第22話
一度家に戻った。春子はいない。確か、バイトだと言っていた。私はエンゲージリングを外すと、真っ白なケースの中にしまった。
教師になって一年目の冬に、私は一人暮らしを始めた。そのときに自分の初ボーナスで買った、アンティーク調のドレッサー。その引き出しの中に、大切にエンゲージリングをしまう。――引き出しの中のプリクラを傷めないように、気を付けながら。
十年近く前に春子と撮ったプリクラを、私はいまだに大切に持ち続けている。「best friend」だなんて、まだ出会ってから数日しか経っていなかったにもかかわらず、恥ずかしげもなく書き込んだ春子に辟易としたんだっけ。しかし、色褪せつつあるその写真の中に居る私と春子は、ちゃんと親友だったって分かる。――もっとも、当の春子はこんなもの、とっくに捨てていると思うが。
一度、メイクを全て落とした。白いブラウスと、ミモレ丈のサーモンピンクのスカートも脱いで、モスグリーンのワンピースに着替える。これが私の一番細く見える洋服だから。
ドレッサーの前に座る。丁寧にスキンケアから始めて、コントロールカラーを塗る。赤みを消すためのグリーンに、透明感を加えるためのパールラベンダー。丁寧にリキッドファンデーションを伸ばしたあとは、少しの隙も与えないように、コンシーラーを乗せる。多幸感のある艶を演出する白粉も忘れない。アイシャドウはオレンジブラウン系の三色をグラデーションにして、しっかりとぼかす。似合う、とは言い切れないけれど、間違いなくトレンド真っ只中で、肌も白く見える、テラコッタのリップで仕上げる。
智輝からもらったピンクゴールドの繊細なネックレスを外す。代わりに、祖母に就職祝いに買ってもらった、シンプルなモチーフのついた、十八金のペンダントをつけた。
女子会のためのメイクは、少し難しい。どの色が誉められる? どんなメイクをすれば、幸せそうに見える? ナメられないファッションは? 羨ましい、と思わせつつも、敵を作らない見た目は?
ふと、どうしてこんなにも私は力んでしまっているのだろうと不思議に思う。誰も私のファッションに興味なんてないのではないか。どんなに見栄をはったって、私のことを羨ましいと思う人間は少ない。保守的で、地味な性格をした私は、不幸せにはならないにしても、決して羨望の的になるようなことはないと自覚している。
待ち合わせ場所の建物の前で、何気なく自分の全身をチェックする。どことなく垢抜けた雰囲気をまとった自分の姿に、少しテンションが上がる。
「お待たせ」
約束から二十分ほど遅れて、最後のメンバーが到着する。私は今日も、定刻の十五分前に所定の場所で待っていた。
「へえ、じゃあ、のんちゃんは研究室に残るの」
「うーん、どうかな……正直、教授は期待してくれているんだけど、私はずっと、臨床医を目指してたつもりだったから……」
「愛ちゃんは新人研修もとっくに終わって、バリバリお仕事って感じ?」
「まあね」
「どうなの? やっぱり院と比べると企業勤めって大変?」
「どうかな? 正直、扱ってる内容は、院よりよっぽど程度が低いから、仕事は辛いとは思わない。……でも一番ムカつくのは、私が院卒だからって、目の敵にしてくる人がいるの! 文系の院卒は生意気だって。ちゃんと私のこと、実力だけで判断してほしい」
悩み相談に見せかけた軽い自慢話に、私はうんうんと相づちを打つ。くだらない、とか、それはマウントだよね、なんて野暮な突っ込みは入れない。別に、相手を攻撃することによって得られるものなんてない。それに、皆決して悪い子ではないのだ。決して他の人を蹴落とすなんてことはしないし、意地悪をするつもりもない。ただ、数ヵ月ぶりの女子会という特殊な状況で、ちょっぴり力が入ってしまっているというだけの話なのだ。
「そういえば、美雨は最近どんな感じなの? ……ちょっと、バーニャカウダばっかり食べてないでさ」
ふいに、私に話が振られる。聞き役に徹しているつもりでも気を遣うのか、単純に気になるのか、必ず私にも近況報告のターンは回ってくる。
「私? ……そうね、もう社会人生活も三年目だし、特筆すべきことはないかな。良くも悪くも慣れた、って感じ」
「え、美雨ってそもそもなんの仕事してたんだっけ」
メンバーのうちの一人が、そんなことを言い出すのでびっくりしてしまった。普段からLIN○等でそれなりにやり取りをしているメンバーだけに、そんなこととっくに全員知っているだろうと思っていたのだ。
「ちょっと、
私の代わりに、他のメンバーが説明をしてくれる。
「そっかあ、忘れてた」
私自身、仁奈が非正規職員として勤める会社がどこなのか実は知らない。食品系だということだけは知っていて、なんとなく話を合わせている。
「じゃあ、なんか社会人って言ってたけど……そういう感じでもないね」
仁奈の含み笑いに、周囲の子たちがちょっとそわそわし始める。
「まあね。職場は学校だから」
「ふうん、ビックリした。美雨って、成績だけは良かったから、なんかもっとこう、バリバリのところに就職するんだと思ってた」
「バリバリって」
あまりに稚拙な表現に苦笑してしまう。おそらく、私の家に来る前の春子のように、大手コンサルで働いたり、商社勤めをし、海外を飛び回ることを指しているのだろう。
「どうして? 楽なところに勤めたかったの、それとも一般企業の就活に疲れちゃった?」
教職を知らない人間は往々にして、こういう煽り方をしてくる。教師になったばかりの頃には憤慨したものだけれど、最近では、ああ、知らないんだな、としか思わなくなった。知らないだけなら、恥ではない。私だって、会社勤めの大変さは知らない。しかし、想像することすら放棄してしまうのは、大人のコミュニケーション能力としてはあまりに乏しくないか。
「他の企業には何社か内定もらってたけど、結局福利厚生とか給与とか考えたら、うちの学校がベストだったのよね」
「へえ」
動揺した様子を見せなかったのが、気にくわなかったらしい。
仁奈は以前から、私に対してのみ攻撃してくる子であった。着ている洋服、身に付ける持ち物、就職先に、彼氏。そのどれもに、ケチをつけたがる。学生時代はそんなことはなかった。むしろ私は彼女のことを親友のように思っていたし、お昼は一緒に食べ、イベントがあればほぼ必ず一緒に参加していた。――正直に言うと、春子なんかよりよほど仲が良かったはずなのだ。
「そういえばさ、彼氏とはどうなったの? ほら、大学同期の」
「ああ、普通に仲良くやってるよ」
「ふうん。……二年も三年も同じ人となんて、よく耐えられるね。まあ、次が現れないと別れる気にもならないか」
「私なんかには十分だから……」
「あのちっちゃい子だよね」
智輝の身長は一六七センチだから、正直私とそんなに変わらない。以前、ツーショット写真を見せろとせがまれたから、仕方なく見せたのだが、「ああ、優しそうね」とだけ言われた記憶がある。
「で? それだけ長く付き合ってるんだったら当然、結婚の話も出てるんでしょ」
どうせそんなわけない、という表情で挑戦的に私を見る。――確かに、二十五歳という年齢は、キャリア女性が結婚するにしてはやや早め。どこまでものんびりしていて、将来なんて見えていなさそうな私が結婚を意識しているとは微塵も思っていないのか、それとも私が求婚されるなんてことがあってたまるものかと思っているのか。
さて、このような相手に情報を与えるのが果たして適切なのか、と思案していたのが悪かったのか。タイミングが遅れたせいで、皆に勘づかれてしまったのだ。
「……そうなの? もしかして、もうすぐ結婚するの」
「マジ?」
「まあ……春頃には」
「そうなんだ、おめでとう! 指輪は? 見せてよ」
「持ってきてないよー」
当の仁奈ではなく、周囲が盛り上がってしまったために、なんだかおかしなことになってしまった。
「プロポーズの言葉は? どこで? どんな服を着てた?」
「そんな、矢継ぎ早に訊かれても!」
「じゃあ5W1Hを順番にお願いします」
興奮を隠しきれない友人に、なんだか心が温まる。友人は不幸せであるより幸せであった方が嬉しい。そういう、優しい子がそれなりに集まったグループなのだ。仁奈だって、その中の一人であったはずだった。
彼女を変えてしまったのは私ではない。大学を二留して放校になり、一ランク下の大学に編入したはいいが、就活もうまく行かなかったと聞いている。ようやく手に入れた就職先の既婚の社員と恋に落ち、デートDVを受けた後、その社員は奥さんと元サヤに戻ったという話は、風の噂で耳にしている。――自業自得な面も多々あるとはいえ、そんなの病まずにいられるだけえらい。
辛い経験をしてきた彼女は、のんきでどんくさい私を標的にしたのだろう。――美雨よりは、私の方が幸せになったっていい。そう思わずにはいられなかったのかもしれない。
「ラストオーダーのお時間です」
「大丈夫です。お勘定、お願いします」
かしこまりました、と店員が頭を下げ、個室から出ていく。一人がメイクを直し始めると、皆こぞって自分のポーチを漁り始める。私もなんとなく、今日つけてきたリップを取り出した。
「美雨のそれ、どこの?」
唐突に、仁奈が私の手元を覗き込んでくる。
「これ? ……ああ、これはTwitte○でバズってたやつ」
「デパコスではないよね」
「うん。ドラッグストアにはあんまりなくて、どちらかっていうとロフ○とか、そういうバラエティショップに売ってる。もしかして、仁奈も持ってる?」
「プチプラだよね。ないない! 私、流行に盲目的に飛び付いたりしないし」
これも、ここ数年の恒例行事みたいになりつつあるから、最近ではなにも思わなくなっている。
「曲がりなりにも社会人なんでしょ? 恥ずかしくないの。結婚準備でお金がないなら、親に買ってもらえばいいのに」
「仁奈。美雨の彼氏さん、弁護士だよ。お金がないなんてことは、ちょっとあり得ないかな……」
正確に言うと弁護士の卵、司法修習生なので、まだあまり収入はない。しかし、わざわざ訂正するのも面倒だし、かばってくれた友人を否定する意味もないので、苦笑いで流しておく。
それ以降、仁奈が私に話しかけてくることはなかった。
「ねえ、美雨。無理しなくていいからね、嫌なことは嫌って言ったらいいよ。……大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。……むしろ、なんて言うか、仁奈こそ大丈夫かな、みたいな」
「それ、言えてる。……やっぱ美雨って、達観してるわ」
二次会のカフェに移動する最中、メンバーのうちの一人が声をかけてきた。たぶん、言われたい放題の私を心配したのだろう。
私は間違いなく幸せで、仁奈の戯れ言なんかにダメージを受けるような状態ではない。しかし、仁奈はどうなのだろう。周囲の人間が引いてしまうほどに、幼稚なマウントを取ることでしか自分を保てないのだとしたら。――いい年の大人が理性がまともに働かないほどに追い詰められているのだとしたら、彼女こそサポートが必要なのではないか。
「何? やっぱ先生やってると、そういう考え方になってくるわけ」
「先生関係あるかな」
「ほら、いじめ問題とかさ、あるじゃん。――いじめている側こそがサポートを受けるべきだって考え方」
なるほどね、と一人納得する。この間のいじめ事件をきっかけに、校内いじめに関する資料や本をかなり読んだ。その中に、そのような考え方がよく記されていたのだ――いじめをせずにはいられないような子どもは病んでいるのだ、と。いじめられた生徒に不登校を促すのではなく、いじめを行った生徒に指導とサポートを行い、学級への復帰を徐々に行うべきだ、と。
「うーん。まあ、そういうのもあるけどね、実際にはそのパターンだけではないよ。家庭環境にも成績にも問題はないのに、ただただ意地悪したいだけの人間っているじゃん。そういう子はまた別、救いようがない」
「辛辣ぅ」
実際、藤井をいじめていた本田らがそうであった。カウンセリング等も行ったようであるが、結局、これといった原因は特定されずじまい。強いて言えば甘やかされ過ぎて、忍耐力が備わっていない、という問題点くらいしか見つからなかったのだ。わが校に通う生徒は、一般に幸せな人間が多い。皆大切に育てられ、教育に多大なお金をかけられ、大体のわがままを許されて日々を過ごしている――かつての私や春子、そしてこの場にいる子たちがそうであったように。もちろん、悩みがゼロというわけではない。しかし、明確な悩みや辛さを有しているわけではないのに、無意味に他人を傷つけてしまう人間がいるということは、誰もがなんとなく肌で感じていることだと思う。
「でも、仁奈がそういうのじゃないってのは知ってるから」
「なるほどね。……わかった、私は仁奈のこと、これ以上ああだこうだ言わないようにするよ」
心優しい高校同期は、そう微笑んだ。
「だから、仁奈の味方はいなくならない。だけど、被害を受けたあんた自身は、怒る権利はあるからさ、あとは任せるわ」
強く、優しく、美しく。豊桜学園の生徒はこうあるべきと、教育されているのだ。
帰宅すると、春子が戻っていた。
「おかえり! 今日、指輪買いに行ったんでしょ? 早く見せてよ」
ああ、そうか。私は今更ながらに理解した。春子は、別に私に興味がないわけではない。彼女はあくまで他の幸せな同級生と同じなんだ、と。一時は自殺を考えるほどに追い詰められていたのかもしれない。しかし、今はそうじゃないんだ。バイトにも慣れ、新しい就職先の目処も立ち、私――原田美雨という、かつての親友だって、一緒に住んでいる。別に、私の結婚を妬むほどに病んでなんかいない、だから純粋な気持ちでおめでとうを言ってくれた、ただそれだけの話なのだ。
そうだよな、だって、私と住んでいるんだから。幸せに決まってるよな!
「ダイヤがちっちゃいとか言ったら怒るよ」
「言わないし」
私はお気に入りのドレッサーの引き出しを開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます