が感じられない、でもまるで何かに監視されているようなそんな気味の悪さがある。


「気のせい…ではない。そのような俗に言う幻聴なんて起こったらおかしい。酷いバグだ」


然し、辺りは人っ子一人といない。


俺は望ましい結果が得られないと考えてとりあえずと本を返しに館内へ足を踏み入れる。


塵一つない、系統順に本が並べられている。おかしい事によく手入れされている。


まただ、あの不気味な感覚が辺りに満ちていく。シンと静まり返った空間、その静寂な空気がうなじの辺りを撫でる。


そもそもの話、ここの図書館自体人の寄り付くような場所ではない。本の冊数は多いしこのように管理もよく行き届いてはいるが、この図書館にはあまりいい噂を聞かない。


人が消える、常に誰かに見られている気がする…そして、子供の声が聞こえる。


これは人間の脳に時折起こる思い込みという名のバグだろうと根拠なく決めつけたが、そうでは無いようだ。間違いなく何かが近くに居る。だが自分の持ちうる計測能力では観測し得ない。


これは恐ろしい事で、自分には見えないが相手からは見えているという情報がどれだけ不吉な事か考える必要もなく理解出来るだろう。その状況を避けるべきだがもう遅い、とっくに間合いに足を踏み入れている可能性も否めない。


「聞こえているかは知らないが、俺は借り物を返しに来ただけだ。何もしない」


虚しく響く俺の声、然しその嫌な感覚が拭われる事はなく、俺は警戒を解くことなく荷物をそこに置いた。いざと言う時、即座に取れる選択肢を増やす為だ。


だが、想定する最悪の状況になるとも思えない。なにせ、この閑散とした館内で何か荒事が起きるような想像が一切できない。


むしろその異物感、この館内に居てはならない存在として認知されているようにすら感じられたさっきまでの敵意は露ほども感じられなくなった。


それは俺自身を涵養するような感覚で心底気味が悪いが、異物を排斥しようというあからさまな敵意ではない。そこにはまだ安心感を得られるような気がする。


とりあえず、置いた荷物はそのままに俺はその不気味な空間から足早に退いた。


─────荷物、ここに置いてちゃ返したとは言えないね。


最後のその声はおぞましく柔らかで、息を飲むほどの美しさを秘めていた。俺はそれにかぶりを振って逃げ出した。

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