8月23日
浴衣を着て病院に行くのはさすがに非常識だ。
だから、浴衣を持参して、静那の前で披露しようと思った。
「着替えるから」
「わあ、生着替え?」
「ばか! トイレ借りるよ」
ささっと母の言われた通り、浴衣を身にまとう。
「ばかなんだからほんとにもう……」
帯を巻いて、深呼吸。覚悟を決めて扉を開けた。
「ほら。これで満足?」
ベッドの方に向けて言う。
「どれどれ」と雑誌から顔を上げた静那は、目を丸くしていた。
思っていた反応と違った。「すごいすごい」とか言って、もっと騒ぐかと思っていた。
しかし、彼女は口を開けただけで、何も言わない。
「だ、だいじょうぶ? なんか様子が」
私はあわてて駆け寄った。彼女になにか不測の事態が起こってしまったのかと思って。
やがて、彼女はようやく言った。
「私が男だったら、たぶん抱き着いてた」
「静那は変なことばっかいうんだから」
浴衣をたたんで、私は口をとがらせる。けれどもちろん、気分は上々だった。
「すっごく似合ってた。なんだろう。今まで見たひかるの中で一番きれいだった」
「それはちょっと複雑だけどありがとう」
「ドキドキしちゃった」
彼女は両のほっぺたを手で挟む。かわいらしいしぐさに思わず微笑する。
「似合ってたならよかった」
「いいもの見れたなあ。写真撮ればよかった」
「それはだめ」
「かおるが待ってるから」
「うん。いってらっしゃい。楽しんどいでね」
「うん。いってきます」
静那はにっこりと笑って手を振った。いつも思う。手を振って私を見送ってくれているのに、私は自分の手でこの病室の扉を閉めなければならない。なんだか、自分で彼女とのことに区切りをつけている気がしていやだった。
待ち合わせた公園。かおるは小さく手を挙げた。
「静那さん。大丈夫だった?」
「うん。元気だよ」
「ならよかった。じゃあ、帰るか」
「何でよ。行こうよ」
「冗談だよ……」
「浴衣着てくるから待ってて」
もうすべて諦めているのだろう。かおるは「はいはい」とイヤホンをしまった。
出店が並ぶ祭り。まもなく花火も上がるという。
かおるはTシャツに半ズボンというラフな格好。一方、私は静那にほめられた浴衣を着て、隣を歩いている。
「人多いから、気を付けてね」
「こっちのセリフ」
かわいくないな。と思いながらも、実はさっきから彼は人の多い方に立って私を守ってくれている。そういうことができるようになったんだ。いや、もしかして。
「かおる。彼女できた?」
「は? なんで」
「なんとなく。女の子の扱いがうまい気がした」
「扱いって。いねえよそんなの。いたら、姉貴と祭りなんていかない」
「ふうん」
かおるは、少し口調は荒いし、気遣いが足りないところもあるし、思いやりもないけれど、でも実は優しいのだ。それが見えないのは照れ性だからだ。ツンデレなのだ、結局。
「なんか食べたいものある?」
「んー……あっ」
「チョコバナナでしょ」
「えっ」
「ふふ。買ってくるね」
「待てよ。俺も並ぶ」
かおるはどこか動揺した様子で私の隣に並んだ。
「なんでわかったんだよ」
「だって、好きでしょ」
「でも、夏祭りなんて」
「行ったじゃん。大昔」
「何年前?」
「15年前」
「覚えてるわけないのよ。俺3歳じゃねーか」
「口にべったりチョコつけちゃってさ。あの頃はかわいかったよ」
かおるはガシガシと頭をかく。今日はずいぶん調子が悪いみたいだ。私はにんまりと唇を上げる。
チョコバナナを食べながら、焼きそばや肉巻きおにぎりも調達した。
人がたくさんいたので、少し離れた遊歩道の土手のベンチに私とかおるは座っている。
私の指には、さっきかおるから渡されたひかる指輪が輝いている。
「姉貴にはお似合いだよ」と彼は意地悪く笑ったが、「きれい……」と私がもらすと、「うっ」と彼はまた困った様子だった。
「花火なんて、久しぶり」
「姉貴、嫌いだって言ってたもんな」
「人多いし、虫もいっぱいだから」
「そうだな」
かおるがチュルルっと焼きそばをすする。
「おいしい?」
「うん。うまい」
もぐもぐと口を動かすかおる。あんなに悪態をつく弟も、食事のときと睡眠のときは、まだ子供らしさが残っていると思う。
「来てよかった」
ふと、彼が呟く。こういうことをさらっと言えるところは、弟のいいところだ。
「私も」
そのとき、遠くでヒュルルと昇る光が見えた。歓声が聞こえたのと同時に、大きく空に輝きが生まれる。
「わあ」
「おお」
二人して、言葉を失う。地元の、たいしたことのない花火なのに、久しぶりに見たからだろうか。やけに感動してしまう。
花火はどんどんと打ちあがる。朝と見まがうほど、空が明るくなる。そのたび轟音が響き、身体が跳ねる。
少し遠いけれど、静那の病院からも見えるのではないか。
「きれいだね」
私が言うと、弟は「うん」と、空を見つめたまま言った。
私は微笑み、その様子を眺めていた。同じだったから。昔と同じ表情だったから。
「おじさんたちの子ども。女の子かな。それとも男の子かな」
花火が打ち終わるころ、かおるがつぶやくように言った。
「どう、だろうね。かおるはどっちがいい?」
「俺は、ううん……どっちでもいい」
「男の子の方が、話ししやすいんじゃない?」
「ううん……まあ、無事に生まれてきてくれればいいかなって」
我が弟ながら、すてきなセリフを言う。
かおるは、伯父や伯母にかわいがられていた。それはすばるの忘れ形見だからかと思っていたが、たぶんそれだけではなくて、かおる自身の性格もあるのだろう。
この子は、きちんと相手に寄り添える子だ。
私が引きこもりから脱したきっかけも、彼が肩を抱いてくれたからだった。
「お祝い、渡しに行こうね」
「うん」
小さくうなずいて、口元を綻ばせる弟。その口元についたソースを、私はぬぐった。
祭りの終わった、静かな夜道を歩く。
「星、きれいだよ」
「あー。ほんとだ」
「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」
「何か聞いたことある」
「夏の大三角ね」
かおるはじっと空に見入っている。
「危ないよ。前向かないと」
「あのどっかに」
かおるは立ち止まった。ふわっと蒸し暑さの中を風が吹き抜けた。
「いるのかな。お祖父ちゃんも、すばるも」
かおるは、さみしげに笑った。
「……そうだね。きっと」
私はたまらず、頭をなでる。
「やめろ」
「なんで。いいじゃん。これくらい」
「仲いいって思われたくない」
「まだそんな思春期なの? こども」
「許さない」
私は噴き出す。
あの頃に、こんなときがくるなんて思いもしなかった。生きてさえいれば、人間、いいことがあるものだ。
生きてさえいれば。
「ただいま」
「おかえり。どうだった? デートは」
「うるさい。寝る」
「風呂入れ」
弟は廊下をどしどし踏みつけて浴室に行ってしまった。
「まったく」
浴衣を脱いで、荷物を置きに行こうとした私。その手を、母がつかんだ。
「ひかる」
「なに? 浴衣、洗濯別?」
母は首を横に振った。
「さっき、友香さんから連絡があったの。明日、正午に来てほしいって。大切な話が、あるそうよ」
「大切な、話?」
「うん」
「なんの、話だろう」
「……わからないわ」
母は首を振った。しかし、その間で、私は察してしまう。
明日が来る。ふと庭に目をやると、いつの間にやら、小雨が降り始めていた。
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