第8話
「あれ? 原田先生、お弁当だ。珍しいですね、先生が作ったんですか」
春子が弁当を作ってくれるようになって、一週間以上が経過した。昼休みに提出物を届けに来た中学二年生の生徒が、私に声をかける。
「えっと、そう」
「へえ。原田先生って、ちゃんと料理とかするタイプだったんだ」
私は曖昧に微笑んだ。本当は春子が作ったものを自分の手柄のように言うのは、いささか罪悪感があった。しかし、春子との同居の話などしたら、あっというまに噂になってしまうだろう。今年度から担任を持つこととなった身としては、そういう面倒事は避けたい。ましてや相手は、私が担任を務めるクラス、中学二年C組の生徒なのだ。
「たまにはね。健康にも気を遣わないと」
「料理くらいできないと、結婚もできないしねー」
わが校は男女別学ではあるものの、特段男女交際を禁止しているわけではない。しかし、多くの生徒が各家庭で恋愛を禁止されている(私自身も、自分の就職が決まるまでは恋愛をしてはいけないと強く言われていた)。――だから、担任教師の恋愛・結婚事情に興味を持つしかないのだ。
責任と同時に、自由を手に入れた今だからこそ、不自由な身の生徒たちを少しだけ可哀想にさえ思っている。だから、生徒の無神経な発言にイチイチ腹が立つことはない。智輝の就職先の弁護士事務所が決まり次第、結婚することになるだろうという余裕が、そうさせているのかもしれない。
「料理はね、高校卒業するまでにはある程度覚えた方がいいよ」
「なんでですか? 私、実家暮らしのまま大学まで通うつもりですけど」
「ある程度包丁や火が使えないと、友だちの家に遊びに行ったときに困る。……鍋パーティーとか、たこ焼きパーティーとかね」
「へぇ」
「あと、昼休みに自分の好きな食べ物を食べられるのは、やっぱりQOLが上がるのよ。……そうそう、家庭科の調理実習はいまだに役に立ってるよ」
春子の作った弁当の中にある、鮭のムニエル。私がたまに作るものと非常に似た味がして驚いたのだけれど、おそらくこれは、中学三年生の頃の調理実習で作ったものとほぼ一緒のレシピ。ミニハンバーグも、おそらく学校で習ったものをアレンジしている。
「……今度の調理実習は皿洗いばっかりしてないで、ちゃんとやってみようかな」
「怪我しないように気を付けて、ぜひ積極的に参加してみて」
自分のプライベートから話を逸らそうとした結果、なんだか教師っぽいことを言っている。そんな自分がなんだかこっ恥ずかしい。
自クラスの生徒の相手が終わると、私は弁当箱を片付け中学棟の三階へと向かった。相変わらず、中三のいじめ問題の証拠探しは続いている。担任ならまだしも、普通に過ごしていると、そもそも中三の生徒と接する機会すらない。私は校内を移動する度、わざと問題のクラスの横を通るようにしたり、下駄箱付近を彷徨いてみたり、と見回りを強化している。それしか方法は思いつかない――仮にそれで証拠が見つからなかったとしても、私が頻繁にうろうろすることで嫌がらせを行いにくくなるのなら、それはそれで結果オーライ、といったところである。
「あー、原田先生、こんにちは」
「こんにちは」
時おり、挨拶をしてくる生徒が居る。警戒するような目付きでこちらを見る生徒も居る。私の立ち位置は、そんな感じ。教師として最低限の仕事はきっちりと行い、授業も無難にこなすために、信頼を置いてくれる生徒は一定数居る。一方で、OGのくせに秘密主義で、自分の学生時代やプライベートをほぼ語らない私に対して、苦手意識を持つ生徒もかなり居る。子どもって、その辺とても分かりやすい。
今日も今日とて、特に異常は見つからず。安堵と落胆の混じったため息をついた。今学期中に何事も無ければ、おそらく私は教頭にこっぴどく怒られる。まあ、クビになることは無いだろうから、叱られるくらいは甘受するしかない。
「こんにちは、藤井さん」
「……こんにちは」
嫌がらせを受けている藤井という生徒とすれ違う。相談に来てくれた東と、少し雰囲気の似たまじめそうな生徒。嫌がらせを受けるのは、必ずしも美人でもないし、必ずしもまじめそうな生徒というわけでもない。偶然、その時に気に入らなかったから。それだけの理由で、人間はいじめに走るのだ。藤井は学校指定の、エコバッグにも似たような袋を腕に下げていた。その袋は余程たくさんの物が詰め込まれているのか、大きく膨らんでいた。
そもそも、登下校時でもないのに、校内でそんなにたくさんの荷物を持ち歩くなんて、不自然ではないのか。「物がなくなったり、壊されたりするといけないから、なんでも持ち歩くようにしてるの」――高校二年生の六月、春子に対する軽い嫌がらせや悪口が始まったとき、彼女がトートバッグにいろんなものを入れて持ち歩く姿を見て、被害妄想も過ぎるだろ、と口には出さないものの思っていた。しかしその一週間後に、うっかり教室に置き忘れた弁当を勝手に捨てられたのを見て、春子の言うことは正しかったのだと実感した。同時に、進学校ですらこんなにもくだらなく、ひどいことをする生徒がいるのか、とがっかりしたのを覚えている。
「えっと、ごめん、藤井さん」
「……私ですか」
「ちょっと話があって。この後十分ほどお時間大丈夫?」
「大丈夫ですけど……提出物ですか」
「……生徒相談室で話そう」
思わず声をかけてしまったけれど、本当にこれでよかったのだろうか。
「……それ、東から聞いたんですよね、どうせ」
「職員室で、そういう話が出ているよってだけ。とりあえず、藤井さんが辛い思いをしていないかだけ、確認したくて」
「私はいじめられてなんかいません。不名誉な言い方をされても困ります。……それは、嫌なことを言ってくる奴らは居なくもないですけど、誰にでもやっていることですし。そもそも、どうして原田先生が? 担任は何か言ってます?」
「……江本先生も心配していらっしゃる。だからもし、話がダブったりしたらごめん」
「とにかく、心配なんていらないです」
迷った末、私は明確に「いじめ」という言葉を使ってしまった。問題をきちんと認識していることを示したかったから。しかし、藤井のような生徒にとって、そのような対応は逆効果だったのかもしれない。彼女は「不名誉」という言葉を使い、いじめの存在を否定した。
「そうですか。……嫌な言い方をしてしまっていたら申し訳ない」
ミスったな、と思いながら、高校時代の春子を思い出す。彼女は彼女で、非常にプライドの高い生徒であった。嫌なことがある度に死にたいという春子に向かって、スクールカウンセラーに相談したら、とアドバイスをしたことがある。そのとき、私は思いっきり頬を叩かれたのだ――そう、私が春子にビンタをされたのは、何もあの若手会の日、春子を拾った夜のときだけではない。そのときの春子の台詞を思い出す。――「そんなことをしたら、私がいじめられているみたいじゃん!」と。
「でも」
でも、そう思うこと自体が、間違っているのだと思う。
「どんな理由があるにせよ、社会に出れば悪口や誹謗中傷は侮辱、名誉毀損になる。ものを壊せば器物損壊、汚いものをかけられたり、痛い思いをさせたりすれば問答無用で傷害罪。――学校で物を隠されるっていう話はよく聞くから、感覚が麻痺しているかもしれないけれど」
「だから、そんなにエグいことされてませんって」
「エグかろうと、エグくなかろうと、嫌がらせはする方が悪いし、恥ずかしい目にあうのも向こうっていう話」
藤井はそれ以上、何も言わなかった。「エグいことはされていない」「嫌なことを言ってくるやつは居ないでもない」――これらの曖昧な発言を聞くに、いじめがあると断言してよいだろう。
チャイムが鳴る。
「また何かあったら、いつでも話聴くから」
こういうとき、どういう言葉遣いをすればいいのか、少々困ってしまう。私の口調は、どこか冷たい印象を与えることがあるのだ。
その日の放課後は週一で活動が行われる数学部の活動日だった。顧問を務めているので、今日もまた帰るのが遅くなってしまいそうだ。
「原田先生、そういうわけで次週は数学部クリスマスパーティーということでよろしいでしょうか」
「ええ、問題ありません」
懐かしいな、と思いながら私は彼女たちの話を聴いていた。高校時代、私は映画同好会に入っていた。週に一度、映画を観るだけの緩い部活動であったが、そこでもささやかながらクリスマス会を開いた記憶がある。春子はどうしていただろうか、今となっては思い出せないけれど、確実に、そこに居たことだけは覚えている。
「プレゼント交換は、五百円以内のもの。コスチューム等着用の際は、その旨届け出を出してくださいね。火気使用厳禁。それだけ守ってもらえれば特にこちらからは言うこと無いかな」
「コスチューム……サンタの帽子くらいなら別に大丈夫ですよね?」
「いや、書類を出していないと、他の先生に見られたときに没収されてしまうから提出しておいて」
これだから頭の固い学校は。そう呟く生徒たち。分かる。届を出したからって、なんなんだろう。しかしここ最近、江本先生の代わりに(有るかどうかすら定かではないとされている)いじめ問題に取り組むにつれ、分かってきたことがある。物的証拠というのは、自分を守ってくれるものなのだ。メールという媒体で、いじめ相談を受けたことを周知する。いじめの物的証拠を見つけてこいと命令される。「顧問の先生に許可をもらっています」ということを証明するために、制服以外の服を着用する届出を提出する――
ただ、その物を見たときに、それをどう解釈するかもまた個人の裁量に任されている部分が大きいという問題は、別途ある。
夕方五時半過ぎ、数学部の活動から解放された私は、職員室に戻るべく一階の廊下を歩いていた。
ふと思い立ち、中三の下駄箱付近を通ることにする。なるべく足音を立てないように、ゆっくりと。
ぱたぱたと足音が聞こえ、私は立ち止まる。
「誰もいない?」
「大丈夫そう」
節穴かよ、と言いたくなるのを抑え、私は息を殺し、壁に隠れる。中三A組の生徒、しかも主体的にいじめを行っていると東からの報告があった本田という生徒がその中にいた。
「じゃあ、やっちゃおうか」
そこからの光景は、まさに私が想定したとおりのものであった。彼女たちは下駄箱から一足の靴を取りだし、持参した泥水の入ったバケツにそれを突っ込んだのだ。
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