祝福(2)

 父と母は、しばらく言葉もないままベッドの中の晴と湊を見つめた。

 両親が安心できる存在であることを感じるのだろうか、晴も湊も穏やかな表情で二人を見上げ、小さな手足をパタパタと動かしている。



「——初めまして。晴、湊。

 確か、柊も生まれたばかりの頃、晴みたいに髪が黒くてツンツンしてたな。

 ……わかるか? おじいちゃんだぞ」

 やっと、父が優しい笑みを浮かべて静かに口を開いた。


 母も、どこか泣き出しそうな優しい眼差しを二人に注ぐ。

「生まれたての赤ちゃんって、こんなに小さいのね……もう随分昔で、すっかり忘れてちゃってたわ。

 ……少し触れてもいい?」


「うん。たくさん触ってやって」


 二人は、その小さな手に指を触れてきゅっと握手を交わしたり、できたての髪をそおっと撫でたりしながら、愛おしさの溢れる微笑みで子供達を見下ろす。



「——あったかくて、柔らかい。

 二人とも、こんなに元気一杯で。 

 ……まだ夢を見てるみたいだわ」


 母が、小さくそう呟いた。

 

「あなたのお腹にいる赤ちゃんは、どんな子達だろうって……ずっと想像してたのよ。

 幼い頃のあなたの笑顔を、何度も思い出しながら……きっと、同じように笑顔の優しい、元気な子たちに違いない、って。

 ずっと、二つの小さな顔を思い描いてた。

 ——二人とも、想像してた通りだったわ」


 微笑みながらそんなことを言う母の瞳が、見る間に大きく潤み——次々に、涙が零れ落ちた。



「あなたが妊娠してるって……これまでに前例もないのだし、その危険度が高いことを知りながら、そういう道を選んだと聞いたときは、内心とても不安で、複雑だった。

 わざわざそんな険しい道を選ばなくても……何度も、そう思った。

 でも——毎晩、寝付くまでの時間をそんなことを考えながら過ごすうちに……少しずつ、気持ちが変わっていったの。

 いつも真っ直ぐに物事を考えて、何に対しても深い愛情を向けられるあなただから、この道を選んだのだと。

 妊娠の可能性を与えられたあなたが、この道を選ばないわけがない、と。

 そう気づいたわ。


 こうして今日、生まれてきた子たちに会って、改めて思った。

 ——あなたは、やっぱり私たちの最高の息子だって」


 涙の止まらない眼差しを真っ直ぐ俺へ向け、母はくしゃっと崩れたような笑顔を浮かべた。



「二人とも、本当に元気で可愛い子達だ。

 ——神岡さん。柊をしっかりと支えてくださって、ありがとう」


 父が、胸の詰まったようにぎゅっと顔をしかめ、神岡へ向けて深く頭を下げた。


「いいえ。僕は本当に、何もできなくて……

 柊くんだからここまで来られたんだと、改めてそう思います」


 神岡の言葉に父は嬉しそうに微笑み、微かに声を震わせながら俺に言葉を向ける。


「素晴らしいパートナーと優れた先生に出会えて、本当によかったな、柊。

 お前と神岡さんなら絶対に大丈夫だと、私も母さんも、ひたすらそれだけを信じ、心で繰り返していた。

 それでも——仕事の合間に母さんと電話で話す度に、母さんの心配ぶりが声で伝わってきてな……お前の体調ももちろんだが、同時に母さんのことも気がかりだった。

 ただでさえ忙しい毎日を過ごしている上に、心労が重なってはいないだろうか、と。


 前例も一切ない中で、もしもお前の身体に予期しない何かが起こったら……私も、そう考えると居ても立ってもいられなかった。

 神岡さんから、無事出産を終えたと連絡をもらう瞬間まで、毎日祈るような気持ちで過ごした。

 恥ずかしい話だが、連絡をもらってからずっと、私も母さんも泣きっぱなしだったんだ。

 ——嬉し涙っていうのも、とめどなく出るものなんだと、初めて知ったよ」


 ずっと心にしまい込んできた思いを一気に解放するようにそう言うと、父は新たな涙を滲ませた。



「——……」


 父と母のそんな姿は、本当に初めてで——

 俺も、まともな返事も返せないまま、小さな子供に戻ったようにどんどん溢れ出てくる涙を手の甲でぐしぐしと拭った。



「そんな風に手の甲でゴシゴシ涙を拭くところ、小さい頃と全然変わらない」

 母が、涙声でそう笑う。


「——きっとこの子たちも、君に叱られたらそうやって涙を拭くんだろうな。

 ね、柊くん」

「俺はそんなガミガミ叱ったりしません」

「さあどうかな?」


 神岡のそんな悪戯っぽい言葉に、俺も思わず泣き笑いになった。









「——それから今日は、柊と神岡さんにあるものを渡したくてね。

 な、母さん」

 ひとしきり孫と触れ合った満足げな顔で、父は少し改まった声で俺と神岡の方を向いた。


「ええ。喜んでもらえるといいんだけど」

 母も、背中にプレゼントを隠した少女のように楽しげに微笑む。


「え……何だろう?」


 父が鞄から取り出して俺に手渡したのは、大きなサイズのファイルだった。

 中を開いてみると、そこには立派な一戸建て住宅の詳細な設計図が完成している。


「……父さん、母さん、これ……?」


「二人の男の子が育ってくれば、お前たちのこれまでの部屋ではいずれ手狭になるだろう?

 もし、今後一戸建てなどに住み替える予定があるなら、この家を二人にプレゼントしたいと思ってね——まあ、私たちからの出産祝いみたいなものだな」

「もちろん、私と父さんの共同デザインよ♪ なかなかいいでしょう?」


 そう言って、父と母は揃って満面の笑みを浮かべた。



「——……」


 俺は、改めてまじまじとその設計図を見つめる。

 神岡も隣で一緒にファイルを覗き込み、何か緊張の張り詰めた息をぐっと呑み込みながら独り言のように呟いた。

「……三崎さんご夫妻の共同デザイン住宅なんて……

 普通に注文したら、一体どれだけするか……」

「ははっ、そんな大袈裟なもんじゃないだろ?

 でもまあ、仕事の合間に母さんとデータやりとりしたりしながら、お互いに納得のいくものにするには結構手間もかかったがな」

「私たちのこだわりをぎゅうぎゅう詰め込んだから、ちょっとアグレッシブなところもあるかもしれないわねー。USB渡すから、修正したい部分があれば二人で好きなように手直ししてちょうだい♡」



「……ありがとう……

 二人の気持ちが詰まってて……ちょっと嬉しすぎる……


 ……あの——父さん、母さん」


 これを伝えなければ、この贈り物は受け取れない。

 俺は、ずっと胸に重たく居座っていた思いを、やっと口にする。


「どうした、柊?」


「——ごめん。

 ……本当だったら、俺は三崎家の後継ぎで……それなのに。

 何か当然のように、晴と湊を神岡家の籍に入れると決めてしまったけれど——本当なら、俺が奥さんをもらって、その子供が三崎の姓を引き継いで……そんなことを、二人とも願っていたんじゃないかと思うと……

 ……自分勝手で、本当にごめん」



「……ん?

 お前の選択のどこが間違ってるんだ?」

「そうよ。

 それ、謝るようなことかしら?」


「……」


 両親の予想外のリアクションに、俺はちょっと肩透かしを食ったような気分で二人を見つめた。



「家の存続も、大切なことなのかもしれないが……それは、個人の幸せと並べて考えるようなものじゃない。

 私は、そう思うよ。

 どうしても引き継がねばならない家柄や何かがあるならば、話はまた別だが——そうでないなら、個人の幸せを犠牲にしてまで存続しなければならない理由など、何もないだろう? 絶たれる理由があったのならば、それはやむを得ないことだ。

 そう考える方が、よほど自然じゃないか?


 今は、昔とは違う。大切な何かを犠牲にしてもそれにこだわらなければならない時代は、もう終わったのじゃないか。

 これからはもう、あまり小さなことに固執せずに自分の幸せを掴める時代になる——そうであってほしいと、心から思うね」


「それに、あなたの血は、これから神岡家の中で役立っていくのだもの。『絶たれた』なんていう言い方は、全くおかしいわ。

 ……まあ、私たちはそんな気持ちでいるってことよ」


 さらりとそう語る両親の穏やかな笑顔が、たまらなく心に沁みて——改めて深い幸せを噛み締めつつ、俺は手の中のファイルを見つめた。



「……二人から、その気持ちを聞けて……ほっとした。

 このプレゼント、やっと心から受け取れる気がする」


「お義父さん、お義母さん。本当に、ありがとうございます。 

 暖かいお心遣いと、こんなにも素晴らしい贈り物を……なんとお礼を申し上げたら良いか……」 

 神岡も、改めて両親に深く頭を下げる。


「いやいや、喜んでもらえたならば嬉しいよ。 

 因みにマイホーム建設の際は、その費用もこちらで持たせてもらおうと思ってるからな」

「え……そんな、それはダメです! そこは当然僕たちが……」

「いや、設計だけなんて中途半端な話はないじゃないか。それでは私たちの気が済まないよ」 

 なんとなく和やかな押し問答が、次第に本格化の様相を見せてくる。


「どっちも言い出したら頑固だから……」

 そんなことを呟きつつふと時計を見上げ、俺の心臓は思わずどきっと飛び上がった。

 神岡の両親がここに来る予定の午後5時まで、あと5分もないのだ。

 なんだかいろいろな思いで胸がぎゅうぎゅうになりっぱなしで、時間を忘れていた。

 ここで、これから両家の両親の大事な初顔合わせが始まるのだ。しっかり気持ちを整えて臨まなきゃいけないんじゃないのか??


「あ、あの……樹さん、時間……」

「柊くんちょっと待ってくれ、今大事な話してるから」

「それはわかりますが……」


 アワアワとする俺の不安などそっちのけで、神岡と父のガチな押し問答が続く。

 案の定、そんなやりとりの真っ最中に、病室のドアがノックされた。


「……あ……

 5時じゃないか……」

「だから言ったのに!」

「おお、そうでしたな!

 ここで神岡さんのご両親にお会いできるなんて……ああ、一気にドキドキしてきました」

「すごく緊張するわね……!!」

「いえ、緊張していただくようなあれじゃないんで、今まで通りでお願いします」


 そう言いながらドアを開けた神岡の向こうに、明るい笑みの神岡の両親が立っていた。



「お邪魔いたします——初めまして。神岡樹の親でございます。

 神岡充と、妻の麗子です」


 彼らは、穏やかに整った佇まいで俺の両親へ向けて深く一礼する。

 その堂々たるオーラに、二人とも改めて深く頭を下げ、挨拶を返した。


「初めまして——三崎柊の父、りょうと、母の香奈子でございます。

 柊が大変お世話になっております。……そして、この度は息子の出産を支えていただき、ありがとうございました。深く御礼申し上げます」


「いいえ、とんでもない。

 お二人のご高名はかねがね存じ上げております。——そして、我々の息子が柊くんのような素晴らしい方に巡り会えたことを、心から幸せに思っております」



 そうして、二組の親たちは初めて穏やかな笑顔を向かい合わせた。


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