8月22日

「ほんとに?」

 静那は微笑んだ。

「うん」

「いいね」

 昨日より、少し体調がいいらしい。息も荒くなく、声もつかえていない。

「いいな」

「静那は……」

 お兄さんとどこかに行ったことあるの? 

 そう尋ねようとして、きっとそんなことはないだろうと思ってやめる。

「ひかると、行きたかったな」

「う……」

「ごめん」

「ううん。私も」

 いつか行こうよ、と声をかけられたらよかったのに。

 ずっと考えている。

 のぞみのない希望をのぞめばかなうかのように語ることと、のぞみはないのだから最初からかなわないことにして黙ることの、どちらがよいのだろう。

 わからない。

 わからないけれど、ただ一つたしかなことは、私が彼女の命を諦めてはならないということだ。

「ひかる、音楽の話しよ」

「お、音楽?」

「うん。ひかるは、最近、どんな曲聴いた?」

「えっと……」

 こんなときにまで言葉に窮する。日ごろから音楽のない生活をしてきたことが悔やまれる。

 唯一、キャロルキングの曲を聴いたけれど、それを言ったらあの夜の静那の涙を思い出させてしまうだろう。

「私、あんまり聴かないの」

「相変わらずだ。まったく。ノーミュージック・ノーライフだよ」

「だって……、あっ」

「なに?」

「一個だけ聴いたかも」

「なにを?」

「明日へ架ける橋」

「え、どんな曲?」

「えっ……。えっと」

 私はスマホを取り出して示す。もの悲しくも美しいピアノの旋律から始まる曲。

「あっ、聴いたことあるー。てか、ひかるが歌えばよかったじゃんか」

「なんかはずいじゃん」

 あれっと思った。かおるもおんなじこと言っていたような。

「ひかるの声、きれいなのに……」

「そ、そういうのはまた別の話じゃん」

「照れてる」

「うるさい」

 静那はけらけらと笑う。

「And friends just can’t be found  Like a bridge over troubled water I will lay me down」

「静那の声の方が、素敵だよ」

「えへへ。うれしい」

 歌えるなら、大丈夫。私の心も軽くなる。

「ひかるのことだね」

「なに?」

「友だち。激流の上にかかる橋のように、そばにいてくれる」

 静那はにこりと笑う。

 静那は笑顔を絶やさない。どんなに顔をしかめても、必ずあとで笑顔を見せるのだ。

「静那」

「ん?」

 私は、静那の髪の毛に触れた。

「かわいいね」

「……はっ?」

「静那の笑顔。好きだよ」

「な……な、なにを、ちょっとなにを言ってるの」

「照れてる」

 静那は深く息をのんだ。

「いじわるだね、ひかるは。仕返ししたかっただけ?」

「違うよ。本心」

「ぬう」

 静那はぎゅぎゅっと眉を寄せて、ぷいっとそっぽを向いた。

「静那?」

「ひかるらしくない」

「いやだ?」

「……いやじゃない」

 静那はなぜか潤んだ瞳を私に見せた。



「静那は、音楽は?」

 りんごの皮をむきながら、私は尋ねる。

「今日久々に聞いた。やっぱり、カーペンターズはいいね」

「ああ、好きだったっけね」

「大好き。よく、眠れるの。聴くと」

「何聴いたの?」

「いっぱいだよ。オンリーイエスタディとか、雨の日と月曜日は、とか」

「イエスタディ・ワンス・モアも?」

「もちろん。ひかる好きな曲だっけ」

「うん」

「じゃあ、りんご切る間、歌ってあげる」

 そういうと彼女はあの頃より静かに、でも確かな旋律で歌った。

 ああ。この声が好きだ。

 あのライブハウスでチャットモンチーの「シャングリラ」を聴いたときからその思いは増していくばかり。そんな声を私は今独り占めして、りんごを切っている。頬がほころぶ。

 彼女の声に合わせて、私も鼻歌を添える。

「今まで生きてきてよかったって思う曲だよ」

「そう、だね」

「りんごできた?」

「うん。はい」

「あーんして」

「しょうがないな」

 私は彼女の口にりんごを置いた。

「うん。おいしい」

「買ってきてよかったな」

「ありがと。ひかる」

「どういたしまして」

 彼女はりんごをゆっくり咀嚼している。甘酸っぱさをもらさずに感じようとしているのだろうか。

「おいしい」

「よかった」

 なかなか、彼女は二つ目をねだらなかった。



「ひかる。明日も来てくれる?」

「うん」

「浴衣、着てきてよ」

「えっ」

「夏祭り、行くんでしょ」

「行くけど、浴衣なんて着てかないよ」

「ええ……。おうちないの?」

「ありはするけど」

 こういうときに「ない」と嘘を吐けないのが私の悪いところだ。静那の瞳が輝く。

「じゃあ、お願い。見たいな。ひかるの浴衣姿」

「うう……」

 困ったことになった。



「明日浴衣で行く」

「はあ?」

 真っ先にくびをひねったのはかおるだった。

「なんでだよ。普通の服でいいだろ」

「浴衣で、行く」

「静那ちゃん?」

 母が言った。言わないでおこうとおもったのだけれど、私はうなずいた。

「見たいって、言ってくれた」

 さすがのかおるも黙ってしまう。ちょっとずるい気がしたけれど、今は静那の意思を第一に考えていたかった。

 母はくすっと笑って、タンスからあじさいの描かれた浴衣を取り出した。

「着付けは明日してあげるから」

「ありがとう」

「かおるも、そんな顔しない」

「別に、そんな最初から反対してないし」

 そういうとかおるは部屋に閉じこもってしまった。

「姉弟それって、ほんとにピュアね」

 馬鹿にしているのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る