第11話
翌日登校すると、三島先生が話しかけてきた。
「原田先生、おはようございます」
「ああ、おはよう。昨日はごめんね、邪魔して」
「いえ、とんでもない。……あの、ひとつ質問してもいいですか?」
「どうぞ? 筋肉のこと以外なら」
「筋肉? ……えっと、昨日一緒にいたお友だちのことですけど」
「ああ、春子?」
「春子さんっていうんでしたっけ」
彼は何やら考え込む様子を見せた。
「上の名前って……」
「永野。永野春子よ。何? 気になる?」
そんなことないですよ、勘弁してくださいと三島先生は慌てた。
「いえ、ただちょっと知り合いと似た名前だなって思っただけです」
「そ。なんかあったらいつでも言いなよ」
牧野先生と三島先生、そして竹下先生がフリーなことは知っている。そしてその三人も、私に付き合って長い彼氏がいることを知っている。だいたい恋愛の話になると、セクハラ問題になりやしないかと少々ヒヤヒヤしてしまうのだが、いずれも向こうから勝手に言ってきた情報だし、私の彼氏情報についても、向こうが訊いてきたから答えただけなので、私はなにも悪くないということだけ付記しておく。
その日は、いよいよ翌日に迫った本田たちいじめっ子の親たちとの面会のため、対策委員のメンバーは準備に奔走していた。基本的には、江本先生から彼女たちに下される処分について、通知を行うこととなっている。
「いやあ……江本先生、大丈夫かなあ」
牧野先生が呟く。
「うーん、内心めちゃくちゃ辛いと思う」
「そうじゃなくて。……なんか、親御さんたちに
「まさか。この期に及んで絆されるはないと思うよ」
「でも、その『まさか』を毎回凌駕してくるじゃないですか。びっくりしましたよ、原田先生を疑うわ、藤井さんを傷つけるようなことを言うわ」
牧野先生の言葉に苦笑しながらも、たしかにそうだわ、と思うしかなかった。
「……絶対やりますよ、あいつ」
「あいつとか言わない」
牧野先生の言うことはもっともで、いじめのあったクラス担任として最もやってはいけないことばかりを行う江本先生に、正直辟易している。しかし、自分が江本先生だったらどうだろう、とたまに考える。基本的に、担任が悪かろうと悪くなかろうと、いじめは一定確率で発生する。そんな博打みたいなものに運悪く当たってしまい、自分だけが対応に奔走され、「あいつのクラス、いじめがあったって」と揶揄される。私が積極的に行動できたのは、あくまで第三者だったからではないか? 自分のクラスでいじめが生じたとしたら、本当に江本先生みたいになってしまわないと言い切れるか? しかも、自分より先にひよっ子教師にいじめを発見され、対応を急かされたら? 例えば末っ子キャラの三島先生が、中学二年C組のいじめを指摘し、強い口調で私に解決を迫る様子を想像すれば想像するほどに、やりきれない思いになる。
「原田先生。……明日の保護者面談ですが、原田先生も同席してください」
佐伯教頭が、唐突にそんな指示を出してきた。牧野先生があらら、と鼻で笑う。
「え、私ですか」
「ほかに誰が」
「江本先生一人でよくないですか」
「……書記でもやってもらおうかしら。ほら、言った言わないの問題になるとまずいですし」
「それも江本先生がすればよくないですか」
「第三者の目は大事よ」
暗に見張れと言われている。江本先生の行動に辟易しているのは若手教師だけではないみたいだ。
「分かりましたけど……私、何も言いませんよ、中三の担任じゃないですし」
「それは大丈夫、基本的に親御さんたちと話すのは江本先生だから」
そうであるといいんですけどね。私は吐き捨てるようにそう言った。
防犯カメラにより、靴を汚した現場を押さえられた張本人たちに下されたのは、出席停止三ヶ月ちょっと、つまり今年度いっぱい学校に来てはいけないという罰だった。あくまで中学校であり、義務教育の範囲内なので、停学ではなく、出席停止扱い。東からリークがあった他のいじめ首謀者たちにも、一ヶ月の出席停止及び反省文が課されることとなった。
当然、加害者は退学ですよねえ、なんていう嘆願にも似た意見が寄せられていると聞く。普段からのいじめ指導がおろそかになっていたという点で、いじめの責任の一端は学校側にあるため、加害者側に少々甘めの判断が下されたのだが、加害者側以外は永遠に納得しないだろう――基本的に世間の親というものは、自分の子がいじめの被害者になることを恐れても、加害者となることは微塵も考えないものなのだ。馬鹿げている、事実が全てだと一蹴できれば気が楽なのだが、残念なことに私は未婚だし、人の親になったことがない。そのような気持ちを本当の意味で理解することはできないから、ジャッジする権利なんて有していない。
業務時間後、智輝からのLIN○を確認した。
「お疲れさま! 今週末は会える?」
わずかな罪悪感を覚えつつ、私は「仕事が忙しくて難しそう」とだけ答えた。本当は日曜が空いているものの、春子が一日フリー、つまりずっと家にいるのだ。
「そうか、残念。身体には気を付けてね!」
シンプルなメッセージが可愛らしくて、可哀想だな、と感じた。
週末の楽しみがひとつ消えてしまった訳だが、楽しくもない平日は続く。いよいよ始まる中三A組の親たちとの個人面談。私は江本先生の後ろについて、いささか緊張していた。
「江本先生」
「本田さん。すみません、今日はお時間をいただいてしまって。それではこちらへ……」
慣れた仕草で、江本先生は相談室に招き入れた。
件の生徒の母親は、若くて美しい方だった。歯に衣着せぬ言い方をすると、娘とは似ても似つかない。
「……あの、うちの娘が」
「率直に申し上げますと、本田さんはいじめを行っていました」
江本先生の口から明確に、いじめがあったということを認める発言を聞くのは初めてだった。
「……どんなことをしたんですか、うちの娘。学校であったことをなにも話してくれなくて」
「藤井さんという生徒の靴を、泥水につけて汚したり、普段からシャープペンや消ゴムを捨てたり、悪口を言ったりしていた、という報告を受けております」
「……そうですか。本当にご迷惑をおかけしました」
申し訳なさそうに頭を下げる本田母。とても上品で、そんな方の娘があんなエグいいじめをするとは俄には想像がつかなかった。
「いえ、子どものされることですから……それと、今後のことなのですが、本田さんは今年度三月末まで出席停止扱いとさせていただくことが決定しました」
「……出席停止、ですか」
「はい。その間、恐縮ですがご自宅で学習を進めていただけますと幸いです。こちらでも教材は用意いたしますし、時折面談も――」
「それって、やっぱり書類に残るんですよね」
ひどく顔色が悪かった。
「書類というのは……」
「ですから、成績表とか……あと、大学受験の内申書とか、校内の記録とか。そういうのに一生残るんですか、出席停止三ヶ月、理由はいじめって」
「校内の記録は基本的に、卒業後処分しますけど――」
「ねえ、お願いします。そんなこと書かないで」
本田母は、その場で泣き崩れた。
「だって、娘はまだ先が長いんですよ? 就職だってしなきゃいけないし、結婚だって……それなのに、そんな処分があったなんて知れたら、一生の恥じゃないですか」
「お母様、大丈夫ですから……通常、中学の出席停止なんて、就活や大学受験で考慮されることはないですよ」
「そんなの分からないじゃないですか。……三ヶ月って、あまりに長いです、そんなの、誰だって理由を問いたくなりますよ。噂だって広まるし」
そうだよな。不安だよな。
「……そもそも、大したことしてないじゃないですか」
泣きじゃくりながら、彼女は続けた。
「靴を汚した? そんなの、娘がやったという証拠は」
「防犯カメラに映っていました」
「物がなくなったり、悪口を言われたり。……今までだって、よく聞く話だったじゃないですか、そんなの。私だって学生時代、しょっちゅう物を取られましたよ? ても、悪ふざけで終わらせるじゃないですか、学校って」
たぶん、それが間違っているのだと思うけれど。
「それが、娘だけ罰されるなんて、納得いかないです」
「本田さん、落ち着いてください。……罰だなんて、とんでもないです。これはあくまで、いじめはだめですという指導の一環、そしてトラブルのあった生徒との衝突を減らす目的もあります」
「それなら、その藤井とかいう子を一人休ませれば良いじゃない! その方が学校側としても丸くないですか、A組から三人も四人も長期出席停止者が出るより」
内心、笑ってしまった。無茶苦茶だけれども、そう思ってしまう気持ちは想像できる。中学時代の悪ふざけ。それが、一生影を落とすことになったら? そんなことより、周りと仲良くできない人間を学校に来させない方が、全てうまく行くのではないか? あってはならない。しかし、当事者はきっと、そう考える。
「……申し訳ございません」
江本先生は頭を下げた。
「どうして、娘だけ……一体、誰からの通報ですか。普通、防犯カメラまでチェックなんてしませんよね」
「申し訳ありません、通報者については教えられないことに……」
「教えてくださいよ、本人ですか? 藤井とかいう子がチクったんですか」
「いえ」
「じゃあ、他の生徒? そうなんですね」
「……あの、私、です」
いたたまれなくなって、手を上げた。
「私が、授業中に気づいて、……その、なんとなく注意して見ていたら、そういうことで、あの、」
唐突に言葉を発した私のことを、本田母は嘗めるように眺めた。
「……つまり、貴方が自分の株を上げるためにうちの娘を利用したってこと? 私はいじめを早期に察知できた、有能な教師ですって」
「そのようなつもりは」
「実際、そうじゃない! おかしいと思った、どうして中三に関係の無い貴方が毎回保護者会や個人面談に現れるのか。あんたがでしゃばって、私の娘の未来を……!」
そう言って、彼女は私に掴みかかった。ちゃちな椅子から転げ落ちた。ジム通いの筋肉痛が悲鳴を上げる。
江本先生は、そんな本田母を私から引き剥がした。
「大体なんなの! 貴方、相当若いみたいだけれど、どうせ子どもも居ないんでしょう? そんなんだから、人の親の気持ちが考えられない。学生と同じ目線で、正義に浸って喜んでんのよ!」
「本田さん、落ち着いてください」
江本先生に諭されたからなのか、好き放題言って満足したからなのか、本田母は再び椅子に座った。
「……申し訳ありません。そうですよね、今、厳しいですもんね。通報があれば、学校は動くしかないんですものね」
彼女は観念したようであった。
「……江本先生。この度は娘がご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんでした」
「いえ。……私たちとしましても、今後このようなことが起きないよう、全身全霊を尽くしますので」
こうして、個人面談第一弾を終えた。最後に、本田母が私を一瞥した際の、恨みのこもった視線が、とても印象的だった。お前の気持ち悪い正義のせいで、うちの娘の未来が奪われた。そう言いたいのだろう。
「……原田先生、怪我は」
「ないです、大丈夫です」
「そう、あなたも大変だったわね」
珍しい、江本先生の労いの言葉をありがたく受け取っておく。
「……あのとき、東さんの名前を出さなかったのは、偉いわよ」
「義務があるんで、学校側には。……いじめを通報してくれた生徒と、いじめられている生徒を守り通す義務が」
「研修で習った?」
「はい」
そう、と彼女は興味がなさそうな返事をした。
「だからって、わざわざ貴方が被らなくたってよかったのに」
「まあ、私が動かなかったら、こんな騒動になっていないわけですから。……それに、本田さんの母親からしたら、青天の霹靂な訳じゃないですか、優秀な娘がやらかすなんて。誰かに当たりたくもなります。ガス抜きをさせるならもう、私しか居なくないですか」
よくある話だが、クレーマーにせよ何にせよ、理不尽な怒りというものは理不尽だと突っぱねるだけでは解消されない。誰かがどこかで、ストレスボールになるくらいしか、解決策はない。
「……若いのに達観してるのね」
「まあ、私は習ったことや決まっていることを淡々と行うのみですよ。……残念ながら、保護者の方の気持ちとか、そういうのあんまり分からないんで、指標はそこにしかありません」
ここらでひとつ、江本先生に媚でも売っておこうか。
「やっぱあれですかね、子どもの一人や二人産んでいないと、一人前の教師にはなれないんですかね。正直、本田さんのお母様の言葉を聴いても、なーに言ってんだとしか思えませんでしたし」
へへっ、と笑うと、江本先生はそんなことない、と首を振った。
「貴方がこれから先、どういう人生を送るか分からないけれど……絶対にそんなことはない。もちろん、子どもを持つことがあれば親御さんの気持ちは分かるようになるかもしれない。でも、そうじゃないからこそ、正しいとされているマニュアルをちゃんと実行できる、そういう教師だっている。どっちだって必要なのよ、そうじゃなかったら、既婚子持ちの方しか採用しないじゃないの」
「……確かに、おっしゃるとおりなのかもしれませんね」
珍しく熱く語る江本先生は、私が初めて見る表情をしていた。
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