8月2日
「静那おはよう」
「わっ、ほんとに来た」
「わっ、てなによ。言ったでしょ毎日来るって」
静那はベッドの端に座り、足をふらつかせている。落ち着きがないとはこういうことを言うんだろう。
「……しいな……」ぼそっと彼女が何か呟いた。二人きりでも聞き取れないくらいの声だ。
「何?」
「何でもない。ね、なんか持って来てくれた?」
「はあ? 持ってくるわけないでしょ昨日の今日で」
「おいおい冷たいなー。シュークリームとか持って来てよ」
「そんなもの……」
言いかけて寸前で留まる。彼女の病状を思うときっとそんなもの食べないほうが良いに決まっている。が、それをつきつけようものなら、察しのいい彼女はすべてに気づくだろう。
「……忘れなかったらね」ため息交じりにそう返す。彼女は「わあい」と未就学児のように喜んだ。
「それにしてもコロナ落ち着いてよかったよねー」
窓の先、薄雲交じりの真昼の空を見つめながら静那は言った。
「そうね。去年みたいな状況だったら帰ってこれなかったわ」
「東京は大変だったんじゃない?」
「……まあね」
大学の講義はすべてオンラインに代わり、一度もキャンパスに行かないまま大学一年生が終わり、二年生が始まった。二年前、寂しさよりも希望と開放感に満ち溢れて故郷を出た私は、そんな未来が待ち受けているだなんて想像さえしていなかった。
一つ言うなら、キャンパスを欠いたキャンパスライフは、文字通り「キャンパス」もなかったし、「ライフ」ですらなかった、ということだろうか。
「すっごい憂鬱な顔。そんな大変だったんだ」
「いや、どっちかっていうと、大変じゃないのが嫌だった……って感じかな」
「はい?」
「私さ、去年の春、ずっと家にいたんだ。一歩も部屋から出なかった」
「え、それってコロナのせいで?」
「うん。あ、私がかかったわけじゃないけどね」
「あ、ああ、そ、そうだよねえ。流石にね」
「でも、外に出るのが悪みたいな感じだったでしょ? だからずっと引きこもってたんだけど、一週間くらい経ったときかな、急に体がだるくなって」
「え……?」
「流石に病院行ったよ。咳とかでないけど、まだどんな症状かもよくわかってなかったじゃない? だから怖くて。でも、結局何も病気はでなかった」
「よかったじゃん」
「うん。でも、なにもないのに、その後ひと月くらい身体が重たくて、頭が痛くて……辛かった」
あれが何だったのか、私にはわからない。流行病に罹っていなかったことだけはたしかだろうけれど、でも、私の身体は確かに何かに侵されていた。
東京という魔都の影に侵食されて、一人おかしくなっていたのかもしれない。だから、身動きがとれる今は、ほんとうにうれしかった。久しぶりの遠出の行先が、病に伏す旧友の所だったのは、喜べないが。
「よかったじゃん」
少しの沈黙の後、静那は明るい口調で言った。
「なにが?」
「今は自由だよ。そして『大親友』の所に来れた」
「……」
「なぜ黙る」
「静那って、なんでそういうこと真顔で言えるの」
昔からそうだ。静那は、赤面すべき時に恥ずかしがらない。蒼白になるべきところで怖気づかない。逆もしかり。テンポが人一倍、読めないのだ。だから彼女は意外と友人が少なかった。
「言えるよ。そりゃ 」
「……」
ぞくりと背筋に寒気が走る。やっぱり彼女は知っているのか。自分の、行く先を。
「だって」
「し、静那」
私は彼女の名前を、ストッパーのように使ってしまった。会話の栓に、久しぶりに再会した友達の名前を。
静那は首をひねった。そして次の言葉を待っている。当たり前だ。
けれど私には繋ぐべき言葉が見つけられない。
エアコンの微かな音がクリアに聞こえる。それくらい深くて重たい沈黙だった。
「ひかるー」
「は、はいっ」
「まったく。ひかるはね、考えすぎなんだってば」
「なにが」
「喋るときにいちいち考えすぎ。もっと直通で行こうよ。昨日みたいに」
「私は……」
そう言われても、私は。
「ほらまた」
「無理だって。静那みたいに何も考えないでしゃべれないよ」
「ううううん? なんか馬鹿にされてる?」
「あっいやそんなつもりじゃ」
「まあいいや。別にね、ずっと考えるなっていうわけじゃないのよ。でもたまにはさ、感情直行、直情径行でいいんじゃないかい?」
「……うん。頑張ってみる」
「ふふ」
静那は笑って、ベッドに寝転んだ。
「静那?」
「んーん。朝から検査だったからさ、眠くなったー」
「そっか。じゃあ、私今日は帰るね」
「うん。ばいばい」
バッグを持ち、私は踵を返す。一度だけ振り返ると、静那はどこか遠い目をして、私を見ていた。
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