海月になりたい君
青下黒葉
渚の少女
毎日がつまらないと感じる。騒がしいこの教室に、友達なんかいないし都会から田舎に引っ越してきて楽しめる場所もなくなった。唯一落ち着ける場所は帰り道の浜辺だけだ。
「転校生は夏休み何すんの?」
窓の外を眺める僕に話しかけてきたのは友達とも言い難い凌平だった。こいつは僕がここに転校してきた時からずっとこんな感じで話しかけてくる。良い奴なんだろうけどノリがよく分からない。
「夏休み?」
「そ! 明日から夏休みじゃん?」
そうだ。明日から夏休みなのか。
空を眺めると、濁りのない青いプールをカモメが泳ぐ。
前の学校には友達がいっぱい居た。行く場所もいっぱいあった。それでもここはなんか落ち着く。
「何すんの?」
「なんだろなあ」
「なんだよ、その返事」
そう言って凌平は笑う。前の学校だったら「つまんな」って言われてたなあ、なんて思いながら笑い返してみた。「笑えたんだ」やっぱりノリがよく分からない。
「分からないだけ」
「何が」
「さあな」
僕は逃げるように教室を出た。別に逃げたかったわけじゃない。正直嬉しかった。少し近づけた気がして。でも僕はそれ以上にこの夏休みが楽しみだった。
靴を岩の上に置いて足首辺りまでに水を感じた。数分後にはきっと捲りあげたズボンもびしょびしょだな。
遠くで小学生達がランドセルを背負って帰っていくのが見えた。その後を自転車を押しながら並んで帰る高校生。同じ学校だ。しかも同じクラスの。「あの2人付き合ってたんだ」バレないように岩の裏の方に隠れた。隠れる必要性ってなんだろうなんて今更になって思ったけど、転校生が1人こんな所で黄昏てるなんて不気味だよな。
2人の背中を見届けるとまた同じ場所で水を蹴る。視界の上の方に何か映った気がした。ゆっくりと顔を上げてそちらの方を見てみる。それがしっかりと僕の網膜で像を作り上げた。その姿に鼓動が早くなっていく。
目の前-20m先くらい-にさっきまでいなかったはずの場所に少女が僕と同じように海に入って黄昏ていた。その横顔はとても綺麗だった。何の衝動に駆られたのか。僕は彼女に話しかける以外の選択を選ばなかった。少しずつ彼女に近づく。心臓がうるさい。僕に気づいた彼女は僕に顔を向けた。
「ひまわり」
麦わら帽子から抜け出した黒く長い髪。綺麗な茶色い瞳。溶けてしまいそうな白い肌。華奢な肩幅。こんなにも、絵に描いたような人間がいるのだろうか。
「君は。見た事ないね」
声も笑った顔も素敵だった。魅力的、とはこの事を言うのだろう。
「先月越してきたんだ。君はずっとここにいるの?」
「うん。ずっとここにいる」
「……そっか。はじめまして」
彼女は何も言わずに頷いた。僕は急に緊張を感じて俯いて頭をかいた。
「クラゲって知ってる?」
唐突に彼女はそんな事を言い出した。
「……知ってる」
「クラゲってねー死ぬと溶けちゃうんだって」
「え、何それ」
「不思議だよね。でも本当らしいよ」
本当なら僕が今浸かってるここの部分に溶けたクラゲがいるってこと? そんな事、考えただけで気持ち悪い。
「私、クラゲになりたいんだ」
「え?」
僕はそれ以上の言葉が出てこなかった。彼女もそれ以上何も言おうとしなかった。そんな時間がしばらく続いた。先に口を開いたのは彼女だった。
「私もう行くね! またここで会えるといいね」
そう言って微笑む彼女に僕は手を振る事しか出来なかった。小さくなっていく彼女の背中を僕は見えなくなっても追い続けた。気がついた頃には空はオレンジ色に染まり、昼間のカモメはカラスに変わっていた。急いで家路に着く。その足取りはとても軽やかでこのまま空を飛べそうな気がした。そうして、濡れたズボンの裾を落ちてこないように捲りあげたまま、僕は家にたどり着いた。
次の日も僕はここに来ていた。別に待ってるわけじゃない。待ってるわけじゃないけどソワソワする。そもそも、彼女だって明日来るなんて言ってなかったじゃないか。「またここで会えるといいね」って言ってただけだし。
昨日彼女がいた場所に目をやる。やっぱりいない。
「あと5分だけ、いてみようかな」
そんな事を言いながら結局30分延長してしまった。行きたい所は他にもいっぱいあるというのに。ここから見えるあの山の中腹にある展望台みたいな所とか帰り道にあるトンネルにも入ってみたい。あそこから見える海、きっと綺麗だと思う。それに家の裏の神社も行ってみたい。雰囲気がなんかいい。
「帰ろう」
そう言って振り返った時、砂浜に下りて来れる階段に彼女は腰をかけて海を眺めていた。
「やっぱり来てたんだ」
彼女と目が合う。そして優しく僕に微笑みかけた。ゆっくりと階段を下りて、僕の方へ歩いてくる。
期待なんてしていない。していなかった、はず。なのに、どうしてこんなにも君に会えたことが嬉しいのだろうか。
「最近引っ越してきたばっかりなのに、ずっとここにいるの? 他に行きたい所とかないの?」
「え、あーあるよ。でもここに来ちゃった」
「なんで?」
ここに来る事が習慣になっていたからなのか君に会える事を期待していたからなのか。恐らく後者だ。
「……あー、あの! 僕、行きたい所あるんだ。案内してくれない?」
そう言いながら僕は山の中腹にある展望台を指さした。彼女は僕の指先を追うようにしてそこを見る。
「……いいよ。着いてきて!」
彼女は浜辺に足を取られながら僕の先を歩いていく。彼女の足首には海を想像させるような青い綺麗なアンクレットが揺れていた。前の飾りはイルカかな?
「イルカってね、寝たら死んじゃうんだよ」
「え?」
僕の方を見ずに彼女がそんな事を言い出した。丁度僕がイルカのことを考えているのを見透かされたのかと思いドキッとした。そういえば昨日も彼女はいきなり雑学的な事を言い出したな、なんて思い出した。
「イルカは頭のてっぺんに鼻の穴があって、そこを水面に出して呼吸するんだけど、完全に寝ちゃうと水面に出れなくなるから、数分おきに片目を閉じて脳を半分ずつ休めてるんだって。しかも1日300回以上も!」
「器用だね」
「そこ? 300回だよ?」
「うん。でも僕は片方ずつなんて器用な事出来ないなぁ」
彼女は僕の顔を不思議そうに覗き込んできて「君、変わってるねぇ」ってニヤニヤしながら言ってくる。
「嫌いじゃない!」
「やっぱり変わってるのかなぁ。周りに馴染めないのもこれが原因だったりして。絶対そうだよなぁ、ってあれ?」
さっきまで隣にいた彼女がいない。
「こっちだよ!」
数メートル後ろの方で彼女が僕に大きく手を振る。僕は慌てて彼女に駆け寄る。
「こっちなんだ」
「皆はきっと知らないけどね」
それから僕らは他愛のない話をしながら展望台を目指した。そのうちにわかった事は、彼女がとても海の生物が好きで海自体が大好きなのだと。だけど水族館には行ったことがない、という事だった。
「あとちょっとだよ! 頑張ってー!」
みんなが知ってるルートより楽だと聞かされていたにも関わらず、僕は山道に体力を奪われた。
「きっつ。ホントに楽なのかな」
そんな僕を、彼女は上から眺めている。登り始めてから全然疲れてなさそうだ。ひょいひょい登っていく彼女をゆっくりと追いかけるので精一杯。
「君ー、体力ないなぁ」
「……この道、ホントに楽なの?」
「イージーコースですよー。でも安心して! もう着いたから!」
彼女が両腕を大きく広げた。その奥には、僕が想像していた以上の光景があった。
キラキラ輝く海。空と海の境界線。釣り人と防波堤。木漏れ日。緑と潮の匂い。
「凄い……」
毎日来たい。体力つけよう。カメラとか持ってこようかな。海行くかここ来るか悩むな。お気に入りの場所増えたな。色んな考えが僕の中で渦巻く。
「ここね、私のお気に入りの場所なの。いつもここに来て何もしないで時間過ごして、何もしないで帰るの。それでもなんかいいんだよね」
彼女はゆっくりと近くにあるベンチに腰をかけた。いつもこうしてここに居るんだ。その様子を何となく想像してみる。想像だけど柔らかな音楽が流れてそうだ。
「君が行きたい所。全部私が連れて行ってあげる。明日はどこに行ってみたい?」
明日。その言葉がどれだけ貴重な物なのか身に染みた。昨日の僕はこの言葉を期待しまくってた。
「明日はね、トンネル行ってみたいかも」
「お任せあれ!」
胸を叩いてニカッと笑う。
しばらくそこで、また色んな話をして、頃合いを見て僕らは別れた。目に映る景色全てが期待でいっぱいだった。1人で行くはずだった場所に彼女と2人で色んな話をしながら楽しめる。想像しただけでワクワクする。
「夏休み最高じゃん」
僕らはあの日からほとんど毎日のように2人で色んなところに行った。1度行ったところにも何度も一緒に行って色んな話をした。
そして今日は町を出た。どうしても僕は彼女を水族館に連れて行きたかった。いつも連れて行ってもらってたお礼も含めてだ。もちろん、この提案に彼女は否定するわけもなく、8月の半ば、僕らは入念な計画の基、水族館に向かった。向かう水族館は僕が元々住んでいた時の、最寄りの水族館だ。
「楽しみ?」
「もちろん! あーこんな日が来るなんて思ってなかったよ。ホントにありがとね?」
「いえいえ」
いくつか乗り換えを挟んでお昼前には最寄り駅に到着した。水族館に入る前にお昼ご飯を食べて予定通り12時半に入館した。
大きな水槽を泳ぐ小さな魚とかブサイクな魚とかを見ながら僕らはゆっくり館内を回った。彼女は無邪気に楽しみ、色んな雑学を僕に披露した。
「次だよ」
「何が?」
僕が今日、ここで1番彼女に見てもらいたかったコーナーに到着した。先程とは一変、周りは暗くなり、転々と配置された小さな水槽にだけ柔らかな光が灯されている。
「ここって……」
彼女は言葉を失っているようだった。
水槽の中を優雅に泳ぐクラゲを、彼女は静かにそれでも驚いた様子で眺めた。
「初めて会った時、クラゲの話してたの印象的でさ、このコーナー来るの楽しみにしてたんだ」
彼女はクラゲから視線を外して僕を見る。
「……そっか。そうだね」
一瞬、彼女が悲しそうに笑った気がした。
「そろそろイルカショー始まるよ? 行こっか」
そう言って彼女はそそくさとその場を去っていく。間違ってたのか? てっきり僕は、彼女がクラゲが好きなのだと思い込んでいた。なりたいと言うくらいだ。さっきの表情も気になる。不快にさせてしまったかもしれない。
急いで彼女を追いかけた。
水族館を出た頃にはそれは少し薄暗くなっていた。クラゲを見た時から彼女はどうも元気がなかった。それでも僕には、どう声をかけてあげることが正解なのか分からずにいた。
「今日は本当にありがとね。初めて水族館来れてよかった」
「ううん。僕も久しぶりで楽しかった」
その後のことはあまり覚えていない。20時くらいには家に着いていた事だけを覚えている。確か別れ際「遅くまでごめんね」「ううん。大丈夫。じゃあね」っていう会話をしたような気がした。そこに「また明日」という言葉がなかった事がどうしても引っかかって、眠りについたのは日をまたいだ頃だった。
そして次の日、彼女は消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます