第24話
春子と旅行の約束をした日以降、特に問題ないと思っていた高校一年A組の授業の最中だった。
「先生すみません。ちょっと黒板見えないです」
「ごめん。……こっちに動けばいい?」
そう言って生徒側を振り返った瞬間だった。突然顔に何か冷たいものがべちん、と音を立てて当たった。圧し殺すような笑い声。何が起きた? 混乱して、私は顔にへばりついたものを手で掴んだ。それが一瞬、生魚の切り身だということが理解できずに、私はただフリーズしてしまった。こういうとき、どうすればいいんだっけ。生魚って、どこに捨てるんだ? ……そうか、家庭科室だ。それにしてもどうして、生魚がここに?
高校一年A組の時間割を盗み見る。――今は三時間目、午前には二時間連続の家庭科の授業が入っていたため、そこで調理実習を行った可能性は十分にある。
授業どうこうの前に、この生魚をなんとかしなければ。
「ちょっと自習しててくれる、すぐ戻る」
それだけ声をかけると、私は生魚を指先でつまみ、家庭科室へと向かった。背後から笑い声が聞こえる。にぶくない? そんな言葉が飛び込んできた。
家庭科室に入ると、家庭科の先生があらどうしたんですか、と出迎えてくれる。数学教師が家庭科室に立ち入るのは珍しい。
「……なんか、生魚が飛んできて」
「原田先生に?」
「ええ、まあ」
「数学の授業中?」
「そう……ですね」
なんてこと、と家庭科の先生が憤慨するのを見て、ようやくこれが私への度を越したいたずらだ、ということを認識した。にぶすぎる。確かに、彼女たちが言うことは正しい。
「あれですよね、たぶん、調理実習の最中にこっそり一枚だけ持ち帰って投げてやろうぜ、みたいな」
「おそらくそうね。……本当にごめんなさい、原田先生。私の監督不足だったわ」
「いえ、そんな」
何かと考えが甘い。それはどうやら、他の教師陣だけではなく、私も同じようだ。
「私、ちょっと気を付けるようにしますね」
恥ずかしさと情けなさで顔から火が出そう。――教師になってから、こんな思いをしたのは初めてのことだった。新任の頃の、初めての授業ですら、こんなに惨めな気持ちにはならなかったと思う。
中休み、職員室に戻り、私は顔を洗い、簡単にメイクを修正した。牧野先生がめざとく私の変化に気づいてしまったので、正直に事の顛末を話した。
「ひどくないですか? 世間でそれやったら、たぶん傷害罪で訴えられますよ」
「牧野先生。……大人社会ではそうかもだけど、ここ学校だから」
「学校は治外法権なんですか?」
「治外法権……はちょっと使い方違くない?」
違くない、ではなく「違わない?」です、と隣にいた三島先生に訂正される。国語科教師は日本語の乱れに厳しい。
「治外法権っていうか、学校独自のルールでなんでもありにされちゃあ俺らだって困りますよね」
「でも学校で生魚投げられたくらいで大騒ぎしてたら、保護者からのクレーム来ちゃうでしょ。……教頭もそういうの、いやがるだろうし」
私が半笑いでそう返すと、三島先生はとがった顎に自身の手を当てた。
「確かにそうなんですけど。……じゃあ、俺らどこまで許容しなきゃいけないんすか、って話ですよ」
「そうです。……原田先生が良いって言うなら、私たちがどうこうするつもりはないですけど、ある程度釘を刺しておかないと、ろくなことないですよ?」
少なくとも注意はしてくださいね、と牧野先生はぷんすか怒りながら音楽室へと向かう。そうだ。生魚の衝撃に気を取られ、彼女たちを注意するのを忘れていた。でも今さら、高一の教室に戻って怒鳴ってくるわけにもいかず、私は頭を抱えた。悪いことは悪いと教える、それは教師として一番大切な仕事である。同時に、私の一番苦手とすることなのだ。
「原田先生。……ちょっと、嫌なこと言うかもしれないんですけど」
三島先生が、唐突に口を開いた。
「この間原田先生、指をドアに挟まれたって言ってたじゃないですか。……あれって、わざとだったり」
「ないない! だってあれは本田さんとかじゃなくて、木戸さんっていう、大人しい子がやったことだから。いじめ対策の復讐とは無関係だよー」
「そうですか。……それならいいですけど」
三島先生は、より一層眉間のシワを深くした。
「……それにしても、原田先生ってめっちゃ記憶力良いですよね。生徒の顔と名前、性格までちゃんと一致させてる。しかも、自分の担任クラスでもないのに」
「えっ、皆そうじゃないの」
私が驚いたような顔をすると、三島先生は勉強になりますと呟いた。
「三島先生。……原田先生の記憶力は、ちょっと異常だから。真似しようと思わなくてもいいやつ。担任をしている学年のことだけ覚えられたら十分だ」
通りすがりの竹下先生はそう言って、力む三島先生を宥める。
生魚投げつけ事件ほどインパクトのあるものはなくなったが、小さな嫌がらせは続いた。まず、私の授業の前に黒板が消されていることはなくなった。本来ならその日の日直が授業と授業の間に黒板を消しておく決まりになっているが、いつのまにか高校一年A組の黒板消しが、私の仕事になっていた。やっぱり、怒ることができなかった。そもそも教師がやるべき仕事だろう、と思われていたら、なんだか痛いなって。
ある日の授業では、教室のドアを開けた瞬間、黒板消しが降ってきた。幸い、ドア付近でペンケースを落とし、もたついたために運良く避けることができた。しかし、当たっていたらなかなか痛そうだし、チョークの粉で真っ白のまま授業を行うと思うと情けない。
高校一年の廊下を歩くと、わざと肩をぶつけられる。例の事件で出席停止措置をくらった子や、その取り巻きがメイン。
そして、A組だけでなくD組の授業でも、同様の事象が発生し始めたのだ。D組にいじめの関係者はほぼいないけれど、これはそんなに驚くべき現象ではないと思っている。――同じ学年の生徒は、たとえ違うクラスであっても仲が良いことが多い。一年ごとにクラス替えを行なっているから、当然の話。私のことを良く思わない生徒は高校一年のどのクラスに行っても少しずつ居る、ということだ。
ああ、いじめられるってこういう感じなのか、と思った。多くの人間から自身に向けられる、敵意の視線は気持ちが悪く、身体を傷つけられれば痛いし、物に被害があればそれなりに困ってしまう。ただ、相手は子どもである。子ども同士ならまともに傷ついてしまうのはなんとなく理解できた。
私は良くも悪くも動じなかった。私は大人だから。別に、彼女たちと同じ世界を生きているわけではない。彼女たちに嫌われたところで、同僚や、恋人や、友人にさえ囲まれていればそれでいいと思っているから。
――いや、それはただの言い訳だったのかもしれない。私にとって、人に腹を立て、それを上手く表現することはとてもエネルギーの要る作業なのだ。
その日は珍しく、春子の仕事も私の仕事も早く終わる日だったから、いつものジムで待ち合わせをした。
「お待たせ」
約束の時間に十分ほど遅れて、春子はやってきた。濃紺のスプリングコートが、彼女の艶やかな黒髪とよくマッチしていた。いつもは下ろしている髪の毛を、サイドテールにしている。きっと、頑張って仕事を早く片付けてきたのだろう。
手続きを済ませ、更衣室へ。今日も今日とて、女子更衣室はそこそこ空いている。私はライトベージュのスプリングコートを脱ぐと、畳んでロッカーにしまった。
「……ねえ、美雨。ちょっと、スカート」
春子が驚いたような声を出したから、私は首を傾げた。
「めっちゃ破れてる」
慌てて後ろを振り返る。――フレアスカートの水色の生地が、大きく縦に裂けていた。
「やっべ。太ったかな」
「そんなわけないでしょ、私と一緒に暮らしているんだから」
確かに。そもそもタイトスカートじゃないのに、太ったからといって簡単に裂けるとは思えない。
高一の生徒かな、とさすがの私でも勘づいた。確かに今日は高一の授業があったけれど、いつの間にそんなことを。気づかない私も大概だ。
「高校のとき、制服のスカートを電車で切られた子が居たよね。そういうのじゃないの?」
「いや、電車の中ではコート着てるし。……たぶん、校内」
切られてしまったものは仕方がない。九九〇円で購入した安い服だったことが不幸中の幸いだ。
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